「現代俳句」漢俳講座(一) 林 岫(しゆう)
今田 述
漢俳第一号が趙樸初翁(1907 ~ 2000)の即興によって詠まれたのは、今から四半世紀前の1980年5月30日の夕刻のことである。俳句に関心を抱く北京中央詩壇の面々によって日本から招かれた俳人訪華団(団長大野林火)
の歓迎会席上のことであった。場所は宮廷晩餐「仿膳」。折から降り始めた北海公園の雨を入れた趙樸初翁の次の一首であった。
万緑今雨来、 万緑今雨来る
山花枝接海枝開、山花の枝海枝に接して開く
和風起漢俳 。 和風漢俳を起す(趙樸初)。
当初はごく限られた日本通の詩人が取り上げたに過ぎなかった。然し中心にいた戦前日本留学組、鐘敬文(1903~2002)、趙僕初、林林(1910~2011)の三羽烏はその発展が国民詩となる日を信じきっていた。殊に林林は対外友
好協会の事実上のトップとして、熱心な普及運動を続けた。
一方、この訪中団の末席にいた金子兜太は、その重要性を深く認識ししていた。兜太という人物が居なかったら、漢俳はあれほどの速度で中国詩壇を席巻出来なかったであろう。
兜太は現代俳句会長に就任すると、同協会の総力を傾注して、1993年、97年の二度に亘り『現代俳句・漢俳作品選集』を編纂刊行させたのである。
この二冊が中国詩壇のエンジンに着火したことは間違いない。事実漢俳初のアンソロジー『漢俳首選集』も林岫女史編を97年発刊させたのである。
林岫女史(1945 ~)は中国新聞学院の若き古典文学教授だった。幼児時代から古典詩を書く才媛であった。林林は早くからその才能を認め、詩人としての才能と漢俳の成長を文芸史上支える学者としての慧眼を信じて疑わなか
った。彼女は書も達者で、中国書法家協会の副会長も兼務していた。その才女が日本でも認められた経緯は日本書道協会の招きで、初めて日本に足を染めたかれて浜名湖の展覧会に参加し、始めて日本の土を踏んだ時に始まる。
それは満開の櫻の時季であった。この時彼女は得意の五言絶句を考えていた。
初試桜花雨 初めて試(あ)う桜花の雨
疑忘煙火語 煙火の語は忘れしかと疑う
風来一快襟 風は来たれり一快の襟に
翠浪揺春嶼 翠浪春嶼(しよ)を揺らす
「煙火の語」とは台所の語、即ち世間の事を指す。彼女は転句が気に入らなかった。その時ふっと気付くと、転句を三行詩が生まれたのである。即ち転句を削り起句と末句を入れ替え削り、浅立(しばらくたつ)の二字を加えた。嶼(しよ)は小島のことである。
翠浪揺春嶼
翠浪春嶼を揺らす
浅立疑忘煙火語 浅く立ちて煙火の語は忘れしかと疑う
初試桜花雨
初めて試(あ)う桜花の雨
見事な林岫女史漢俳第一号の誕生である。古典詩人の彼女が一転漢俳を生んだ経緯は誠に珍しく、隣国日本の詩情が彼女の転換点を求めた偶然だったのかもしれない。
林岫は 1997 年個人的にも『林岫漢俳詩選』を刊行している。その中に「新加坡飛禽公園」の一首がある。シンガポールのバードパークを詠んだ作だ。
幽賞最心清
幽かに賞ずるは最も心清く
花好人来鳥不驚 花は人の来るを好み鳥は驚かず
三両掠肩軽
三両肩を掠めて軽し
何よりもあの人工を凝らしたバードパークが細やかな女性ならではの感性で再現されている。三両は日本語では二三のであるが、難しい表現でなく簡素な表現が却って心根の深さを感じさせる。
1984 年の東京タワーを詠んだ作は今や歴史の記録でもある。黄塵ほ何処から来るのか?故国中国の塵を敢えて詠み込んだのだろうか?
銀漢俯人寰を
銀漢人寰を 俯(みおろ)す
休放詩情春夜閑 詩情を春夜の閑に放つ休(なか)れ
黄塵忽倦還
黄塵忽ち倦みて還る
1992 年の題作(兼題)を見る。題は牽牛花即ち日本の朝顔である。
山崖白紫花
不聞世事也無嗟
香送野人家
山崖白紫の花
世事と無嗟を聞かず
香野人の家に送る
朝顔 題作(兼題)ととはこうして詠むもの、というお手本の如き一首だ。
崖地に咲く朝顔の生涯は何の不平も述べない。
2005 年中国政府は漢俳学会を発足させ、初代会長には元文化部副部長(文部次官)の劉徳有が任命されたが、当人は「私は詩人ではない。飽くまで役人であると語る。即ち副会長の林岫女史が事実上の会長なのである。