「花鳥諷詠」に先進性はあるか

西池冬扇

§1 はじめに
 今俳句三協会統合の議論が話題になりつつある。統合を実現させるには、俳句理念の問題をなおざりにできない。むしろ理念問題を議論している中で、統合の必然性が浮かび上がってくるのが望ましいと思う。
 現代俳句協会の機関誌『現代俳句』2024年7・8月号の対談「花鳥諷詠と前衛」(*1)はその意味では大変刺激的である。
 現在必要なのは多くの人々が集まって議論を展開することだと思うが、俳句の理念として「花鳥諷詠」(高浜虚子が理念としていた)をたたき台とするのが現実的に最も実りある議論がなされるのではないかと思う。
 私は昨今の議論の流れを鑑みるとそれおたたき台として考えたばあいの喫緊の課題を次のように考えている。
 ① 「花鳥諷詠」と「写生」の論理的整合性の議論
 ② 「花鳥諷詠」という「理念」の未来志向性の議論
 ③ 俳句における前衛とは、何かという議論
 ここで①と③は現代俳句協会での筑紫磐井と星野高志の両氏の対談で話題に上がっている。特に磐井氏は「花鳥諷詠」が前衛思想である、という考えを主張しており俳句の未来志向性を含め一般的な議論たりうる。②に関しては日本伝統俳句協会の会長岩岡中正氏が「虚子への回帰」として常に主張している課題である。

§2 花鳥諷詠論の喫緊三課題の簡単な説明
 上記①の課題は、実は花鳥諷詠という「理念」の輪郭を定式化しようという試みでもある。「対談」の中で、星野高士氏は述懐していたが、虚子の「花鳥諷詠」理念は輪郭が分かりにくい。特に「花鳥諷詠」理念と「写生」の関係が分かりにくいという。そのあたりのことをすっきりさせる必要があろう。いわば過去の理念とされている考えを整理しなおすことになろう。
 上記②の課題は、「花鳥諷詠」理念の未来性を検証し、理念の内外から未来へ通じる要素を明確にしていこうとする課題である。この課題は常々日本伝統俳句協会会長の岩岡中正氏が機会あるごとに主張していることである。ただ、岩岡氏はこれを「花鳥諷詠」への回帰と位置付けているようだ。言葉だけの問題かもしれないが、私は回帰とするならば、それは新たな時代からの影響を受けた「回帰」であり、未来を指向する要素を抽出すべき、螺旋的回帰とでも呼ぶべきものと考える。またそのようなリニューアルが必要である。
 上記③の課題は「花鳥諷詠」理念の未来性はその前衛性にあるとする考えで、筑紫磐井氏が上述の対談で主張している。「花鳥諷詠」理念の前衛性を云々するというのは、とりもなおさず「花鳥諷詠」理念の中の未来志向の要素を抽出することである。ただその前に俳句における前衛性とは何かを考えておくことが必要である。それは、議論が思想の内容の吟味に至る以前に拒絶反応を起こしたり、論者の我田引水的になることを防ぎ、かつ新たな俳句理念の創出につながるものと考えるゆえである。

§3 前衛とは何か
 課題①と②に関して筆者はその骨組みをノート風にすでに他の論考で述べている(*2)のでここでは俳句の前衛性をノートとして述べる。今後起こるべき議論の参考になればと思う。特に「前衛性」という言葉が醸すニュアンスは「現代俳句」読者諸賢が感応しやすいと思い、本誌のアゴラに載せていただくことにした。

〇芸術における前衛とは何か。また文学における前衛とは何か。
 いわずもがなであるが、前衛(アヴァンギャルド)とは、フランス語で「先駆け」や「前線」を意味し、通常の慣習や伝統から逸脱し、新たな方法やスタイルを模索する芸術や文学の動きを指す。もともとは軍事用語である。
 芸術における前衛は、そのために斬新で挑発的な手法を採用するというイメージがある。例えば、20世紀初頭のダダイズムやシュルレアリスムなどの運動は、従来の芸術観を大きく覆し、偶然性や無意識を重視し、かつ日常の物体や非伝統的な素材を使って新しい形式の芸術を生み出した。現代のインスタレーションアートやパフォーマンスアートも前衛芸術の一部と考えられ、観客の積極的な関与や反応を促し、芸術の枠を広げるものである。
 前衛芸術はまた、社会的・政治的なメッセージを含むことが多く、既存の権力構造や文化的価値観を問い直す役割を果たす。例えば、フェミニストアートやエコアートなどは、特定の社会問題に焦点を当て、それを通じて変革を促すことを目指す。

〇文学・詩における前衛とは
 伝統的な物語の構造や言語表現を越え、新たな方法で読者に挑戦する作品群を指し、物語の時間軸を崩したり、視点を変えたりすることで、読者に新しい視座や解釈を提供する。20世紀の作品で有名なのはジェームズ・ジョイスの 『ユリシーズ』やサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』などが相当する。
 また、詩の領域では、言葉だけでなくその配置や形状を通じて意味を伝えようとする具体詩や視覚詩をイメージする。いずれも読者に新たな読み方や解釈の可能性を提供し、文学の枠を広げる目的である。
 さらに、現代の前衛文学は、デジタル技術の発展を適用した新形態を採用する。インタラクティブな物語やマルチメディア作品は、読者が物語に積極的に関与することを可能にし、文学の概念を再定義していると考えられる。
 要するに、芸術と文学における前衛は、常に革新と挑戦を求め、既存の枠組みを超えようとする運動としか定義しようがないようである。

〇要するに詩歌における前衛とは、とは
 20世紀初頭のモダニズム運動は、前衛詩の発展に大きな影響を与えた。エズラ・パウンドやT.S.エリオットなどの詩人は、伝統的な詩形式を打破し、新しい詩のあり方を模索した。また、現在では「具体詩」や「視覚詩」の分野等があり、前衛詩の範囲は広い。
(注:60年代に流行した具体詩では言語は造形素材としての単語に還元される。歴史的、社会的に既成の統辞法、文法、意味論から遊離した単語を視覚的に配列したりする。また語の音声的連鎖、聴覚的連合を追究する。視覚詩は従来の文字組みでは得られない文字の繋がりを探求)。
 現代の前衛詩もデジタル技術の発展とともに進化している。インタラクティブな詩やマルチメディア作品は、読者との新たな関係を構築し、詩の概念を再定義せざるをえなくしている。
 要するに、詩歌における前衛とは、常に革新と挑戦を求め、既存の枠組みを超えようとする詩の分野で、新しい視点や表現方法を探求し、詩の可能性を広げ続けている。俳句も詩歌であれば俳句の前衛性とはこんなものであろうか。

〇想像するに前衛俳句とはどんな俳句だろうか。
 今までの多ジャンルの場合を考慮して一般論で言おう。俳句における前衛性とは、伝統的な俳句の形式やテーマを超え、新たな表現方法や視点を探求することである。①形式の自由化:前衛俳句は、俳句の基本的な構造である5-7-5の音節パターンの使用に囚われず、自由な形式と内容を採用する。俳句の可能性を広げ、現代的な感覚や問題意識を反映させるためである。②新しいテーマと視点:従来の自然や季節をテーマにするだけでなく、現代社会の問題や個人的な経験もテーマとして増大する。③言語の実験: 言葉の音や意味の多層性を探求して、読者に新たな視点や感覚を提供するというものであろう。
 しかしこれらははたして俳句という短詩型に適応する、あるいは適用するべき性格の方向性なのだろうか。

〇俳句の自然観は元来前衛的である
 私はポスト近代の前衛的な俳句というのは形式や言語の意味の破壊にその役割があるとはしない。その主な課題は表現形式ではなく、そこに詠いこむ興趣が前衛的であるべきだと考えている。
 それには前衛的という語句に新しい命を吹き込まねばならない。端的に主張すればもともと自然と人間を同化させた自然観を日本人の文化は持っている。その背景にある自然と人間を同化させる思想、これが伝統的な興趣を形成してきたが、人類社会が近代合理主義を主要な哲学としてきた現在では、むしろ前衛的な色彩を帯びてきているということである。このことは伝統主義からの反近代主義を主張しているのではない。それとは一線を画することになる。 現代科学の発展は、自然と人間が物質的にも同化した存在だということを知識として与えたし、自然と人間を対置していく地球システム観から共生さらに同化の思想にもとづくシステム観にしなければいけないことを今や認識している。そういう観点にたった、自然観こそ真に前衛的なのである。理念的に「花鳥諷詠」は自然との同化という新しい智慧をえて単なる回帰ではなく、前衛たりうるのである。このことはまだテーゼとしては未熟と思うので諸賢の検討を乞いたい。
 補足的にのべれば、従来の前衛俳句の運動は、20世紀半ばから特に顕著になった。具体的な例としては、金子兜太などの俳人が挙げられる。彼らは、戦後の日本社会や個人的な体験を題材にした革新的な俳句を創作した。戦争の悲惨さや社会の変革をテーマにしたものが多く見られる。社会性俳句と呼ばれるもののテーマも従来の「花鳥諷詠」的理念からはでてこない興趣が存在している、私はこれを含めた俳句の理念が誕生すべきだと思う。
 さらに現代の前衛俳句は、デジタル技術の発展とともに新しい形態を模索している。インターネットを利用した俳句の発表や、視覚芸術と融合した作品などがその一例だ。これにより、俳句が持つ表現の可能性はさらに広がる。このおとも議論の課題として入れていかねばならないだろう。
 要するに、俳句における前衛性とは、伝統を尊重しつつも、新たな表現方法やテーマを探求することであり、俳句の可能性を広げ続ける重要な動きである。百家争鳴を期待する。  

☆主な参考文献
*1 対談「花鳥諷詠と前衛(上下)」『現代俳句』2024年7月号8月号
*2 西池冬扇「俳句の魔物再び」,『ウエップ俳句通信』2025年144号
(了)