帰る場所
稲置連
寄稿依頼が来た。
詐欺だと思った。
高校卒業と同時に現代俳句協会に入会したものの、全くと言っていいほど活動できていない。中高を俳句に捧げ、文芸学科に進学したものの、俳句部という器を失った途端に活動の仕方が分からなくなった。南河内の山の上にある大学近辺からでは都会に出るのも一苦労。言い訳できないはずのオンライン句会も参加せず、たまに大学のサークルの部誌や文学フリマに出店する本に作品を載せたり載せなかったり。じゃあ他の文芸に転向したかと言えば、全てが中途半端だ。
そんな中、現代俳句協会からメールが届いた。いつもの句会の案内かと思ったら、自分の俳号が記載されている。よくよく見ると寄稿依頼である。まともに活動していない自分になぜそんなものが来るのか。一通り詐欺を疑ってみる。どこにも金を振り込めとかクレカの番号を入れろとかいうことは書いていない。そもそも現代俳句協会を名乗る詐欺なんか聞いたこともない。一週間ほど考えた後、恐る恐る承諾の返事をした。こんな機会でもなけりゃ本腰を入れて句作しない。これを機にもう少し俳句と向き合おうと思った。
久しぶりに〝ストッ句〟のファイルを開くと、不思議と脳が俳句モードになる。学校やバイト帰りの景色が頭の中に七五調の旋律で流れ出す。過去の拙句を見れば、その時の思いが鮮明に思い出される。短歌や小説も作るようになったが、それらと比べると俳句の短さは自明なのに、一番自分の思いが詰まっている。詠んだ時に見たもの・感じたことや褒められたり、或いは俳句甲子園で負けたことがリアルタイムのことのように感じるのだ。特に最後の大会で負けた句を見ると心臓が痛い。シクラメンアレルギーと言っても過言ではない。あまりに感情を込めすぎた結果、反動で俳句との距離が出来てしまったのだと思う。
そんな自分を俳句という器は受け入れてくれた。いつかある俳人の先生が「他の趣味は一度休んで暇が出来たら再開するということができるけれど、俳句は休めない」と言っていたのを思い出した。俳句をあまり作っていなかった期間も、俳句をやっていたというプライドは捨てられなかったし、季語や七五調に敏感だった。俳句が帰る場所だと思っていた。俳句の経験値で小説を書いた。
もう自分は文芸から、俳句から、逃げられない。
【ここにタイトルを入力】
ぺトリコール仄か孤独に夏の月
ハミングは小夜曲帰路の牛蛙
この腕の蚊も夏を逃げて来たのか
朝寒の鈍行歌いそびれた歌
アクスタの掲げた方に竜田姫
中継の対局時計鳴る良夜
凍て星に翳し点滴痕白く
残業の聖夜がイルミネーションになるところ
略歴
2005年生まれ。三重県出身。大阪芸術大学文芸学科在学中。ぬいぐるみ約50体と同居。
まなこ
吉冨快斗
蛾のまなこ赤光なれば海を恋う 金子兜太
句集『少年』所収。蛾というのは、端的に言って、理想美的なものとは程遠い生物であろう。同じチョウ目に属する蛾と蝶を別のものとして規定するのは、生態や行動、幼虫の特徴など様々なものがあるが、むろん、その形態も然りである。蛾は、蝶よりもくすんでいて、毒々しい。まるで、その姿態を人間たちから隠すようにして、夜にうごめきだしてはその口器を花や果実に這わせ、そこから滲み出した液体を吸う。それが、蛾という生物である。
蛾に対して、このような、汚らしさであるとか、おぞましさであるとか、そういった形容詞を擦りつけるのは、ひとえに、人間の「まなこ」である。それも、伝統的な形而上学によって建造されたところの「まなこ」、思想史における本流の「まなこ」であろう。すなわち、それは、不変の調和をその構造における頂点とした秩序のうちにあり、その限りでの理想美的なものを羨望する「まなこ」である。
したがって、それゆえに、ほとんどの人間の「まなこ」からすれば、蛾は「まなこ」をもつに値しない。なぜなら、蛾は、その形態や諸々の習性などにおいて、理想美的なものよりも低次だからである。全知全能と対置されるところの、部分的な無能力。しかしながら、この句は、そのような仕方で不当に毀損された蛾の目、その「まなこ」を見事に甦らせ、そうして、人間的かつ規範的な「まなこ」さえも、その赤光のうちに照らし出し、これを問い直している。
この「蛾のまなこ」という措辞、これは、人間のうちにある、階層的な秩序をこそ告発している。言いかえれば、汚穢、醜さ、夜の最中を飛び回る支離滅裂なその模様を、「低次なもの」として価値づけるような、人間の「まなこ」の告発。「赤光」とは、その告発のための赤色灯である。その生臭い赤色、ともすれば、人間的な「まなこ」の力能を麻痺させてしまうようなその赤色は、読者を挑発し、その知覚を否応なしに変状させるほかない。
さらに、驚嘆すべくは、この「海を恋う」である。もはや、「海を恋う」という動詞の主体が誰であるのか、といったことは、些末な問題である。また、この「海」をなにがしかの比喩として読み、この句を思想詠へと矮小化してしまうこともできようが、止しておこう。再び見出された「蛾のまなこ」とその「赤光」が、「海を恋う」という動詞へと溶け入るときのこの甘美な接地点、ここの情感にこそ、「低次なもの」における恍惚が存している。
傷の秋
朝の秋されにあさりの汁が朱い
おれたちのでつかい声が傷の秋
どつちとも浮気してゐる二つ星
勘繰つたものの稲妻だつたただ
台形と泥とのあひだに秋じめり
側溝が三時となつては天のがは
剝き出しの処暑と処女懐胎悪阻
朝冷に腕と太もも切りつぱなし
略歴
2003年生まれ。
俳誌「円錐」同人、俳誌「楽園」同人。