人類が消えた後の地球
マブソン青眼
もう地球にヒトいない露光る
死んでなお蜂のかがやく目玉
人類が遺した岩にセキレイ
無音より静かな波の湖畔
嫉妬心無く山々の深雪
誰のものでもない景色へ
楠本奇蹄
もう地球にヒトいない露光る
地球の本当の終焉は太陽の膨張が極大となる約76億年後とされているが、それ以前にヒトは(少なくとも現時点の文明を維持した状態で)存続していない、というのがこの連作の設定のようだ。表題もさることながら、一句目で極めて平明にその舞台が示されている。しかし、文字どおりヒトが「いない」のであれば、露光るその様は誰が観察しているのだろう?
死んでなお蜂のかがやく目玉
ヒトもいない。蜂も死んだ。しかしその目玉のかがやきを、誰かが(何かが)認識している。全句をつらぬく、マブソン青眼が見出した五七三の調子は、ぶつ切りのリズムでときに余計な思考を拒む。そこにあるものを、あるがままに。それでいて、目玉の見遣るその先をぼんやりと浮かび上がらせる。
人類が遺した岩にセキレイ
鶺鴒は水の近くに暮らし、ヒトとの縁も深い鳥。「人類が遺した岩」とは、コンクリートの建造物か。国生み神話では二柱の神に交合のやり方を教えたとも伝えられる鶺鴒だが、ヒトの手による構造物との交接は、何も生まなさそうである。巨大な人の遺物も、ただそこにある。ひとときの間、鶺鴒がその羽を休める場所として。
無音より静かな波の湖畔
もはや生の気配すらしない。無音より静か、とは聴覚を超えた把握なのだろうけれど、やはりそれを認識しているのは誰なのか。依然、知覚の主体が謎めいている。
嫉妬心無く山々の深雪
嫉妬心ということばによって、意思を持った存在の想定が立ちあらわれる。「谷神は死せず、是を玄牝と謂う」の一節が浮かぶ。そして深雪の無音。誰も何も語らない世界で、人知を超えた存在がひろびろと横たわっているのを感じる。作中主体としてのヒトが消えた作品に、別の次元の存在が見え隠れしている。もしかしたら、五七三はそうした存在を招来するためのひとつの呪術なのかもしれない。結局我々の見ている景色は借り物で、いずれ誰のものでもない存在になっていくのだ。
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まばら
楠本 奇蹄
父に日記 藤枯れて斑のまばらなる
校庭に澄みゆくタイヤ義士の日の
綿虫や硝子が風を手放せば
感嘆のこゑに冬蝶潰れてゐる
春は来ない谷を撓めて真白な橋
楠本奇蹄5句の鑑賞
マブソン青眼
仲秋のころ現代俳句協会の本部で、お互いの受賞を祝う定例会見の席ではじめて楠本奇蹄氏に会った。物静かで、麗らかな瞳の澄んだ方だと深く感心した覚えがある。その後信州に帰る新幹線の中でもう一度彼の句を読むと、かつての田中裕明を思わせるような繊細な取り合わせのセンスの、豊富な語彙力を駆使しつつ曖昧性を活かして余情を醸し出すという句群に、自己の受賞を恥じる気持ちさえ抱いた。例えば、裕明と同様、奇蹄氏の句は音韻的にも大変美しく、日本語で主流といわれる頭韻・押韻という手法を嗜んでいる。掲出の五句でいえば「藤枯れて斑の」の「ふ」、「硝子が風を手放せば」の「が・か・ぜ・せ」、「谷を撓めて」の「た」など。つまり、時には”ぎりぎりまで余白と距離感を活かす取り合わせ”でも、必然的とも感じられる音韻の奇妙なバランスで纏めているようだ。「父に日記」の後の一字アキ。その空白の切なさ。そしてなぜか疎らな文字のような枯れ藤が…。いや、「のような」ではない。もっと深遠な繋がりである(昔の拙句に「藤波や文学に定説は無し」という理屈っぽい取り合わせはあったが、奇蹄俳句にはとても及ばない)。そして二句目の校庭では、子供が跳び箱代わりに使うタイヤと、忠臣蔵の敵討ちの日との取り合わせがもう少し分かりやすいかもしれないが、その密かなるアイロニーは絶妙なり。三句目と四句目では、人界の「硝子」や「感嘆」という”凜としたもの”が冬の虫と融合したり、せめぎ合ったり、生死を与えたりするのだ。この「アニミズム感覚」の四句目、私ならやはり「五七三」の「感嘆のこゑに冬蝶潰る」と、字足らずの螺旋で切なさをさらに残したいところだが、「蓼食う虫も好き好き」ということで…。とにかく奇蹄氏は今後もきっと、日本の俳壇という「谷を撓める真白な橋」のような存在になるだろう。”べた付け”に囚われる我々の俳句世界に架かる、うらうらとした純白の橋となって。