俳人金子はるを訪ねて
   ― 秩父山峡に生きる兜太の母 ― 

石橋いろり  

 皆さんはご存知だろうか。金子兜太師の御母堂金子はるさんも俳句を詠まれていた事を。

 夏の山国母いて我を与太という 兜太  

 与太と呼びながらも母の大らかな愛が滲み出ている掲句を愛吟する人は多い。この句のせいか、はるが俳句をよすがにしていた事を知る人は少ないかもしれない。

はるの生い立ち
 はるは、明治三四年三月、埼玉県小川町の濱田篤蔵・さくの間に生まれた。篤蔵は小鹿野町出身。繭で財をなし秩父鉄道(上武鉄道)を創設した柿原万蔵の経営する柿原商店に職を得た。その後、小川町の支店長に抜擢され、小川絹の買継商で財をなしたそうだ。篤蔵は比較的若く逝去し、六歳上の兄篤雄が後を継いだ。一方、母のさくは小川町の穀物商中村孫七の四人の子の一人で、兄篤雄は、東京の中学を卒業後、銀行員を経て、柿原商店の仕事の傍ら小川町の議員にトップ当選し小川町の政財界で活躍。はるは、地元の尋常小学校卒業後、多分寄宿舎を持つ熊谷の女学校に学んだらしいが、定かではない。嫁ぐまでは、家で花嫁修業し学問も母さくに叩き込まれたという。高い教育水準の環境にあったようだ。兄篤雄が、宇都宮連隊で伊昔紅と意気投合。こうして、はると伊昔紅の縁が結ばれ、はる十六歳の時、山を越えて秩父に嫁いできた。はるの婚儀で余った資金を社寺に寄付したことが記録に残っている程、当時のはるの実家は富裕な家で、女中さんを一人連れての嫁入りだったそうだ。

秩父に嫁いで・壺春堂の句会
 兜太の父伊昔紅の医院「壺春堂」は、今も皆野町に当時の俤を残しており、皆野町初の国の文化財登録がされている。主屋は幕末から明治にかけて建てられ、屋根裏で養蚕をしていた大きな農家。皆野を流れる荒川に親鼻橋が架けられたのが、明治35年。その折に壺春堂は宿として造りかえられた。それより前には、二艘の和舟が親鼻の渡しとして、往来の手段となっていた。現在の橋より少し下流にあったそうだ。親鼻橋開通により往来が増えることを見据えて、宿として造りかえたという。壺春堂の現在の入り口から入った庭の部分に簡単な厨と、母屋との渡しが架けられ、二階に料理が運ばれたそうだ。
 昭和元年には、伊昔紅によって住居兼医院に改築された。現在の土間手前半分に待合室と薬局、奥を台所とし、裏口を設けていた。六部屋のうち待合室隣を診察室とし、奥座敷南側を客間(獅子の間)として句会場として利用し、他の四部屋が生活空間だった。
 祖父母、三人の小姑と三人の連れ子の大家族。 熾烈な因習の中、小姑や姑にいじめられた。伊昔紅の学資を稼ぐために働きに出てくれていた小姑だっただけに伊昔紅は庇うこともできなかったようだ。はるは、きつい状況で、実家も没落し、孤立無援で只管耐え抜いた。

 塀白く俯向き堪える夜の母 兜太(金子兜太句集)

 この「塀白く」の白の残像が、一層この句の深い闇を際立たせており、「塀」の持つ遮蔽的且つ連続性が、果てなき苦境を暗示している。兜太は母の姿を間近で見続け、母への哀切の情が募り、封建的家族制度に異論を抱くようになったと言う。大学での専攻を経済学としたのも、秩父の暮らしを救いたい、とした兜太の反骨の精神が礎にあったのかもしれない。
 秩父の俳壇を牽引してきた伊昔紅の元には養蚕や畑仕事をしている知的好奇心に飢えた若衆が集まってきていた。句会の様子は兜太自身の述懐にある。

 天井の煤けた我が家の広間に次々に男たちが集まってきました。その内の一人が各人が選んだ句を読み上げます。楽しそうな大声には時に冗談もまじり、そのつど部屋中に笑いがまき起こります。こんな雰囲気さえそれまでの句会ではありえなかった事でした。(『二度生きる』)

 そのうちに酒が入ると、全然違うことで取っ組み合いになって、障子は破るわ、 襖は破るわ、毎回めちゃくちゃにして 帰るんで・・・(金子兜太・半藤一利 『今、日本人に知ってもらいたいこと』)

 句会終わりに必ず酒と饂飩を出した。粉を捏ねて、二十人近い人の饂飩を出すのは、重労働だっただろう。

 麺棒抱えて嫁ぎし母の長寿かな 兜太(『百年』)

 この『二度生きる』の引用には、刮目すべき記述が続く。

 小学生だった私は横にいてそれを聞いています。他にも、母や出戻りの叔母たち、近所のおばさんたちまでが半分暇つぶしに集まってきて、並んで聞いていました。

 金子家にいて、はるは、兜太がそうであったように習わぬ経の如く俳句に親しんでいたことがわかる。兜太には、人に非ずと書く俳人の道に進むことを戒め医院を継いでほしいと願ったのだ。しかし、はるの中で俳句への興味の種は育くまれていたのだ。正確には四十四年春から、はるは俳句を始めていた。「俳句雑記」と題した手帳が三冊あり、そこに俳句を始める覚悟と取れる言葉があった。

昭和四十四年春より少しずつ俳句の勉強に入る。
秋主人病気全快
千鹿谷鋼泉から本格的にはじめる

新聞に掲載されたはるの句 
 昭和三九年秩父新聞の一月二十五日号に宝登山神社の神域に伊昔紅の句碑建立の記事が掲載された。

 たらちねの母がこらふる児の種痘 伊昔紅

 五月二十四日の除幕式には石塚友二ら俳句界の有名人も含め一三〇人が参加したと秩父新聞六月五日号にあった。はるの句は伊昔紅句碑五周年句会にはなかったのだが、六周年の記念句会に初めてはるの句が掲載された。

『秩父新聞45年6月15日号』
 また一つ京の土産やはもの味 金子はる

 伊昔紅翁の講評があり、そのあと句碑建立を撮影した八ミリによってしのび、昨年大病を病んだとは思えぬほど元気な翁の健康を祝した。翁八十一歳。

『埼玉民報45年6月20日号』
 長旅によごれし足袋や白あやめ 金子はる

 七彩会の会員が呼びかけ、特に今年は愛妻はる夫人や、毎月先生宅で開いている“馬酔木”の会員等も参加・・・ 
この両句“はもの味”と“長旅に“がはるの誌上初出の句となった。翌年、秩父新聞(6月25日号)に掲載されたのが、

 温泉土産の粽を夫と朝餉にす はる

 また、伊昔紅先生叙勲記念句会での同誌11月15日号には、

 柿投げて二階の患者手にうける  はる

はるの手帳には叙勲の日のことが詳細に記されていた。

昭和四十六年十一月十二日国立劇場にて伝達式あり文部省より。車で宮場へ。拝謁。主人勲五等瑞宝章受章。
豊明殿(230坪)
 豊明殿共にあやかる菊日和    はる
 賜謁の朝しまる鼻緒やささ鳴ける はる 
 山茶花や並ぶ受賞者寫絵に    はる 

 この頃から俳句は喧嘩で終わる苦々しい物から日常を詠う楽しい物として、また、記憶に刻みたいものを形として留める手段として、はるの中で芽生えていったようだ。

『鶴』への投句の経緯
 「鶴」に投句したのは何故なのか。伊昔紅は「馬酔木」、兜太・千侍は「寒雷」。昭和37年には兜太が「海程」を創刊していたのだが。 多分家族と同じ土俵に上りたくなかったのではないだろうか。「馬酔木」ほど耽美的ではなく、「寒雷」ほど人間探求的でない。両方の要素を合わせ持ち日々の生活を題材にする「鶴」がはるには合っていたのかもしれない。伊昔紅が友人水原秋櫻子を通して、石田波郷(元鶴主宰)、石塚友二(当時主宰)と知遇を得ていた。壺春堂にも出入りがあり、それを裏付けるように、壺春堂の襖には三人の直筆の短冊が今も並べて貼られている。

『鶴』主宰の石塚友二との関係性
 思いきやまかりて一夜雛の間  友二
(石塚友二句集)

 これは、壺春堂の襖の友二の短冊で、昭和18年春、浅賀爽吉の出征送別会に壺春堂に泊まった時の挨拶句。浅賀爽吉とは、伊昔紅の門下の七人の侍の一人であり、「鶴」秩父支部の会員でもある。(七人の侍とは秩父七彩会の母体で、浅賀爽吉・潮夜荒・江原草顆・黒沢宗三郎・村田柿公・渡辺浮美竹・紅梓の事。余談だが、皆野駅前の鰻の吉見屋の先代が潮夜荒で、伊昔紅の信頼篤く、多くの貴重な色紙等が二階の広間に展示してある。)
 この時、秩父は月後れの雛祭りだった。この時のことを友二は『秩父ばやし』の跋文で「調度品が志那色一色の座敷に、床しくも立派な雛壇が飾られ、優雅な古代雛達と共に一夜を明かした」と述懐していた。
 また「石塚友二句集」(「鶴」七百号記念刊行)には、

 壺春堂先生も座に菊膾  友二 

が掲載されていた。
 友二との関係性は、伊昔紅の句集『秩父ばやし』の跋文「壺春堂翁と私」で友二が縷縷述べており、その後記で伊昔紅は「この句集を編むに当って、秩父人と最も友好接触の深い石塚友二氏が、刊行の一切を引き受けて下さったこと、更に暢穆達意の跋文を以て、巻末に千鈞の重みを加え得たことを深く感謝いたします」と謝辞を述べていた。
 またそれから九年後に上梓された伊昔紅の第ニ句集『秩父音頭』の序文「縁に因みて」も友二が書いており、その間も交誼があったことがわかる。その序文で、友二は、医師伊昔紅・金子元春は山本周五郎の赤ひげ先生を彷彿すると描写していた。
 斯うして、夫の絶対的信頼を得ている友二の人となりをはるも十分知った上で友二を師に選んだのだ。

「鶴」への投句と特選句
 はるは、俳句誌「鶴」に 46年3月から15年間殆ど欠稿なく投句した。掲載句以外に毎月五句ずつ投句したとすれば、900句程作句していたことになる。投句は全て、はるのノ―トに克明に記録されており、掲載句にはきちんと入選の「入」が付記されていた。

親父が死んだ後、母親は投句中心に始めたんだけど、巻頭句つまり優秀作だな、これにはなったことがなかった。(今、日本人に知ってもらいたいこと)

 兜太のこの述懐はいささか事実と異なる。俳句を始めたのは、伊昔紅没年の五二年ではなく四四年春から。 46年3月の「鶴」31号が初掲載なので、投句は45年12月には済ませていたはずだ。また、「鶴」の巻頭句『特選句』に選ばれている。

 白木蓮や牛小舎飼屋抽ん出て はる(47年7月号)

 主宰の友二の特選句の句評も掲載していた。

牛小舎は兎も角、飼屋といへば、多く二階建ての高い家屋のやうである。その、牛小舎を控えた飼い屋を抽ん出た木蓮だから、大木ぶりも自ら想像出来ようといふものである。また従ってその花の豊かさをも。そして、中天に枝を拡げてその豊かに咲き誇る木蓮の花の、紫でなく白であることが、この句を頓にも匂ひ高いものとしてゐる。牛小舎飼屋の前景も効果的だ。 (「鶴」47年7月号)

 伊昔紅とはるの関係 夫は一回り上の丑年だった。

 豆を撒く共に丑年老夫婦    はる
(48年5月号)

 医師で、秩父音頭や秩父文壇を牽引していたカリスマ的な伊昔紅に尊敬の念を抱いていたのだろう。小姑達が出ていき、子育ても終わり、37年、兜太は「海程」を創刊。翌年千侍が金子医院を継ぎ病院を開業した。
還暦を迎える頃になると、生活は落ち着いてきたようだ。

 元日の生みたて玉子夫の掌に  はる
 (49年9月号)
 朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太(少年)

 兜太が妻皆子に大事そうに蚕を見せたように、はるは、元日に生みたて玉子を夫の掌に渡している。玉子のぬくもりごと手渡したのだろう。一年で最も寒い季節の寒中の玉子は特に滋養豊かという。正確には小寒から立春までを寒中と言うので、「寒卵」を季語に立てなかったのかもしれない。

 元朝に生れ来て夫や米寿たり  はる
 (54年4月号)

 掲句から、元日が伊昔紅の誕生日だったことがわかる。そう考えると、

 蕗の薹掌にのせ妻の誕生日  伊昔紅 
 (秩父音頭)

との相聞歌ではと紐解きたくなる。
 俳句作りにおいては、夫を師とし作品のチェックを受けたこともあるようで、それは手帳にもノ―トにも、その痕跡があり、夫の評価、◎、〇、△などが付記されていた。

ヤマブ味噌蔵句会
 兜太の句碑が秩父に集中して建立されているが、そもそもは伊昔紅の句碑が先に建立されていた。その立役者がヤマブ味噌の創業者の新井武平だった。秩父の味噌醤油製造業のヤマブ味噌は県下に販売網を広げていた。商工会長などの要職についていた初代が秩父音頭家元の碑建立の発起人代表もしていた。秩父の活性化・秩父音頭の普及という大志を共通言語にして、伊昔紅と武平は昵懇の間柄となり、昭和43年味噌工場の敷地内に伊昔紅の句碑を建立することとなった。

 味噌搗(つき)や負はれて踏みし日の記憶 伊昔紅
 (秩父ばやし)

 その後武平は、伊昔紅の門下となり、句作を開始。 後日、武平は次の句を詠んでいる。

 師の句碑を神とし念じ味噌造る  武平
 (呟醪(けんろう))

 毎年、味噌搗句碑記念句会が持たれ、以後味噌蔵句会と名打って四回おこなわれた。メンバ―は、伊昔紅を主座に、千侍、七彩会などと盛会だった。味噌蔵句会の詳細は、新井武平の遺句集『呟醪』の金子千侍の序文からうかがい知ることができた。
第一回・・・昭和46年7月4日
第二回・・・昭和47年6月25日
第三回・・・昭和48年11月23日
第四回・・・昭和49年10月13日
 初回から第四回まではるも伊昔紅に寄り添うように毎回参加していたそうだ。句稿は入手することが叶わなかったが、手帳に六月二十五日の第二回の味噌搗句碑会に五句出したものが残っていた。そのうちの三句。
 2 抱卵の燕ささやき交替す  はる
 3 板前が空樽洗ふ黴る前   はる
 3 不如帰御客も覗く橋普請  はる
この数字は得点なのかもしれない。
 生憎、伊昔紅が体調を崩したことで、句会は四回までで、その後は千侍に引き継がれ、長年句会は続いた。会場はヤマブで、その準備・接待は二代目郁夫の弟隆治の妻伊都子と郁夫の妻和子が一切取り仕切り、はるは武平の妻むめに離れの茶室に招かれ話をするのを楽しんでいたそうだ。むめ逝去の昭和45年7月に詠んだ

 病みきりて静かに逝きぬ合歓の花 はる

この句を短冊にして、今も壺春堂に掲げてあることからも、佳き親交があったことが推察される。

 蓑山山頂に伊昔紅先生の秩父音頭歌碑建つ
 薫風や師の歌碑の今日除幕 武平 (呟醪)

金子伊昔紅先生
 薫風や米寿迎へし師や悠ゝ 武平(呟醪)

 伊昔紅逝去後も、変わらず千侍を師に味噌蔵句会を継続し、兜太の記念碑を多数建立した。初代のみならず秩父への思いを引き継いだ二代目郁夫氏、現在社長の藤治氏よりの有形無形の尽力を得ている。現在もヤマブホームページに兜太句碑や壺春堂記念館(兜太・産土の会)にリンクが張られている。
 皆野町観光協会の「金子兜太句碑巡りの旅」のリ—フレットで句碑が紹介されている。 
 おおかみを竜神と呼ぶ山の民 (壺春堂)
 裏口に線路が見える蚕飼かな (皆野)
 夏の山国母いて我を与太という(円明寺)
 山峡に沢蟹の華微かなり   (萬福寺)
 おおかみに蛍が一つ付いていた(椋神社)
 僧といて柿の実と白鳥の話  (円福寺)
 よく眠る夢の枯野が青むまで(ヤマブ味噌)
 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(水潜寺)
 日の夕べ天空を去る一狐かな(天空の里)
 猪が来て空気を食べる春の峠(長生館)
 谷間谷間に満作が咲く荒凡夫(宝登山神社)
 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな(総持寺)
 舞うごとし萩の寺いま夕暮れて(洞昌院)

はると秩父音頭
 伊昔紅は金子社中の頭として秩父音頭の歌詞と振り付けとを練り上げ、日本中に伝播させていった。その渦中にいたはるにとっても「秩父音頭」は生活の一端であり、切っても切れないものになっていたと思う。金子社中は秩父音頭の様々なイベント(NHKうた祭、大阪万博8月9〜11日)に参加していた。

〇明治神宮遷座十周年(紀元2600年の記念式典)でのお披露目
昭和5年11月3日。全国より選ばれた神事舞の一つとして秩父豊年踊として出演。その後、昭和二五年、豊年踊りが埼玉県の代表民謡と認定され、以後「秩父音頭」と改名され、県下小学校の体育の実技として教えられた (金子千侍の『踊神』)

〇秩父音頭歌碑の建立
 皆野町美の山(蓑山)に建立されたこの歌碑には秩父音頭の歌詞が刻まれた。

 一目千本
 万本咲いて
 霞む美の山
 花の山

 この副碑には伊昔紅の文の幷書に由来が書かれていた。
 この地方の古い盆歌を編曲して、勁(けい)節の調べを加え、歌舞伎の流れを汲むといわれるこの踊の正しい型を温めて、宛転たる表情を与えたものが、今の秩父音頭である。昭和5年11月選ばれて、明治神宮遷座十周年祭に出演奉仕してから、星霜二十五年を経て、秩父音頭も漸く全国的に愛好されるようになった・・・

昭和29年11月3日 文化の日
            伊昔紅 文幷書
 時雨れては松より青き踊の碑 伊昔紅
 (『秩父ばやし』)

 この「一目千本」の句碑建立式典に招待された伊昔紅とはるのにこやかな写真が『秩父音頭』に収められており、夫妻にとっての秩父音頭の重みを窺い知ることができた。
 句碑の隣には、捩り鉢巻を巻いた伊昔紅の堂々たる銅像も建立され、今も秩父を望見している。また金子社中の後継となった金子千侍の第ニ句集『踊神』のあとがきに秩父音頭の全貌が具さに纏められている。

〇大阪万博
 万博にははる自身は参加せず留守番だったのだが、心は共にあったはず。はるの「俳句雑記」には、
八月八日出発九日、十日、十一日出演、十二日帰宅す とあった。

 蜩や万博出演いよよ明日   はる
 万博の出演長し百日紅    はる

〇秩父音頭の替え歌
 皆野町では、古くから町を挙げて秩父音頭の普及を目指して替え歌を公募していた。学校でも力を入れ作詞するよう指導していたそうだ。はるの昭和49年5月26日の覚え書きノ—トには「句碑十周年記念献歌」と副題が添えられているものがあり、はるオリジナルの秩父音頭と思える歌詞が見つかった。

 ハ―アエ―
 おらが隣りじゃよいむこ貰った
 医者ではくらくで大工で左官
 うすのめも切る小石もかける
 わるい事にはエサシがすきで
 農の五月もその六月も
 くくりづきんにかみこの着物
 腰にモチつぼ手に竿さして
 うらの小山へちょっくらちょっとのぼる
 トロンコトッキントン ヒ|ヒャロトキ|

 節をつけてみると、なるほど秩父音頭のよう。大工で左官のフレ―ズは、憶測であるが、千侍の『寒雷』初掲載の句、大工左官焚火の煙に顔つくる 千侍(絹の峠) に感化されたかもしれない。掲句は千侍が敷地内に自宅を建設した昭和45年当時の句ということで、はるにとっても、大工・左官が日常の中で目にしていたということもあるだろう。ただ昔はなんでも家の修繕は自前でこなした時代だったと考えると、伊昔紅の一面を表現したのかとも思える。伊昔紅をおどけたように描写していると解釈すれば、諧謔性があり、夫婦間の温かい心の通いあいがあったことが感じられる。

〇秩父音頭の歌手吉岡儀作への追悼句も残している。54年6月号には、
 冴え返るその声ばかりいきいきと はる
コロンビアレコ—ドに音源がありYOUチューブで聴けるかと。

はるの句 歳時記に馴染のの鳥や植物が身近にあった。それらと交歓した句が。
〇想夫恋の句
 春愁や杖に馴染まぬ夫に踪き   はる
 (49年9月号)
 濡縁に夫が爪剪る菊日和     はる
 (50年2月号)
 なやらひの声張る夫の腰ささふ  はる (52年5月号)
 夫の日日悠悠自適石蕗咲かす   はる
 (52年2月号)
 (昭和五二年伊昔紅没後)
 石蕗咲けど夫の座空し香捧ぐ   はる
 (53年2月号) 
 一人居の玻璃戸に寄れば夜の蟬  はる
 (53年12月号)
 法筵は亡夫の好みし鮎料理    はる
 (54年1月号)
 後れ咲く白芍薬は亡夫のもの   はる
 (57年10月号)
 鰯雲夫の墓まで腰曲げて     はる
 (60年2月号)

 苦難の中、はるはなぜ実家に戻らなかったのか。理由は、実家が没落したからだけではなく、伊昔紅がとても優しかったからと伝わっている。句の中にそれが読み取れる。

〇旅に出て詠んだ句
伊昔紅とは近場の鉱泉・温泉や琵琶湖、奈良京都、倉敷、伊勢路なども巡った。伊昔紅の心遣いが見える。

 魞の風かほる琵琶湖の橋渡る    はる 
 (48年9月号)

〇壺春堂庭先の榠樝
 亡き夫が形見の榠樝捥ぎてけり   はる
 (55年2月号)
 榠樝の実欲りし人の名しるし置く  はる
 (56年2月号)
〇祭の句・秩父音頭
 見てゐしがいつしかおどる輪の中に はる 
 (51年12月号)
 山梔子の咲けば稽古の祭笛     はる 
 (53年10月号)
〇諧謔味・ユ—モア性
 柿投げて二階の患者手にうける   はる
 (秩父新聞秩父46年)
 無尽講誰彼欠けしちちろ虫     はる
 (46年12月号)
 春炬燵昼餉の後の夫蝦寝      はる 
 (46年7月号)
 自転車に干大根のをどりゆく    はる 
 (55年4月号)

妻を想う伊昔紅の句
 鏡台に向ひて今朝の栗を置く  伊昔紅
 (秩父ばやし)
 老夫婦団扇ひとつを隔て寝る  伊昔紅
 (秩父ばやし)
 菜を漬けて老妻足の冷えかこつ 伊昔紅
 (秩父ばやし)
 筍を煮るさへ妻のかくし味    伊昔紅
 (秩父音頭)
 犬ふぐりおばば年金貯めてをり 伊昔紅
 (秩父音頭)

母を想う兜太の句
 狼が笑うと聞きて母笑う  兜太(百年)
 山国や老母虎河豚のごとく 兜太(両神)
 母さんの涼しい横顔黒潮来 兜太(百年)

「鶴」の句に見る季語の使用頻度数 
 「梅雨」が一五回、「榠樝」「笹鳴き」が七回。他は平均して一回から三回だった。
 「梅雨」が多いのは、兜太の言う秩父が山影の地である事からか。秩父の年間日照時間、雲の張り出している時間の長さに因るのかもしれない。

 夫の腰迂闊に起てず梅雨炬燵   はる
 (49年11月号)
 梅雨満月思はず落す蔵の鍵    はる
 (54年11月号)
 裏山に鳴くは狐か梅雨の果    はる
 (59年9月号)

伊昔紅遺句集 『玉泉』
 伊昔紅亡きあと昭和五六年九月に、紺桔梗の布張りの表紙に『玉泉』と刻印された遺句集が上梓された。因みにこの『玉泉』の出版記事は朝日新聞同年9月21日号に千侍の写真入りで掲載されている。千侍が編集委員長となり、七人の侍の手を借りて作成された。親交のあった水原秋櫻子、石塚友二、篠田悌二郎、及川貞、牧ひでを、加藤楸邨、草間時彦などの玉稿と伊昔紅の薫陶を受けた百人余の作品が収められた。その中には金子家の面々(はる・兜太・皆子・千侍・律子・洸三)の句作も収められている。友二が序文を書き、跋文には兜太が「親たるもの八十五歳までは生きる義務があるということなど」を寄せていた。編集後記には千侍ら編集委員の言葉が添えられていた。

謹んで弟子たちの作品集『玉泉』を伊昔紅先生の御霊前に捧げます

杜鵑  金子はる 「玉泉」より     
 老人のまた重ね着や戻り梅雨
 艶拭きの手先のぬくみ笹鳴ける
 杜鵑夫は日課の小太刀握り
 蔵閉めて立待月と顔合す
 元朝に生れて夫や米寿たり
 蟷螂が夫の位牌の辺にあそぶ
 掌に受けて重き包や寒卵

一句入魂のノ—ト 
 晩年のはるは、出不精を決め込んでいた。

 籠りゐてけさ気づきける花榠樝  はる
 (57年9月号)

 居間にいて庭の樹々を見ながら、細い罫線のB5のノ—トに隙間なく自分の句を清書していた。美文字で一句一句清書してあった。あの数十冊に及ぶノ—トを手にし、これは精神統一して認めた「写経」ではないだろうか。

百二歳まで俳句をずっとノ—トに書いていました。私の小さいときは、あれほど俳人嫌いだったおふくろです(今、日本人に知ってもらいたいこと)

 このノ―トの存在により、はるの余生が俳句と共にあったと確信した。このことは夫が「俳句を生涯捨てない覚悟」と言い切った思いが胸奥にあったのかもしれない。或いは夫と息子たちが生涯手放さなかった俳句を自分も身近に置く事で満たされたのかもしれない。
 否、純粋に俳句が好きだったからなのだろう。

百四歳ではるは他界
 母逝きて与太な倅の鼻光る 兜太 (日常)

 気力体力で負けることなく、天寿を全うしたはる。秩父の滋味豊かな風土の中で俳句を詠み続けたはる。はるを訪ねて、改めて兜太のこの句(日常より)が沁みてくる。

 母よりのわが感性の柚子熟るる  兜太 

<了>

 

金子はるさんを想う

石橋いろり

 「兜太師に俳句を禁止していたご母堂のはるさんが実は俳句を詠んでいた?」この一つの疑問がはるさんについて調べる端緒を開きました。結果多くの方に読んで頂き、この度の奨励作に選んで頂く僥倖に恵まれるとは!
 自分自身震えるほどに驚いております。
 はるさんは句集を出されてないので、資料集めが難航し、折しもコロナ蔓延の頃と重なり図書館利用も制限がかかり、不便なこともありました。しかし兜太先生のご生家である秩父皆野の壺春堂さんを何回か訪れているうちに、多くの方のご協力を得ることができました。少しずつはるさんの片鱗が、まるで繭玉のように大きくなっていきました。そのことが私の背中を押してくれました。
 余談ですが。はるさんは明治三十四年三月生まれ。実は私の二人の祖母が翌月の四月生まれ。一人は春江、はるさんと呼ばれてました。二人は三嶋の女学校の同級生でした。父方の祖母はるさんは寄宿舎、母方は東海道線で通学し卒業間もなく若くして結婚したそうです。こんなこともあり、着物姿のはるさんがなんだか身近に思えたのでした。
 「はるさんをこのまま埋もれさせたくない!」という勝手な使命感まで芽生えていました。はるさんや伊昔紅さんを訪ねたことで、兜太師を暫し近くに感じることができ、吾身にとって、倖せな時間だったと思えるのです。

プロフィ—ル

石橋いろり(いしばし・いろり)

 1958年富士の裾野で産湯を浸かり、東京の多摩地区に育つ。
 2010年、金子兜太先生の浦和カルチャ―に入会、兜太節にふれ、電流が走る。直ぐに海程の兜門句会と多摩現俳協に入会。当初、 兜太先生と安西篤先生のお二人からご指導を賜るという幸運に恵まれる。茅葺き屋の爐が好きで、いろりと名乗る。
 母、父、姑の看護、介護、看取りをする中、挫けそうになった時、俳句が自分を取り戻す特効薬になってくれた。2017年、海程同人に。現在海原同人。東京多摩地区現代俳句協会副会長。