春の形式

赤野四羽

春隣原子力緊急事態宣言

明日死なば今日は晩年梅日和

形式やすべては動く花のうち

ヒジャーブの日永自転車立って漕ぐ

蝶はみな老人である走る馬

 

赤野四羽「春の形式」鑑賞文 
失われた「春」を求めて  

土井探花

春隣原子力緊急事態宣言

 「原子力緊急事態宣言」は原発の大事故の際に首相が出すもの。春が近づくと否応なく2011年の東日本大震災及び東京電力福島第一原子力発電所のことを思い出す。奇しくも作者の句歴は「散文では表現しきれない『なにか』を託して」とある通りこの悲劇から始まる。掲句を冒頭に据えたことに、この連作へのただならぬ気迫を感じる。

明日死なば今日は晩年梅日和

 「死なば」は仮定。明日死ぬなら今日は晩年という措辞は確かに事実だが、戦争や災害での突然の死に隣する者に思いを馳せているのだろうか。すなわちこれは紛れもなく私たちへの警鐘句だ。梅の香りも輝きも人のいない世界のそれかもしれない。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と孔子は説いたが、現実はもっと逼迫している。

形式やすべては動く花のうち

 表題句。風にそよいだり、鳥が来たりして桜が揺れる。その一切が作者にとっては「形式」である。この「形式」は「実質・内容を失ってからもなお続いているうわべだけの方法・様式」(大辞林より)ととるべきだろうか。俳句の世界に限定すれば、花鳥諷詠という「形式」に拘泥されるわたしたちへのアンチテーゼともとれる。

ヒジャーブの日永自転車立って漕ぐ

 自転車を立ち漕ぎする青春性あふれる日永と、ヒジャーブを被るイスラームの女性の日永は連続しているのか、それとも隔絶しているのか。先日のパリ五輪では、フランスが自国選手のヒジャーブの着用を禁止して国連と対立、物議を醸した。宗教的な寛容の欠如は戦争や虐殺を生むのは周知の事実だ。

蝶はみな老人である走る馬

 「初蝶」という美しい季語があるが、それをピークに蝶は老いていくのだろうか。夏蝶や秋蝶、はては凍蝶が、すべて晩年にいるのは事実だが、それにしてもこの断定にはゾクッとする。「走る馬」まで若駒ではなく、走馬灯の比喩とさえ思う。もしかしたら、高齢化が進んだ日本で老人の集団自決を迫るような「識者」への痛烈な皮肉であるのかもしれない。

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正しさの融点  

土井探花

妄動の凍蝶だから愛するの

皿に置く教化のための冬薔薇

冬花火思想に手錠痕がある

話し合う湯冷めしているAIと

正しさの融点を知るチョコレート

 

5句鑑賞 
「正しさの融点」(土井探花)を読む

赤野四羽

 正しさが融ける温度とはどのようなものだろう。

 探花作品は柔らかい語彙を使いながら、闇と光の交差する魔術的イメージを呼び寄せるのが真骨頂である。今回の五句作品では、語彙の自由度がさらに拡大、柔らかさに硬質な観念すらも取り込んでおり、俳句の広大さを予感させる。

《妄動の凍蝶だから愛するの》

 妄動とは理由の分からない軽率な行動といった意味合いだ。読みは二通り。「妄動の凍蝶だから/」と切ると、凍蝶をその妄動ゆえに愛することになる。また「妄動の/」と切ると、凍蝶を愛することそれ自体が妄動となる。ここでは前者ととってみたい。凍蝶となること自体が美しい妄動だから。

《皿に置く教化のための冬薔薇》

 冬薔薇の過剰なほどのロマンチシズムが、ここでは教化のための手段となる。主体はこれから教化を行う審問官であろうか。皿の冷たさと薔薇の棘の痛々しさが浮き彫りにされる。「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」よろしく、それ自体が教化なのだろうか。

《冬花火思想に手錠痕がある》

 冬の重たい暗闇をかき分ける花火の瞬間、その手首に手錠の痕が見える。思想が手錠なのか、はたまた思想によって手錠を掛けられた過去を秘めているのか。しかしそこから今現在は解放されている。いや、むしろそれゆえに思想が羽ばたくのだ。

《話し合う湯冷めしているAIと》

 AIの最大の弱点は肉体を持たないことだ。AIがいくらそれらしい回答を出しても、あくまで情報の靄を捏ねているにすぎない。しかしこのAIは肉体を与えられ、風呂に入って湯冷めしている。肉体の不合理性をAIが知った時、本当の話し合いができるのだ。

《正しさの融点を知るチョコレート》

 チョコレートは体温で蕩けるからこそ、人間を幸福にしたり不幸にしたりする。その意味では、正しさも適度に融解してこそ、力を発揮するのだろう。とはいえチェコレートの味は食べてみなければわからないし、正しさの融点も抱きしめてみなければわからない。