どこまで自分でどこから世界?
小松 敦
好きな男子の留守宅に忍び込んで、男子の部屋の箪笥の引き出しの奥に自分のモノをそっと置いてくる女子の話、どの小説だったか思い出せなくて、あれこれ引っ張り出してはページをめくってみたけれど探し出せず、諦めた。あれも、自分と世界のかかわり方のバリエーションだ。
毎月新宿の句会に来る今年で98歳の御姐様愛用のシルバーカートは、両腕からトランスフォームして体の一部(前輪)と化している。いろいろ書き込んでいたメモ帳を旅先で失くしたらちょっとした記憶障害。PCやスマホを介してウェブの世界に脳みそが拡張している。年老いたら住み慣れた家を出ない方がいいと聞く。挙げればきりがない。サイボーグ・アンプラグド。身体と環境がひとつながりだ。こうしてみると、どこまで自分でどこから世界なのか、怪しくなってくる。今年は何度か喪服を着たが、みんなあの世に逝った気がしない。物語は続いている。この世あの世の境界までもが曖昧だ。もっとも、人間の身体も質量保存の法則(今は中2で習うらしい)に則っているのだから、姿を変えてもどこかにはいる。
それにしても日々の生活がある。今年いちばん楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、思い起こしてみる時期だ。本当にいろいろあった。近くのこと、遠くのこと。幸か不幸か、嘘か実か、世界中で起こっていることを見聞き出来てしまう。こうなると中村哲氏の言う通り「一隅を照らす」しかあるまい。
星野道夫の『旅をする木』に「もうひとつの時間」というエッセイがある。東京で電車に揺られているときも北海道のどこかで確実にヒグマが歩いていて、アラスカでは鯨がジャンプしている、〈すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さ〉を回想する。〈僕たちが毎日を生きている瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。〉
ボルネオのプナン族は知っている。吹き矢を吹いて小鳥に当たるのは、因果ではない。吹くと、当たるとは、二つの出来事ではなく一つの出来事で、初めから同時に起こることなのだ、と人類学者の岩田慶治は言う。時系列や因果律ではなくて、それぞれが離れていてもひとつながりになってる世界を思うこと。星野道夫も全然違うフィールドで同じように感じてる。兜太の「生きもの感覚」も。「おかげさまで」も因縁生起。
おかげさまで今年も一年無事に過ごせました。ありがとうございました。
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ご参考
“Brighten the world in your corner.” Dr. Tetsu Nakamura
https://akomix.blog.fc2.com/blog-entry-537.html
『旅をする木』星野道夫/文春文庫
『アニミズム時代』岩田慶治/法蔵館文庫
『談』no.130/特集 トライコトミー/TASC
https://www.dan21.com/backnumber/no130/index.html