董振華の近年の俳句業績

今田 述

 金子兜太が手を取り育て上げた中国人俳句作家董振華の、殊に兜太死後の作句活動について、日中文芸交流の観点からその貴重な実績を振り返ってみる。資料として主に次の3冊を中心に説明する。

董振華句集『聊楽』2019年(ふらんす堂)
董振華句集『静涵』2024年(ふらんす堂)
『語りたい兜太・伝えたい兜太13人の証言』(コールサック社)

1.中国短詩人らの俳句への接近
 日本と中国は同じ漢字文化圏にあり、日本が文字を持たなかった古代、遣唐使等によって漢字が輸入されると、ほぼ同時に詩も輸入された。日本最古のアンソロジーと言えば日本人の殆どが『万葉集』と思っているが、実は『懐風藻』が先ず編纂された。『万葉集』はこの経験を踏み台にして、口伝の和歌を万葉仮名で編纂したのである。
 時代下って17世紀、武士社会に代わり町人文芸が起こり、松尾芭蕉等により誹諧が盛になった。芭蕉の「おくの細道」は単なる紀行文ではなく誹諧の神髄を述べた入門書であり、その出だしは「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も旅人也。」という李白の『春夜宴従弟桃花園序』の冒頭をそのまま模している。誹諧は日本古来の和歌よりも、中国詩詞の強力な基盤が在ると見る。
 いずれにせよ日中両国の詩文の交流は、かくの如く中国から日本への一方交通として流れて来たが、近年半世紀ほどの間に、逆に日本から中国へと逆流する経緯を辿っている。その原因に文化大革命を原因とする説もあるが、俳句という短詩の持つ魅力が、『詩経』以来3000年の歴史を有する詩の国によって見い出され、注目を浴びるに到ったと見るのが正しい。
 この澎湃として起きた俳句への関心は、林林(1910ー2011)が80年代に『日本古典俳句選』の小冊子を著し、芭蕉、蕪村、一茶の代表作を中訳したものだが、1983年北京で発売すると、一万数千冊が瞬く間に売れたことても解る。

2.日本側の反応
 当時已に漢字五七五の十七文字で綴る「漢俳」の人気は、愛好者の数が十万人を越え、歴史的な古典詩作者推定六万人を上回るに到った。2005年中国政府はこの実情にてらし、詩詞の統括官庁「中華詩詞学会」から分離独立させて、新たに「中国漢俳学会」を設立した。その趣旨はこの新短詩が、中国の短詩人と日本の俳句作者の国際的協力で生まれたものであり、中国一国の努力で生まれたモノでは無いことを慮った措置であったと見るべきだろう。だが、これに対する日本政府の対応は殆どゼロに等しい。
 確かにここまで漢俳が成長出来のは金子兜太らの物心両面に亘るサポートが支えになったことは事実である。が同時に現代の日本には詩文のような文化活動を組織化する制度が無く、打つ手が後手に回る嫌いがある。2005年にに北京で開催された漢俳学会成立大会に参列した有馬朗人国際俳句交流協会会長や金子兜太現代俳句協会会長も個人の選択で参加したに過ぎない。 当時北京にあってこの世紀の式典のプロモーターを努めたのが董振華である。彼は当時対外友好協会の職員だったが、これ又日本には無い官庁である。説明すると長くなるが、国務院直轄の重要官庁で最も就職困難な部門として知られる。

3.董振華氏の近況
 董振華氏はその後、公職を離れて日本に永住し、金子兜太の指導で俳句制作に専念、現代俳句協会会員として大きな足跡を遺して来た。兜太師匠の存命の間は、兜太邸を度々訪問し、ご夫妻に懇ろな待遇を受けて家族並みの交流を受けて来た。公職を離れることについては、兜太から強く反対されていた。筆者も金子氏から、公職に残るように説得してくれと依頼されたこともあった。
 だが結局董振華氏は公職を降りて俳句に専念する道を選んだ。自分が生涯を掛けるべき仕事は俳句だという固い決意が優先した。そして兜太師匠の死後は、いよいよ独り立ちの活動を推進することに決めた。冒頭揚げた2冊の俳句集は、その決意の賜物と言ってもいい。その一面を見る。
 『静涵』2024年に次の一句がある。

 憂国我ら杜甫に似て杜甫にならず

この句は現代俳句年鑑24年版に収録されている。しかし

 憂国我ら杜甫に似て杜甫になれず

となっている。どっちが最終完成作であろうか?幸い句集は全作品とも漢訳がある。この句の漢訳は次の通りだ。

  我輩憂国心
  緊追杜甫大詩人
  却難成本尊

これで見る限り「却難成本尊」は、「なれず」を最終案と見てよいであろう。
 こうして見ると、董振華は全作品を母国語と日本語と双方で書いていることが解る。恐らくは母国語で書き次いで俳句にする、と見るのが自然であろう。だが観賞する日本人は折角の貴重な中国語作を見逃しているに違いない。
 この二つの句集は兜太の死後出版を見たため、兜太の序文は得られなかったが、兜太はそれを恐れて事前に「序に代えて」の一文を書き残していた。その中に次の部分がある。

 董振華との付き合いは長いが、おどろくほど早い時期に、日本語で俳句を書くようになり、しかもその語幹が美しく、内容が豊かなことに感心してきた。天性の詩才に恵まれている証拠とも思うが、日本人のかなりの人に見受けられる修辞を必要以上に凝らして書く俳句より、遙かに平明で、魅力を覚える、中国人でなければ書けない俳句の新鮮さがある、といってもよい。

 兜太はこの文章に董振華の俳句十二句を選んでいる。

 春暁の火車洛陽を響かせり

火車は日本語の汽車に当たる。汽車は日本語の自動車だ。つまりこれはSLの響だ。兜太はこの句を代表作として句集『聊楽』の帯封に飾らしめた。日本語と中国語をかくも見事に融和させることは容易ではないと思われるがそこに董振華の俳句の魅力がある。
 句集『静涵』には黒田杏子の巻頭言があり、

 おほかみの咆哮ののちいくさ無し

が揚げられている。この句の華語版は次の通り。詩容が判然となる。

 頭狼一声吼
 従此無争闘

 兜太がいみじくも指摘していたように、董振華の俳風は完全な俳句として優れているばかりで無く、先の杜甫を詠んだ例の如く、日本人の俳句には無い制作過程がある。それは中訳と言うより母国語による予作と言うべきかも知れない。そして俳句に読み直されて完成を見ている可能性が高い。それは母国語による予作の重要性を物語っている。
 だが日本の俳人鑑賞者は殆ど中国語サイドは無視しているため、作品の持つ個性の一部しか理解されていない恐れがある。その結果多くの力作が読み落とされてしまっている可能性がある。この句集には安西篤氏の「跋ーー日中文化交流の架け橋として」が掲載されていて、二十六句が選抜記載されている。また俳人長谷川櫂氏の選んだ十二句が帯封に掲載されている。だがご両人が共通に選んだ作品は一句も無い。もし鑑賞者が母国語サイトにも丁寧に眼を注いでいたら、両者に共通する選句があったかも知れない。
 こうして見ると二冊の董振華句集は日中双方の短詩のあるべき姿を示唆して呉れる。この日中俳句の結婚とも言うべき快挙を、現代俳句協会のごとき協会機関誌が、特集して両国の俳句愛好者にエールを送るべきではないか?

4.俳句の母国に求められている交流
 戦前まで東アジアには漢字文化圏があった。中国を中心にして日本、南北朝鮮があり、歴史的には渤海、琉球、安南(現ベトナム)等の国は言葉は違っても漢字を共有して来たから、漢字を書けば意を通じることが出来た。曾て阿倍仲麻呂が帰国するため乗った遣唐使船が、海上の暴風で操縦不能となり漂流の末陸地に打ち上げられた。この時住民に漢字で書いて場所を訊きそこがベトナムであることが解った。筆談は広い範囲で可能だったのだ。第二次大戦後、これらの国は漢字を捨ててしまい、現在義務教育で漢字を教えている国は台湾を含めた中国と日本だけである。
 その中国国民が日本の俳句に高い関心を示し、漢俳を創設して已に十万人が漢俳を愉しんでいることは注目に値する、董振華のように直接日本語で俳句を詠む中国人はそれ程多くはないが、そのレベルの高さは特筆すべきものっである。本来、漢字を共有し漢字による文芸交流を支援するのは、政府の仕事であるかも知れない。然し現在の政府にはその意義を理解することも、支援の手を下すことも無い。となれば金子兜太が漢俳野普及のために、アンソロジーを現代俳句協会が支援した例を参考にすべきではなかろうか。そしてその第一歩として、董振華氏の近年の作句活動を特集し顕彰すべきではなかろうか。