写真提供:横山健二

「百景共吟」より2句鑑賞 赤羽根めぐみ

 山の端の無月を抱けば星ひとつ  鈴鹿呂仁

 旧暦八月十五日の夜(十五夜)に月を愛でることは殆どの人にとってこどもの頃からの楽しみである。その期待が大きいだけに、ちょっとでも雲がかかっていると残念であるし、ましてや完全に見えないとなったら。だが、その見えないものの存在を思うということが「抱く」ということなんだと。抱きながら、その大きな存在に自分自身も抱かれてもいる。「星ひとつ」は見えてはいるけれど、永遠に手の届かない孤高の存在への眼差しと読んだ。

 赤富士を待つ朝風呂や大の字に  永瀬十悟

 七つのaの音をたたみ掛けていく調べの心地よさ。正に、ゆるりと昇っていく朝日と真っ赤に染まりゆく富士山を表している。作者は富士山よりも朝日よりも早起きをして、湯に浸かりながら大の字でそれを待つ。ちなみに、「現代俳句」本誌の縦書きスタイルで一句を見ると、対峙する「赤富士」と「大(の字=作者)」を軸に、ほぼ左右対称の文字で構成されているという発見も。大掛かりな舞台装置の後ろに、作者の確かな働きを感じる一句である。

 

「百景共吟」より2句鑑賞    網野 月を

 山の端の無月を抱けば星ひとつ   鈴鹿 呂仁

 多分、今頃には山の端に月が沈むころ合いであろうが、今宵は無月であるから月を望むことはできない。その代りに星が一つ瞬いている。と鑑賞した。「抱けば」の主語を「山の端」と解釈したからである。仲秋の名月を望めなかったことの名残惜しさと、一つの星の瞬きの慰めとが交錯する感情であろう。他に「追伸に余白の埋まる夜の秋」がる。こちらは「余白の」が目的語で「追伸に」が主語の呈示と解釈した。どちらも奥行きのある句であると思う。

 湖畔の灯さざなみとなり夏終る   永瀬 十悟

 『現代俳句』九月号のグラビア写真にあるように湖畔に水平に連なる灯は、その影を長くして湖面にも反映している。やがて風が出て、さざなみに長い影が揺れている、と鑑賞した。夏のこの時期にだけ、よりくっきりと湖畔の灯の反映を湖面に確かめることが出来るのである。風が出れば湖畔はやがて秋を迎えて、霧の季節へと移ろいで行くのである。さざなみを起こす風の少しばかりの肌触りの差異を感じとった作者の「夏終る」なのである。他に「赤富士を待つ朝風呂や大の字に」がある。