ふるさと巡り 隠岐の島(2)
隠岐の島(島後)について
月森遊子
配流の島の隠岐について、後醍醐天皇の遠流には二説ありと島前の項で述べたので省略する。
Ⅰ 隠岐のむかし
人々の生活の中で刃物として原石を割っただけで鋭い刃となる黒耀石があった。縄文時代ではこの黒耀石が交易の中心だった。
飛鳥時代~奈良時代には、「国府」が置かれ国分寺と国分尼寺が建てられた。奈良時代724(神亀元)年に、遠流の地に定められたのでそれから多くの人が流されたが「政治犯」が多かった。流人の第1号は、飛鳥時代の686(飛鳥元)年の、大津皇子の事件で連座した「柿本躬都良」だった。平安時代の流人で、もっとも有名な人物は「小野篁」である。一説には「篁」は小野妹子の子孫であり、小野小町の祖父ともいわれている。「篁」は優秀な人物で、皇太子の家庭教師や参議も務めた。834(承和元)年に遣唐副使に任命されたが、船が壊れたのを機に仮病を使って乗船を否定し遣唐使や朝廷を批判する詩を作ったので、時の天皇嵯峨天は激怒し隠岐へ流罪とした。流罪となった篁の歌、百人一首にもある
「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよ海人のつり舟」
戦国時代に隠岐を統一した隠岐宗清の二代後の爲清は、中国地方で毛利元就に敗れた尼子氏の一族で出家した。尼子勝久と家来の山中鹿介を勝山城にかくまい、尼子民再興に協力した。
江戸時代の隠岐は1838(寛永15)年に天領となり、松江藩預りとなったが、本土の産業の発達と交通の発達など、北前船による海上輸送の「風待ち港」として存在感を示した。
Ⅱ 隠岐の文化
1.代表的な三代祭りと蓮華絵舞
玉若酢命神社御霊会風流、水若酢神社祭礼風流、武良祭風流、蓮華絵舞。特に蓮華絵舞は能楽や神楽とは異なる古典芸能で、隠岐には宮廷舞楽として平安時代に伝来したと伝えられている。
2.隠岐の牛突きについて
その起源は1221(承久3)年隠岐へ配流された後鳥羽上皇をお慰めするために行在所(海士町)でお見せしたのが始まりといわれている。都万地区の「八朔牛突大会」は、檀鏡神社の「八朔祭」の余興として毎年9月1日に開催。五箇地区の「一夜嶽牛突大会」として毎年10月13日に開催。
3.隠岐の民謡について
隠岐の民謡は江戸時代に北前船の船頭によって伝えられたといわれ、全国の離島の中では群を抜いている。北陸や北海道がルーツと考えられる民謡は、「しげさ節」「どっさり節」「隠岐追分」「しょうじろう」「盆唄」など。九州地方がルーツと考えられる民謡は「キンニヤモニヤ」「のほんほ」「バンバ踊り唄」「船祝い唄」など。中国地方を経由して来た民謡は、「ずし」「おそめ」「匂梅」「相撲唄」など。隠岐で生まれた民謡は「しげさ節」「隠岐大漁ばやし」「浄土ヶ浦小唄」「白鳥音頭」など。
4.古典相撲について
相撲の発祥地は出雲という説がある。古事記の神話の「タケミナカタ」と「タケミカヅチ」の力くらべとか野見宿禰と当麻蹴速が角力をしたという記述が日本書紀垂仁記に記されている。また江戸時代における勧進相撲では松江藩お抱えの雷電為右衛門、玉垣額之助など大変活躍した。現在の祭礼事を見ても島根県内には特徴的な相撲神事が多く伝承されている。武良祭(中村地区)の神相撲、日吉神社(西ノ島町)の田楽の中で行われる神の相撲、美保神社(松江市)の青柴垣神事の為知相撲などがある。
隠岐古典相撲の起源は、江戸時代にさかのぼるといわれている。伝承によると寛政年間(1789~1801年)の頃に水若酢神社殿の改築にあたって相撲興行が行われたとある。主に社寺の勧進相撲として相撲大会(宮相撲)がたびたび行われていた。1963(昭和38)年までは島内でもよく相撲大会が開催されていたが、この頃から島外への若者の流出が顕著となって大会の維持が困難となりしばらく途絶えた。
隠岐の相撲を復活させようと中条地区の横地治男氏が中心となり、相撲愛好家や力士経験者が集まって「大巾会」が結成された。それから以後大巾会が中心となって相撲大会を運営し相撲の発展に尽力した。1972(昭和47)年11月3日名称を「隠岐古典相撲大会」と改めて1回大会が開催され現在まで続いている。
隠岐古典相撲大会は、「神事」として行われるものであり、独特のしきたりが残され大切に守られている。
イ.島の大きな祝事に開催
隠岐古典相撲大会は、神社の遷宮や大型公共事業の完成など島を挙げての祝事があるときに開催される。
ロ.人情相撲(二番勝負)
勝負は同じ相手と続けて二番取り最初に勝った者は次では相手に勝ちをゆずり一勝一敗で終わる。取組が終わるとお互いに相手を抱きかかえて健闘をたたえ合う。引き分けで終わることで、せまい島内にいざこざを残さないための配慮といわれており、これを「人情相撲」と呼んでいる。
以上