月明の韻──子規と虚子
高木一惠
子規逝くや十七日の月明に 高濱虚子
掲句については、「そういう語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。」と締め括られた『子規居士と余』① 所載の作者自解が世に知られているが、私は愛惜に心柱が立ったような、きっぱりとした追悼句と思う。また、白居易の「三五夜中新月色/二千里外故人心」② に通う気韻も感じられる愛唱の一句である。
然りながら、掲句にあらためて寄り添ってみたくなったのは、最近『源氏物語』の朗読に親しんで、原文と谷崎源氏などを聴き比べたりするうちに、「夕顔」の巻の次のくだりに気付いたからである。
「……道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原の程、御さきの火も、ほのかなるに、鳥部野のかた、見やりたる程など、物むつかしきも、なにともおぼえ給はず、かき乱る心地し給ひて、おはしつきぬ。」③ 光源氏が、逢い引きのさなかに物の怪に憑かれて急逝した恋人夕顔の遺骸にもう一度会うため、未明密かに馬で出かけた場面である。『源氏物語』の作者は実体験を写したかと推察されるほど、この辺りの叙述に思いを凝らした感じで、いにしえの野道の月明も目に浮かぶ。
「……白きもの、ゆらゆらゆらく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔」と、こちらは終焉近い九月七日に夕顔の花の一鉢を眺めて詠んだ子規の長歌である。(『病牀六尺』④)それから間もなく、子規は小品『九月十四日の朝』④ を虚子に筆記させて、須磨を偲んでいる。
前掲『子規居士と余』に「須磨の静養は居士の生涯に於ける最も快適な一時期であったので、如何に機嫌の悪い時でも、どうかして話の蔓をたどってそれを須磨にさえ持って行けば、大概居士の機嫌は直ったのであった。」とあるが、日清戦争の従軍記者となった子規は明治28年5月、帰国の船中で吐血した身を神戸病院に搬送され、7月には須磨保養院に移って療養し、虚子の介護を受けている。④
須磨現光寺の子規句碑に〈読みさして月が出るなり須磨の巻〉とあるのは『源氏物語』の「須磨」の巻で、光源氏が十五夜に「二千里の外故人の心」と誦じ、雁の題で侍者達と歌を詠み合う場もある。
『源氏物語』はとかく恋愛の描写に注目が集まりがちだが、不遇の光源氏が都に返り咲く「明石」へと続く巻は、闘病中の子規を励ましただけでなく、源氏が盛んに出した手紙や手すさびの写生、楽器の奏
法ほか古事伝承への深い関心を折り込む等、後の根岸での暮らしぶりも含めて、子規と虚子とに与えた影響は大きかったのではないかと考える。⑤
子規の終焉はちょうど待宵の頃であったから、子規庵で二人は時に須磨の月を偲びつつ、十三、十四と、月齢を数えたかもしれない。須磨から根岸へ、子規と虚子との心を繫いだ月明の韻を想う。
[参考文献] ①~⑤
①『回想 子規・漱石』岩波文庫(Web版「青空文庫」にも収載) ②『中国詩選(3)唐詩』白居易「八月十五日夜禁中独直対月憶元九」現代教養文庫 ③『源氏物語(一)』『同(二)』岩波文庫
④『正岡子規』ちくま日本文学全集 ⑤『病牀六尺の人生 正岡子規』平凡社(別冊太陽)