我が輩は俳句である
川崎果連
我が輩は俳句である。(笑)この名前を誰が何時つけたのかはよくわからない。それはまあ、どうでもよい。これから諸君のためになる面白い話をするので最後まで読んでくれたまえ。
まず言いたいのは、我が輩のことをよく知らぬ凡人どもが我が輩についてあれこれ勝手なことを言い過ぎるということ。なかには俳句は下手くそなくせに御託だけは一丁前で、そのうえあろうことかその意味不明の御託を飯の種にしているひどい輩もおる。そのことに断固抗議する。そしてこの際、こういう理不尽な状況がさらに悪化しないように我が輩の素性について我が輩自身が明らかにしておくことにする。
我が輩の出生地は日本である。自分の年齢はよくわからない。300年くらいは生きているような気がする。もっと長いかも知れないしもっと短いかも知れぬ。家系についてもよくわからないが、重要なのはいわゆる「戦後」すぐの 1947(昭和22)年に、我が輩の両親の身分が日本国憲法によって明確にされたということである。
我が輩の両親はこの国の国民である。どっちが父でどっちが母かなどという些末なことはどうでもよい。とにかく両親がいて我が輩は生まれた。我が輩の両親の名は「作者」と「読者」である。互いに作者になったり読者になったりすることも多く、実に合理的かつ効率的な間柄となっている。
この両親がこの国においてどういう立場なのかが重要なのだが、それも日本国憲法にちゃんと書かれている。ちょっとみてみよう。
★第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
これが「国民」たる我が輩の両親である。実に魅力的だが、条文そのものも気取り屋がよく好む歴史的仮名遣いというところはサービス満点と言うべきであろう。内容はまあ、我が輩にもよくわからんが、ありがたいことが書いてあるはずだから、妙なお経を覚えるヒマがあったらこっちを丸覚えしたほうがよほどよいと思われる。
それでもって、次がいよいよ我が輩の両親がいかに偉いかということが立証される条文である。
★第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
どうじゃ。完璧であろう。ところで、ここに出てくる「幸福追求」という言葉は最も重要である。我が輩はこの「幸福追求」のために存在する。これが使命であると言ってもよい。つまり両親に対する孝行なのである。それほど重要なことでありながら、この「幸福」というものに関する庶民の話を聞いていると、どうもこれを漠然としたもの、つかみどころのないものと捉えている傾向が強いように思われる。なかには「幸福を計る物差しなどない」と訳知り顔でふれ回っている者までいる。言っておくがそれは大きな誤解である。幸福を計る物差しはある。それはごく簡単で「食う・寝る・放(ひ)る・ヤる・見る・聞く・話す」の7つ。これの機能の面と環境の面でどれだけ自由か、あるいはどれだけ満たされているかという、ただそれだけのことである。気取った言い方をすれば「①食、②寝、③排泄、④セックス、⑤見、⑥聞、⑦話」である。⑤⑥⑦は「表現の自由(言論の自由)」と大きな関わりを持つ。我が輩といちばん関係が深い。
この条文で注意しなければならないのは「公共の福祉に反しない限り」というところである。ここを見落としてはならない。つまりここに書かれている数々の権利は無条件に保障されているわけではなく、大きな制約があるということである。
我が輩は先日、ある交差点で救急車にでくわした。その救急車は赤信号を通過できずブレーキをかけて交差点の真ん中で立ち往生してしまった。原因は、救急車に道を譲らない歩行者がいたからだ。10代後半くらいの若いカップルが、自分たちにとっての青信号をゆっくりと渡っていて男性の方はスマホかなにかを見ながら自転車を押し、隣の女性と話をしていた。女性も屈託なく応答していた。結局、救急車はこの、まったく悪気のない、若いカップルが通り過ぎるのを待って発進した。
これがまさしく「公共の福祉」なのである。横断歩道を歩行者が青信号で渡るのは法によって保障された権利であるが「公共の福祉」(ここでは救急車)の前ではその行使が制限されるのである。それにしても腹立たしいカップルであった。カップルであるというだけで腹立たしいのになんたる厚顔無恥か。
さて、それはともかく俳句界はルールというものをどう考えているのであろうか。有季定型とか無季とか自由律とか多行形式といったことではなく作者と読者が作品を共有するための表現方法、つまり文法である。たとえば次の2句をみてほしい。
★万歳の乗りし竹屋の渡舟かな 虚子
★遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子
近代化を急ぐ明治政府は、1905(明治38)年に『文法上許容すべき事項』を告示し、教科書の検定又は編纂に関し、文法上許容すべきとして16項目を定めた。その理由については「従来破格又は誤謬と称せられたるものの中慣用最も弘きもの数件を挙げ之を許容して在来の文法と並行せしめんことを期し―」とした。つまり、「まちがいであっても広く使われているものはそのまま認めよう」ということであった。混乱した当時の世情を鑑みた「苦肉の策」であったのかも知れないが、混乱に拍車をかけたばかりか、俳句界においては後々まで悪影響を与える施策であったと言わざるを得ないシロモノであった。
で、いまはどうなっているかというと、誰だって知っているとおり、いわゆる『学校文法』が表現者にとってのルールということになっている。このルーツは6・3・3制が導入された1947(昭和22)年の文部省『中等文法・口語』『中等文法・文語』である。奇しくも(というほどのこともないが)日本国憲法と同い年であるが、この教科書は義務教育課程で用いられたものであり、文語については3年生で集中的に学習されたと推察されるので、この教科書で文語文法を最初に学んだのは1932(昭和7)年前後に生まれた人ということになるはず。いまの年齢でいえば90歳前後である。そしてそれ以降に生まれた人は全員この文法を学んでいる。
にもかかわらず俳句の文語文法の現状はいまだに混乱している。その大きな原因となっているのが、前述した1905(明治38)年の『文法上許容すべき事項』である。これが『中等文法・文語』によって是正(廃止)されたことになるはずなのだが、後遺症が残ってしまった。
『中等文法・文語』はたとえば「き」については過去の助動詞としての記載しかしていない。
★万歳の乗りし竹屋の渡舟かな 虚子
―この句について以前、議論があった。一方の主張は、「き」には平安末期以降の用法として、「動作が完了して、その結果が存続している意を表わす」(旺文社全訳古語辞典)という解説があり、この句では「万歳が乗っている」という解釈が成り立つ―というものであり、それにたいしてもう一方の主張は、「き」は「完了」「存続」あるいは「存在」などの現在に及ぶものに使うべきではない、用例があってもそれは誤用である、というものであった。
虚子は1874(明治7)年に生まれ1959(昭和34)年に85歳で没した。『文法上許容すべき事項』が告示された1905(明治38)年は31歳であり、『中等文法・文語』が採用された1947(昭和22)年は73歳である。虚子自身がこの、いわば「国策」をどう受け止め、どう認識したかはわからないが、「時代の空気」がどういうものであったかは、この件で引き合いに出された(「学校文法の軽視」を助長するような記述を残す)辞書がいまも存在する現実をみれば容易に想像がつく。ところで―
★遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子
こっちはちゃんと「学校文法」に則っている。これを「ご都合主義」と言うべきか臨機応変・自由自在と言うべきか。評価は分かれるだろう。
いまの『学校文法』が完全無欠なものでないことはおそらく俳人でなくともわかっているはずだが、だからといって「人智の集積」の現時点での到達点であるこの文法をないがしろにすることは合理的とは言えない。
それなのに俳句界の現状は、『学校文法』を無視することが「自由」ということになるのかどうかという基礎的な議論を欠いており、荒野のような状況にある。いま求められているのは、言語学の研究というような大上段なことではなく現実的な課題として、作品を作者と読者が共有する、つまり俳句と社会が常につながっている―という状況を保ち発展させていくよりどころとして、文法をどう考えるかという議論である。
とまあ堅苦しい話をしたところで、我が輩の演説も終わりに近づいてきた。最後にもう一つどうしても言っておきたいことがある。
俳句界の一部に、俳人には「芸術派」と「遊芸派」があるとして、「お遊び」で俳句をやっている「遊芸派」を見下す論調がある。とんでもないことだ。自分のやっていることを高尚なことだと思い込むのは勝手だが、それを天下の正論みたいに振り回して他人に押しつけるべきではない。俳句は万人のものである。つまり我が輩は誰からも愛されたいのだ。遊芸結構、お稽古ごと結構、裾野は広ければ広いほどよいのである。
おっと、これは親を説教しているようなかたちになっているかも知れぬ。いかんいかん。
まあ、この辺で我が輩の話は終わりとするが、誰もが気軽に俳句を楽しみ、コンクールなどへの投句や句会で一喜一憂しながらささやかなアクセントを生活のなかにつくっていく。素晴らしいことではないだろうか。俳句はエリートだけのものではない。裾野が開墾されることで頂上が削られることはないのである。
了