写真提供:「静寂の刻」山田 憲行

「わたしの1句」鑑賞   渡辺和弘

 初学の頃,中島斌雄の『新訂現代俳句全講』を貪り読んだ。中島斌雄の作品を意識してのことである。そこから得られた様々なことは,他の著作ともども今もって脳裏に焼き付いている。

 写真より得られたイメージを言葉でもって表現することは全く異なる形式であり,感覚でもっての表現以外の何物でもない。自由でもあるが,写真そのものが完結している世界なので難問ともとれる。

 「谷に雪」は,写真の世界に移入しつつ「谷」「雪」と俳句の背景を特定し,自らの作品世界を誘う。

 はっきりと,「谷に雪」でもって切れを入れ,作品世界を展開する。写真のように山間の雪解川を「己を量りつつ沈む」とする感得は,「雪」に対する同化のようでもあり,「己」の意思でもって「沈む」とする発想そのものに何故か詩性を強く感じる。これは,中島斌雄が,わかりやすく「情景を再現する」「心情に同化する」「背後を洞察する」と前出の著書に書いているが,「沈む」はまさしく,洞察の結果なのであろう。その表現が強いゆえにより印象を強くするのである。

 対馬康子は「俳句αあるふぁ」2014年6-7月号にて「俳句とは、詩的破壊と詩的創造を、真正面から挑戦すべき詩である」と書いているが,いつまでもこの言葉が脳裏を離れないでいる。この作品も,そうした意識によってなされているといえよう。破壊も創造も誰もがなせるものではない。しかし,対馬康子のこの言葉のもつ重みは,長年の論作活動から得られたものであろうし,断言できる点にその存在感がある。多くの句集や作品を読んできているが,一葉の写真を見て,きちんと自らの姿勢でもって1句にしていることでよりこの思いを強くした。