漢俳と俳句を語る   

王衆一

 漢俳を語るにあたり、俳句を離れては始まらない。間違いなく現代の漢俳は俳句からヒントを受けて生まれたものである。現在、俳句の国際化という流れの中で、漢俳はとても異色的な存在となっている。東洋の詩的美を発見するつもりで始まった欧米のHAIKUと違って、漢俳の源流そのものが東洋の詩的美に輝いている。
 これは隋唐の時代に端を発した詩と詞に遡る。詩とは日本人の馴染みの漢詩のことで、代表的な詩人は李白、杜甫、白楽天など。詞といったら日本の方々がぴんと来ないかも知れないが、宋の時代に隆盛を迎えた。いわゆる長短の句により構成され、「詞牌」という決まった曲を踏まえて歌える、もっと「高級な」詩である。蘇軾は宋代の詞人の代表であるが、日本で紹介された彼の作品は殆ど漢詩だけである。
 遣唐使、入宋僧によって、漢詩を含めた中国文化が日本に導入された。後に日本でそれを消化され日本独自の文化を形成し、侘び、寂、幽玄など独特の美意識が生まれた。明王朝が滅びた1644年に生まれた俳聖・松尾芭蕉は、こういった美意識をもって俳句を高雅な芸術に導いたと言える。句を吟じながら奥の細道を歩いた芭蕉は、ほぼ千年前の唐代の詩人らを念頭に創作を続けたのだろう。さもなければ、「桃青」という俳号を持って李白に敬意を示すこともなければ、杜甫の「国破りて山河あり、城春にして草木深し」と雰囲気が通じる〈夏草や兵どもが夢の跡〉の句を世に残すこともなかろう。現代の俳人も稀ではあるが、時折、漢詩の境地に通じる俳句を詠まれている。塚越義幸の句〈小雪や渓流を釣る簑笠翁〉は、唐の柳宗元の「孤舟簑笠の翁/独り寒江の雪に釣る」との相互関係は明らかである。
 一方、中国の文人は初めて俳句に接した時、欧米人のような異国情緒というより、詩境が通じ合う親近感を持っていた。1676年に渡日した禅僧東臯心越が、中国人による俳句の嚆矢〈君悟れ咲く花の色松の風〉を世に残している。
 近代になって「小令詞」などの長短句に長ける中国の文人は、漢俳という概念がまだない1930年代に、今で言う漢俳のような短詩を作っていた。具体的に言うと、言語学者の陸志韋が訪問学者として1933年にアメリカのゴロンビア大学へ渡る前に、詩集『申酉小唱』を自費出版したが、『早春戯為俳句』の節に、三連句の形で次のような短詩があった(括弧の中は筆者がそれを要約して俳句風に翻訳してみたもの)。

蘆葦剛透尖/槭树展開茶緑葉/在少婦胸前
(葦芽生え女の胸にカエデ落つ)
軽腰黄寿丹/蝌蚪尾巴三屈曲/各自有波瀾
(草の根も蝌蚪の尻尾もくねくねと)
杏花満臉愁/小鳥低声来問候/夢裡過蘇州
(はなあんず小鳥囀る姑蘇の夢)

 日本とは直接に関係がないように見える陸志韋は言語学者であるため、同時期の周作人の日本語から直訳した俳句集を読んで、それに興味を示したのかもしれない。特に二十年代前後両国の文化交流が盛んだったため、陸志韋は個別の例なのか、それともほかに漢字の俳句を遊び心で作っていた文人がいたかは分からないが、これからの研究が期待される。
 このような俳句に興味を持つ文化的基礎があるため、中日関係がいわゆる「蜜月期」(ハネムーン期)を迎えた1980年に、中国仏教協会の趙樸初会長が大野林火氏を団長とする日本の俳人訪中団を北京に迎え、北海公園の仿膳レストランで開かれた歓迎昼食会の席上に
緑陰今雨来/山花枝接海花開/和風起漢俳
(緑陰 今雨来り 山花の枝 海花に接して開く 和風 漢俳を起す)
という短詩を即吟し、漢俳という概念の誕生を宣言することは何も突如のような感じはないはずである。
趙樸初氏が漢俳という形で日本からの友人に答える意識がいつ頃に芽生えたのか分からないが、その軌跡をほのめかす証拠は「人民中国」の誌面にある。1976年1月号に、「新年を迎えて日本の友人へ」という特集の中に、趙氏の揮毫した「新年に旧を話す小令八首を日本の友人に寄(おく)る」があって、やはり従来の「小令詞」の形を使っていた。しかし七年後の1983年に、「人民中国」創刊30周年記念のための揮毫は「小令詞」から漢俳に切り替えた。
 漢俳が誕生すると、すぐに中日友好のシンボルとして交流の場で頻繁に活用された。林林、林岫、劉徳有、李佩雲など漢俳の大家が輩出し、多くの漢俳作品を世に問わせたと同時に、その形式や創作方法に関する著作も数多く出版した。そして2005年3月に「中国漢俳学会」が中日友好協会のご尽力で発足するに至った。
2010年2月8日、温家宝総理(当時)は、北京で開催された第五回中日友好21世紀委員会第一回会議に出席する中日双方の委員たちと会見する際、「春到瑞雪迎/宾朋斉聚自東瀛/世代伝友情(めでたい雪が春の到来を告げ、東瀛より見える友と一堂に会し、友情を代々に伝えていく)」という漢俳を詠んで、友好のムードを一気に盛り上げた。
 漢俳は中日文化交流に活用されるほかに、国内でも世間一般の人民に親しまれるようになり、喜怒哀楽を表す短詩としてすぐに普及されていった。たとえば「中国人民解放軍行進曲」の歌詞などで名が知られている詩人公木氏は、趙樸初氏と同じく1980年に、「真理靠実践/冤案再大也平反/陰霾終駆散(真理は実践によって判明され、いくら大きい冤罪でも晴らす時があり、陰霾は必ず駆散される)」という漢俳を作って述懐した。
 近年、生活リズムの加速やSNSのWECHATが普及するに連れ、漢俳が様々な場合に利用されている。数年前に、ある地酒のテレビ広告で、音楽つきの短詩「今日又聚首/友情就像豊穀酒/滴滴在心頭(今日又一堂に会し、友情は恰も豊穀酒のごとく、一滴一滴と心頭に染み込む)」をセールスの宣伝に生かした。また最近、漢俳がモーメンツで交際の道具として活用される例も増えている。日常の風景を記録する写真に即興の漢俳をつけて一緒に発信すると、その相乗効果は言う間でもない。
「人民中国」のWECHAT公式カウントが6年前より「俳人が謳う節気と花」というコラムを設け、節気の交替に合わせて日本の俳人の名句を筆者が漢俳風に、そして名古屋在住の学者王岩氏が絶句風に翻訳して発信すると、毎回書き込みに70首以上の詩作が付いてくる。
 投稿者は様々な方がいる。地方で沢山の会員を有する漢俳団体の存在も初めて分かった。また漢俳学会の常務理事で湖南省在住の段楽三氏は漢俳の創作を続けると同時に、海外の華人を含む広い交流の輪を作っている。他に2016年より広州の六榕寺の僧侶を中心とした有志が「六榕俳林」という団体を作り、「3・17俳人デー」を設立し、漢俳の普及に励んでいる。
話が俳句の翻訳に変わるが、俳句を漢俳風に翻訳する場合、必要な加訳が不可欠である。加訳について賛否両論があるが、筆者の経験から言うと、原作の詩的美とキーワードを掴め、余白の部分を最大限に残し、濃淡のバランスをうまく保てば、575の漢字で俳句を翻訳することも可能だと考える。たとえば小林一茶の〈露の世は露の世ながらさりながら〉を筆者は「如露人世間/如露転瞬逝如幻/如此奈何焉」という風に中国語に訳している。
 俳句より川柳の翻訳は難しい。平成サラリーマン川柳を中国語に訳す際、その掛詞の落ちがうまく伝わるかどうかについて随分悩んでいた。でも閃く時は成功例もある。〈ラジカメのえさはなんだと孫に聞く〉を「問孫一問題/樹馬象鶏是啥鶏/喂它幾把米」という中国語に訳したところ、その落ちが通じた。また〈「離さない」十年経つと話さない〉もその落ちを伝えるのは難しいが、よく考えた挙句「你儂復我儂\婚後十年莫談情/你聾我亦聾」という風に翻訳したところ、読む人は微笑んで頷いてくれた。
 ほかにもこのような試みが見られる。日本在住の中国籍俳人で、俳句の国際化に励んでいる董振華氏から句集『静涵』を頂いたが、氏は自作の俳句を漢俳風や絶句風に翻訳する試みに成功している。こればかりでなく、氏はまた金子兜太、黒田杏子、長谷川櫂等の俳人の作品を翻訳して中国で出版し紹介されている。
 俳句と漢俳は、相似性と相違性が奇妙に絡んでいる中国と日本の文化の関係を象徴するようなものであると思う。将来、両国の青少年交流にも俳句と漢俳を導入して欲しい。自分の五感で感じたひとコマひとコマや、心から流れ出る感情を俳句または漢俳に込めて交流することは更なる心の触れ合いに一役を買う。なお俳句と漢俳はこうした交流を進める中でお互いに相手の美を発見しあい、それを自分の中で消化し、新しい文化的融合を実現しながら、中日の「未完の対局」をつづけてほしい。

王衆一 略歴
 1963年生まれ。1989年吉林大学日本言語学修士号を取得。1994年から一年間、訪問学者として東京大学教養学部で表象文化論に従事。2007年から2023年まで月刊誌「人民中国」編集長。2016年から6年間、俳句と漢俳の交流を図るために、「人民中国」誌に「俳人が謳う節気と花」コラムを設けて漢俳と俳句の創作及び翻訳を始める。また中日映画交流活動に多数参与。現在、欧米同学会留日分会副会長、中日関係史学会副会長、中日友好協会理事、中華日本学会常務理事などを務める。著書に『日本・韓国の国家イメージ作り』。訳書に『日本映画史110年(四方田犬彦著)』、『日本映画のラディカルな意志(四方田犬彦著)』、『私が愛する中国映画(水野衛子著)』、『ヨコハマメリー(中村高寛著)』等。