撮影:徳武進吉

「わたしの1句」鑑賞  林 桂

 雪吊された松がライトアップされている。金沢の兼六園だろうか。まだ雪は見えない。
 雪吊は、雪の重さによる枝折れを防ぐための冬期の設えである。雪が来る前に施される。ただ、この景観の美しさは本来の目的を超えて、冬の風物詩として観光の目的化されている。もちろん、ライトアップの目的は、後者のためのものである。
 溶暗(フェイドアウト)は、しばらく闇にその姿を止め、やがて消えてゆくまでを言い止めたものであろう。
 そのさまを「禊」という。松の穢れを祓うのだろう。ここで穢れを洗い流してくれるのは、水ではなくライトアップの光りである。その光りを浴びている限りは松の穢れは祓うことがてきているのだという見立であろう。
 松の穢れとは何か。もちろん、松は本来穢れの対局にあるものだ。松は神が降りるのを待つ神聖な木とされている。だからこそ、その神聖さを守るために「禊」が必要なのだろう。そもそも「禊」の起源は、伊邪那岐命が黄泉国の穢れを海水で祓ったことに由来するという。松は神聖な存在であるからこそ「禊」が必要なのだ。最も卑近な見立てで言えば、人海にまみれた一日の俗塵を洗い流して、神聖さを夜の闇の中に回復する。そのためのスポットライトであり、溶暗であると見立てられよう。
 三行表記で書かれている。一文字ずつ下げである。その行頭は雪吊の縄の形を模したもののようである。多行表記は文脈の断絶を生むための装置とするのが一般的だろう。しかし、ここでは行末の「の」で繋いだ文脈の粘着性を強調するためのもののように感じられる。すべては、これらを受ける「禊」を導くための装置として働いているようなのである。
 「禊」とは、私たちの目には見えない意味だ。それは「作者」の感性が掘り起こした姿である。あるいは、「作者」にとっても、「禊」は突然訪れたインスピレーションだったのかもしれない。「かな」を伴って下五に出現するのはそれを語るものかもしれない。
 雪吊は、その機能を当然保ってるだろう。しかし、一方でスポットライトを浴びて観光的な装飾をまとっている。観光的な私たちの眼には、その意味でしか見えることはない。しかし、「作者」は、松の「神聖」を回復するために必要な「禊」という意味を取り出した。それが本質的な意味であると直感しているのである。
 雪吊のスポットライトは人為的なものだが、それを仮装と喝破して、松の神聖回復の「禊」の儀式として提示する。「作者」の深層を見る目の提示が行われている。