第61回現代俳句全国大会 現代俳句全国大会賞
納屋開けるたびに倒れる補虫網 吉田成子
この句は現実に体験した日常の些事をそのまま十七音にしたまでである。したがって発想の源や作品への意図というには至らないが、一句がなるまでのいきさつを自句自解風に記したい。
十年余り前まで住んでいた家の裏庭には、この家に不似合いなほどの大きい物置があり、庭仕事に必要な道具以外に、長年の暮らしで出た不要品なども雑然と置かれていて、扉のすぐそばまで一杯になっていた。作品の捕虫網はこの扉の近く、古い家具に立てかけるように不安定な状況にあった。倒れるたびに奥へ移したいと思うのだが、物置には守宮が居るのだ。爬虫類が大の苦手で中まで足を踏み入れたくないのである。ならば使いもしない捕虫網なのだから処分すればいいのだが、この捕虫網は昔兄が振り回していたもの、その後釣り好きの父が使っていたらしい。捨てがたいという程でもないが、「まあ、いいか」と何年ものあいだ、倒れるたびに元のように立てかけていた。
最近になって句にしたのは、歳時記を繰っていて捕虫網に目が止まったからである。近頃見る機会が少なくなった捕虫網などの廃れゆきそうな季語の句を残しておこうとの思いもあった。いささか気になったのは物置を「納屋」にしたことであるが、昔の暮らしへの懐旧心があったせいかと思う。
因みにこの捕虫網は、現在の住まいに移る時に虫籠や麦藁帽子などと一緒に処分した。
第61回現代俳句全国大会 朝日新聞社賞
戦争に視聴率ありソーダ水 川崎果連
昨年5月のある日、何気なくみていたSNSに驚くべき投稿があった。「戦争や災害について、当事者でない者が、それを題材として俳句を詠むのは不謹慎だ」という内容。私は自分自身を「地球の住人」だと考えており、戦争や災害は私にとっては「住環境の問題」であり、戦争や災害の当事者でない者は一人も存在し得ないという思いが強いので、この物言いには呆れた。
社会心理学、災害心理学などで使用されている用語に「正常性バイアス」という認知の特性をさす言葉がある。これによって私たちは自分にとって何らかの被害が予想されるような状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、過小評価するという。
俳句という(俳句に限らないが)仮にも「表現」というものを志す者が、「現場に臨場しない者が、さも現場にいるような顔をして嘘を並べたてることは許されない」などと発言するのは、まったくおかしな話で、それこそ許されることではない。
とにかく、まず「知る」ことであり、その次に正しい知識に基づいた「想像」が対策を決めていくのである。対策は世論から生まれ世論は想像から生まれる。戦争はすべて想像力の欠如から生まれるのである。
今回の受賞を励みとし糧として、今後も私なりの「社会性俳句」を追求していきたい。ありがとうございました。
第61回現代俳句全国大会 青年の部 正賞
レジ打ちの最後はパンをのせて春 堀内晴斗
私は、スーパーでレジ打ちのアルバイトをしています。バイト中、よく暇になるので不要になったレシートの裏面を使って句作するのですが、掲句はそのときにできたものです。バイトを始めたばかりの頃は、慣れないレジ打ちをすることに必死で、句作する余裕なんて無かったんです。しかし最近になって、ようやくレジ打ちも商品のカゴ入れも一人前になり、この句のように、「いま自分は、このパンを潰さないようにするためにレジ打ちの最後に他の商品の上に乗せたんだ」と、自分の行動をちゃんと理解できるようになっていたんです。そしたらある日、自然と掲句をレシートの裏面に書いていました。
レジに関する句は、バイト中にたくさん作りました。買い物かごをはみ出るネギ、1番レジから見える夕焼、クレームおばさん……といった、様々な句材をもとにずっと句作してきました。その中でも、特に納得のいく句が、今回、賞をいただいた掲句なんです。賞に選ばれたと知った時、嬉しさに浸っていました。レジ打ちのバイトしててよかった、その前にやってたカフェのバイト4日で辞めて本当によかったと、しみじみ感じています。この賞を糧に、今後も句作を続け、より良い作品を作れるよう努力して参ります。この度は素敵な賞をいただき、本当にありがとうございました。
第61回現代俳句全国大会 青年の部 正賞
月涼し肺の広くて解剖図 佐藤知春
掲句は、2024年11月16日に奈良で開催された、第61回現代俳句全国大会青年の部で、岡田由季氏に正賞として選んでいただいた一句だ。
この句は『ターヘル・アナトミア』の解剖図から着想を得ている。『ターヘル・アナトミア』はオランダから流入し日本の医学の常識を変えた本である。杉田玄白らが翻訳し、『解体新書』として日本に広めた。その『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図と、従来の日本にある解剖図を比べると、肺の占める部分がとても大きい。消化器官を見ても、そのほとんどはみぞおちより下にあり、肋骨の真ん中には、肺のための大きなスペースが空いている。肺というのは胴体の半分ほどの面積を占領して広く描かれるものらしい。
また、『ターヘル・アナトミア』に影響を受けた杉田玄白らは、実際に死刑囚を用いて解剖を行ったという。彼らは書籍と同じように広々と鎮座する肺を見て、それが自分の体にも同じように存在すると知った時、どう感じただろうか。解剖が終わった後も、否応なくその生々しさを思い出すだろう。夏の月夜の清らかな空気を吸ったときであっても、彼らは内臓としての肺の生々しさを思い出していたと私は考えている。
ここまで『ターヘル・アナトミア』に描かれた肺について語ったが、この歴史的な背景は俳句にするうえで削除した。歴史学専攻であるため、アイデンティティとして主張したい部分ではあるが、表現できなかったのが己の未熟さだろう。この受賞を糧に、自分の表現したいものを追求していきたい。