針
岩田 奎
針の世のさても朱欒の世となりぬ
大阪は目薬づくり神無月
金になるひらめき日のあたる冬木
蒟蒻をさげてのるなり初電車
初電話鵯越に切れにけり
岩田 奎さん「針」鑑賞
岡田由季
針の世のさても朱欒の世となりぬ
「針の世」から、先ずは針の筵、針地獄などの連想がはたらく。朱欒はどうだろうか。南国産の大きな柑橘で、よい香りがする。食べると、あまりジューシーではない。皮の白いところが分厚い。好きな人は好きだけれど、それほどでもない人もいるだろう。朱欒の具体物としての印象は、はっきりしているものの、何かを象徴するとしたら、少しつかみどころがない。「さても」をどう捉えるかで、一句の味わいが違ってきそうだ。私には、感嘆の中に、少しあきれているようなニュアンスもあるように思えた。
大阪は目薬づくり神無月
そう言われると点眼薬で有名な、大阪の製薬会社がいくつか思い浮かぶが、その事実とは別に「大阪は目薬づくり」という省略の効いた措辞に愛嬌があり、イメージ喚起力がある。商業都市としての大阪の歴史や、あり様も感じさせる。神無月で神々が留守でも、人々の生活や商業的な営みは、しっかり、ちゃっかりと続けられている。
金になるひらめき日のあたる冬木
ひらめきと日のあたる冬木には共通するイメージがある.。しかしそれだけでは印象が薄いかもしれない。ただの「ひらめき」ではなく「金になるひらめき」とやや俗に表現されたことで、読者が立ち止まるのだ。ひらめきの「ひ」、日のあたるの「ひ」、冬木の「ふ」とハ行の音が繰り返されることで句に軽やかさが生まれている。
蒟蒻をさげてのるなり初電車
初電車に蒟蒻は少し場違いに感じるが、ものすごく不自然かというと、そうでもなく、蒟蒻をさげてのることになる様々な場面を想定できなくもない。その、少しずれた感じや、蒟蒻の存在自体からくる、ほのぼのとした可笑しみを受け取った。
初電話鵯越に切れにけり
鵯越は電話の切り際の急展開のことを表しているのだろうか。のんびりと近況報告などしていたところ、例えば来客があった、赤ん坊が泣いた、家族に呼ばれたなどの要因で「じゃあ切るね」となった。新年らしい賑やかさがある。
うろ覚え
岡田由季
葉牡丹の踊りはじめし美容室
狭庭にも順路のありぬクロッカス
繁縷やうろ覚えなる墓の場所
観劇の母のバッグや玉椿
吸うて吐き吸うて止めたりフリージア
「うろ覚え」鑑賞
岩田 奎
岡田由季さんには著書をご恵投いただいたり総合誌でそれについて少し書いたりなどもしたが、お目にかかったのは大阪に来てからだ。山科での句会から新快速のボックス席をご一緒した。そのあと帰られる泉佐野というところはよくよく知らない。泉州日根郡が近畿で最も遠い場所であるのは私にとってだけだろうが、地理的事実としてそこは近畿で最も平たい場所のひとつだ。
由季さんは、平たい日常を縫うように句を書かれる人。句に登場する生物は、季語としてという以前に生物として平熱を帯びて現れる。
葉牡丹の踊りはじめし美容室
薹が立っているような葉牡丹だ。人の毛を整え外見を整える場所が、その軒先ではぐらぐらとした植物の狼藉をそのままにしている。
狭庭にも順路のありぬクロッカス
クロッカスに視線が落ちカメラが俯くとき、庭の狭さはいよいよ極まる。しかしその視界の上方に光がぼんやりと及んでいて、歩くべきとすればそちらの方向であることがわかる。
繁縷やうろ覚えなる墓の場所
墓はよく見えなくて、その途中の繁縷がむしろ意識の中にピンナップされている。人間の思いは自然とくらべればいくぶん途切れやすくて、地面に植物の繁殖は続いている。読者は作者の立つ墓域というよりも、作者の意識の、とぼけた健忘のなかに立たされる。
観劇の母のバッグや玉椿
玉という言葉のなかにエッセンスとしてあるせつなさを見せつけられたような気持になる。書いてある意味内容は普通の日常でしかない。けれど母にとってのそれが単なる有閑趣味というふうにならず、むしろ観劇をしない日常の母を言外に想起させるのは、この花をおいてないように思う。
吸うて吐き吸うて止めたりフリージア
中空に明るい花弁がある。微風ではそよがないが、かといって重くもない花。そのそばに自分の呼吸がある。呼吸を意識することはあまりないが、意識した途端に生ずる心の重みのようなものがあるとすれば、それはちょうどフリージアくらいのものであるだろう。