第49回現代俳句講座  詳報・一問一答
(令和6年10月27日 ゆいの森あらかわ ゆいの森ホール)

現代俳句協会 会長 高野ムツオ
現代俳句協会 副会長 星野高士
司会 現代俳句協会 副会長 筑紫磐井

筑紫:現代俳句協会は4月に体制が変わり、本日は高野ムツオ新会長と、新たに副会長になられた星野高士さんに対談いただこうという企画です。伝統俳句をリードしてこられた星野高士さんが現俳に参加されたことでいろいろな方面で激震が走っておりますが、そういったお話も伺えればと思います。
 まずお二人にいただいたご自身のキャッチコピーと、それぞれの代表三句に触れながら、自己紹介をお願いします。

高野:
★キャッチコピー:「昭和の高度成長期に育った無責任で軟弱な世代の一人。新宿繁華街のションベンくさい暗がりにこそきっと求め続ける詩が堕ちていると信じて疑わない時代錯誤の俳人、高野ムツオ」

  われは粗製濫造世代冬ひばり
  萬の翅見えて来るなり虫の闇
  車にも仰臥という死春の月

 自己紹介ということですが、私は1947年、昭和22年、宮城県栗原市、当時は岩ケ崎町の生まれです。
私の本名は「睦夫」です。子供の頃は「睦まじい夫」なんて書くこの名前が嫌いでしたね。でも昭和22年は戦争で苦しんだ人たちが、ようやく新しい家庭を持ち始めた時代。親は、生まれてくる子供には、睦まじい家庭を作って、平和に暮らすんだよという願いを込めていたんですね。
 父親の影響で俳句を始めて、安直ですがかっこいいので、俳号をカタカナで「ムツオ」にしたわけです。その後20歳過ぎに「海程」に出したら、みんなが「目立っていいよ」っていうので、それにのっかって、今も使っています。
 高度経済成長期に育ったものですから、戦争を経験した世代からすれば、軟弱で、楽天的なんですね。同じような地方から東京に出て来た連中がたくさんいて、団塊世代ならではの大衆の中の一人としての思いがあったので、それを「新宿繁華街」に例えてみました。庶民が固まって生きているなかで生まれるポエジーが大事なんだという気持ちを持ち続けようと、77歳まで下手な俳句を書いています。
 東京から多賀城に戻って、このまま平和に何事もなく生きていくのだろうと心の大きな部分で思っていたら、今から14年前に、東日本大震災が起きた。それまでは自然とは、我々に恵みを与えて、我々に襲い掛かることはないだろうという軽薄な気持ち。ところが自然は人間に対して牙をむいてくると。一番怖かったのは、福島の原発の災害ですね。この世は終わってしまうんじゃないかという気持ちで、ずっとあのニュースを追いかけていました。
 「車にも仰臥という死」、自分ではそんなにいいと思わないけれど、皆さんが褒めてくださるので。これは実景です。震災の3日目に、川の向こう側に住む友人を訪ねました。川の向こう側は津波の被災地でしたので、泥だらけの中を訪ねて行ったそのときに、並木のそばに車が1台ずつひっくり返って、並んでるんですよ。大変なショックで家まで戻ってきて、ふと見ると春の月が昇っていた。「ああなんてきれいな月だろうなあ」と、その時の俳句です。
 この辺から私は、この世の在り方というのが違って見えた。人間いつどこでどんな経験するかわからない、その経験のなかで、自分なりの生をたぐっていかなくてはいけないんだ、そういう気持ちは、今でも忘れないでやっているつもりです。

筑紫:ありがとうございました。「車にも仰臥という死春の月」は、ぜひ今回取り上げていただきたいなと思っていました。高野さんらしい世界の受け取り方が伺えたのではと思います。

星野:
★キャッチコピー:自分を追い込み常に攻めてるポップな俳人 星野高士

  惜春の橋の畔(ほとり)というところ
  頼朝の虚子の鎌倉蝉時雨
  立春の改札口を出れば街

 私は高野さんの5つ年下で、1952年8月生まれです。僕は俳句の家に生まれたんですが、最初は俳句は全然やる気なかったんですよ。大学を中退して、西武系の会社で15年ぐらいサラリーマン生活をやりました。デパートに商品を卸す会社で、徹夜して値札貼りとかしてたんですよ。飛び込み営業もしてました。営業で私、成績トップだった、この調子でしゃべってますから。
 立子の部屋には、毎日全国から大量の投句がくる。それを整理するのを僕が毎月手伝ってました。封筒から出したのを並べて、立子に出す。成瀬正俊、京極高光、高田風人子、深見けん二、今井千鶴子、中村汀女、今考えるとすごい人たちが投句してる。そのうちに俳句に興味を持ちました。でも僕は誰にも俳句勧められてないんですよ。立子も勧めないし、おふくろの椿も勧めない。それでも立子の句、「行人にかかわり薄き野菊かな」を読んで、なにか胸を打たれて。それで僕は俳句やろうと思いました。
 俳句で飯を食うのは無理ですから、サラリーマンをやりながら、立子のもとで俳句をやりました。あの頃僕は20代。嶋田摩耶子、成瀬正俊、高田風人子、今井千鶴子、ああいう人たちと句会をやって、今こういう席にいるんです。

筑紫:星野高士のサラリーマン生活、初めて聞いた人が多いだろうと思います。キャッチコピー、「自分を追い込み常に攻めてるポップな俳人」はどうですか?

星野:自分を攻めてないと、俳句というのはね、ちょっと気持ちが緩くなると、俳句は作れるけど、響きが遠いのね。相手を攻めこんじゃだめです。自分を攻めなきゃいけません。ポップっていうのはね、気楽というか、弾けてる。自分でいうのもおかしいんですけど。ちょっと気晴らしで書いたと、ご理解いただければと。
 雑誌「ホトトギス」が今でも続いてますが、昨日も年尾忌で。どういうわけだか前の主宰、稲畑汀子に高野さんと筑紫磐井さんは可愛がられたね。

高野:そうでした。私は稲畑汀子先生に、「伝統俳句協会に入ってね」って誘われました。「入ろうかな」って一瞬思いましたよ。(笑)
 私は高校生の時に、「駒草」で阿部みどり女から、写生の句の根本を直接習いました。「黙って何も考えないで、心を白紙にして見なさい。そうすると心が語りかけてくる、そういう時に心に浮かんだものを俳句にしなさい」って。自分の感じたことを大事にしなさいと教わりました。

星野:阿部みどり女は女流、台所俳句の先駆者ですよ。
 「ホトトギス」の話に戻ると、私は身内ということもあって、非常に厳しい立場もある。「ホトトギスの百人」っていう雑誌が出たので楽しみにして見たら、何枚めくっても私の名前がない。これ誤植じゃないかなって。高野さんになぐさめられて。

高野:ありましたねえ。私もそれ聞いてショックでしたね。それで誘ったわけでもないんだけど、阿部みどり女が現代俳句協会にいたように、伝統系の俳人も現代俳句協会にいたんだよ、それがいつの間にか分かれてしまったんだよ。だから高士さん入ったらって言ったら、「いつでも入るよ」って。でも案の定、1週間か10日ぐらいしたら、「高野さん、この前の話あれなしにしてよ」って。周りの真面目なお弟子さんが、「私たちどうしたらいいんですか」って、みんな心配するんだと。それが十数年前の話です。今回私が会長に推薦されて、もう一回誘った。でもここが高士さんの偉いところで、普通の一般会員で入ったんです。ここだけは誤解しないでほしい。たまたま組織替えがあって、いい機会だから高士さんを副会長にと、前の会長や皆の賛同を得てから高士さんに話したら、「え、いきなり副会長でいいんですか」って。そのことがいろいろ誤解を生んで、皆さんに賑やかな話題を提供しました。
 すごいタイミングで、筑紫磐井が、「三協会統合論」なんていうのを書いたものだから、それでいろいろ誤解して憤慨している人がいるらしいけど。

星野:波紋を呼んじゃった。今年一番のトピックスで、いいんじゃないですかね。

筑紫:ここで、それぞれが影響を受けた句のご紹介と感想を伺いたいと思います。まず高野さんから金子兜太の句についてお願いします。

高野:多様多種な魅力のある兜太の俳句を三句とは拷問のようなものですが、そのなかでもやはりすごいインパクトのあった三句を挙げてみました。

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン

 あの頃兜太は「俳句前衛」の名のもとに、俳句のもっとも新しい部分をやっていく、それが自分の使命だと宣言していました。虚子も、碧梧桐が季題廃止と書いたのに対して言っている。「私等は甘んじて「自然を透しての自分」「自分を透しての自然」を「如何に表現」するかという事に苦心を続けてゆくであろう。深く高くいうことは申すまでもない事である。また最も新を欲している」。この精神は金子兜太の精神と一緒ですね。俳句はもっとも新しくなくてはいけない。そのもっとも新しいものの一つとして、時代を表現する、ここが虚子と兜太の分かれ道であったと思うんです。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 兜太はトラック島で、戦争で亡くなった人の死体に集まる青鮫を見ている。でもその青鮫を兜太は大好きだというんです。怖いけど好きだ。矛盾した思想というのは大事なんです。憎しみと愛するということは二律背反している。その青鮫が自分の庭に来る。よっぽど度胸がないと作れませんよね。わかってもらえなくてもいい。それぐらいの開き直りは俳句には大事です。

  冬眠の蝮のほかは寝息なし

 私には、冬眠している蝮以外のすべての生き物の寝息がだんだん聞こえてくるんですよ。そのうちに土そのものが寝息をたてているかもしれない。こんな俳句作りたいなあと思いながらとても作れないので、悔しいという思いで、愛している句です。

筑紫:高野さんは、第一句集も兜太の序文をいただいて、兜太との関係は初期は濃密だったわけですよね。

高野:いつも叱られてましたけどね。もっと自由に俳句作れって。どうしても小ぢんまりしちゃうんですよ、五七五の枠にはめようとか。みんなにわかってもらおうと思うから。東京から多賀城に帰ってからも、何回か手紙で俳句を添削してもらったことがある。
 句集出すときも「序文は俺が書くからな」って向こうが言ってきたのでしめたと思って。他の「海程」の人たちに叱られるかもしれないけど、私自身は、兜太が書いた序文のなかで一番いいと思ってます。

筑紫:次に星野さんの、虚子の句です。

星野:虚子の句というのは果てしないので、日替わり定食みたいなんですよ。向こうの作品は変わってないんだけど、こっちの心持ちでしょう。大衆食堂も高級食堂もある、虚子自身がいろいろな場面に遭遇して、その時の彼の精神状態、いろいろなものの感じ方だと解釈してもらえればいいのではないかと。

  石ころも露けきものの一つかな

 これは虚子の十句には必ず入れている、不動の句だと思います。虚子は石ころとか、帚木、なんでもないもの、生死感のないものを捉えてる。僕はこれが虚子の題詠だと思ってるんです。まだまだそれを追いかけたい、もっともっと奥深い世界があるんじゃないかと思う。虚子は子規、碧梧桐との間で自分というものをどう表現するか戦ってきた。自分のこと言ってるんじゃないですか。「石ころ」って。私はそう解釈もできると思います。

  帚木に影といふものありにけり

 これは必殺技ですね。「ありにけり」ほど難しいものないんですから。僕なんか怖くて使えない。虚子はちゃんとわかってるんですよ。阿部完市さんが、「月曜会」で僕に会うたびに虚子の句でこれが一番好きだと言ってました。

高野:阿部完市さん、リズムの立ち姿が「帚木」という言葉を使い果てている、奥の背景にある世界がとてもいいって言ってました。阿部完市という人は言葉一つ一つの意味をすごく大事にする人で、なおかつ、一切の夾雑さを省いて、一つのものだけで立っている姿を貴んでいましたので。私はこの句難しくてわからないんですけど、兜太は「今日の俳句」で「わからないものがいい」って言っています。わかりそうでわからない謎があって、その謎をたどっていくと様々な世界が広がる。普通は「あり」なんです。それを図々しく「ありにけり」、虚子の魂の図太さですな。

星野:「帚木に露のある間のなかりけり」という句が、対句なの。あっちは「なかりけり」、こっちが「ありにけり」。だからますますわかんない。虚子の「咲き満ちてこぼるる花もなかりけり」、あれも「咲き満ちてこぼるる花もありにけり」で通じちゃう。だけど虚子は全部逆やってる。これちょっとヒントだなと。

高野:難しくいうと、存在するというのは何かということを言っているんだよね。森羅万象が「ある」ということはどういうことなのか。「ある」ということは消えてなくなるということを前提としていうわけですから。

  去年今年貫く棒の如きもの

星野:虚子80歳ぐらいの句です。これ、見えるものなにもないんですよ。虚子が本当は小説家になりたかった。いろんな思いがあって、やむを得ず「ホトトギス」の跡を継いでいろいろな門弟ができた。蛇笏、草田男、秋櫻子、四T、それは棒のごとくだと。これは僕の解釈ですよ。そんなことないよって言うかもしれないけど。

高野:これぐらい虚子自身が言っていることと相反している俳句ないですよ。これ主観そのものですよね。「去年今年」だってそう。季節感を大事にしなさいって言いながら、真逆のことを言ってる。このぐらいたくましくないといい俳句は作れないんですよ。

***

筑紫:それでは後半に入ります。師系として一番影響を受けた、高野さんであれば佐藤鬼房、星野さんであれば星野立子に関してお話しいただきたいと思います。

高野:鬼房と初めてあったのは20代、私の故郷で俳句大会があって、選者として呼ばれた鬼房と会いました。その後、私が鬼房の句集『地楡』の書評を「海程」に書いたのをきっかけに、鬼房が「遊びに来い」と。鬼房の住む塩釜と多賀城はわりと近かったんですが、その時は行きませんでした。当時宮城では、「佐藤鬼房は怖い男で、知らない人には会わない」という噂が広がっていまして。すると今度は年賀状で「待っていたけど来なかった」って言うんです。これはと思って遊びに行きました。仕事帰りに夜の8時頃行って、帰ってきたのは夜中の3時過ぎ。話に聞いていた鬼房とは全然違って、いろんな話をしてくれる、優しい人で、そこから鬼房との交流が始まりました。
 鬼房の俳句の典型であり原型であり、愛唱句といっていいのがこちらの句です。

  縄とびの寒暮傷みし馬車通る

 戦中戦後の貧しい、どこにでもありそうな、でも誰もこんな風に描いたことがないという光景を、一枚の絵画に収めたような句ですよね。寂しくて悲しいんだけど、どこか未来を感じさせる。こういう俳句は大好きですね。生活の裏付けがあって生まれた、みすぼらしいけれど純粋な詩の心が通じる。私の心の支えになるような俳句です。

  陰に生る麦尊けれ青山河

 問題は陰(ほと)ですよね。青山河を若い女性と考えると、麦は若い女性の肉体から生まれくる新しい命だと気づく。自然の在り方と、新しい生命を俳句にしています。いろいろな人の鑑賞を手だてにすると、「古事記」という日本創成期の神話や歴史を描いた世界に、大宜都比売(オオゲツヒメ)という食べ物の女神の話があります。自分の体のあちこちから食べ物を出して須佐之男命を救ったのに、それを知った須佐之男命はオオゲツヒメを殺してしまう。殺された女神の体はそのまま大地になって、体のあちこちから五穀が生じたという説話です。「麦」はもっとも原初的な食べ物で、古代と現代が一瞬にして結びついている。一瞬で時間が結びつくというのは俳句の力。とてもスケールの大きい俳句だと思いました。

  観念の死を見届けよ青氷湖

 これも難しい俳句です。生きている人間が経験できるのは、すべて観念のなかの「死」です。言葉を突き詰め、想像力を駆使し、自分なりに観念の死を追及する、自分はそれを俳句でやり抜こうという決意表明のような句ですね。抽象的なテーマを一句にしている「青氷湖」は、いつまでも凍らない湖だそうです。観念そのものを俳句にしていますから、俳句のセオリーから外れているんですが、こういう俳句を一句でも作れたらと思うけれど、なかなか作れません。

筑紫:戦後俳句でいうと社会性俳句、前衛俳句と移ってきて、兜太、鬼房、それから六林男、こういう人たちがいます。わりと一括りで言われやすいけれど、兜太と鬼房はだいぶ違うとか、この三人は高野さんからどうご覧になれますか。

高野:鈴木六林男という人は、戦争体験から見た人間というものを一生追い続けた人です。あの人の俳句は徹底しています。佐藤鬼房は、戦争体験とか社会性を潜り抜けながら、普遍的な世界、風土性を追い求めた。特に鬼房は、みちのくという土地を拠点とした、辺境意識をすごく大事にした。そこが鈴木六林男との違いですね。金子兜太は「定住漂白」という言葉を見つけて、放哉や山頭火のさすらい精神と、自分が住んでいる風土とを融合させようという世界観を持ってきた。兜太は社会活動としても反戦活動をしましたよね。ああいうアクティブな活動は、鬼房との大きな違いであろうと思います。一番違うかなと思うのは、鬼房は季語の伝統的な感じを大事にしてきました。兜太は季語そのものも一般の言葉と同じ地平に置いて、そこから新しい季節感とか風土観を出そうとしました。そういう意味では、兜太の方がチャレンジ精神があったのかもしれません。

筑紫:現代俳句協会の原型を思い浮かべるときに、兜太、鬼房、六林男、案外その人たちをうまく説明できる論は今までなかったような気がします。各個人を研究した論はあるんですが、協会として三人の違いというのは掘り下げるのはいかがですか。

高野:これはいい提言をしてくださいました。どこまで誰を取り上げるか、難しいことではありますが考えていきたいと思います。

筑紫:では次に星野さん、星野立子の俳句をよろしくお願いいたします。

星野:テーマが「影響を受けた俳人」ということですが、実は私が影響を受けてるかどうかは、わからないんです。たぶん影響受けてるんだけど、エッセンスです。どうやって詠うんだろう。どこで出て来たんだろうということが影響になっているのではないかと思っています。星野立子の俳句というのは、孤立してるんですね。付いていこうと思っても、なかなか追いつけない。立子は日本で初めての女流の主宰者です。昭和5年2月に椿が生まれたその6月に「玉藻」ができます。虚子は立子の俳句の才能が惜しくて、虚子が推して「玉藻」が出るんです。その頃女流の俳句雑誌というのは極めて稀でした。一緒にいたのが中村汀女です。四Tのなかで汀女は立子にとって本当にいい仲間で、ライバルで、信頼できる人でした。

  口ごたへすまじと思ふ木瓜の花

 写生の奥にある自分の心の投影、これが立子なんですね。この句の寸前にもう一句作ってるんです。丸ビルに「ホトトギス」発行所があって、よく虚子と行ってた。「近づけば大きな木瓜の花となる」、これが日比谷公園の入り口なんです。それから少し時間がたってこの句。その時の心の流れを素直に詠った。立子の句ってこういう句が多い。前衛っぽいんじゃないかという気がしてます。こういうの作りたいなと思いますけどね。

高野:前衛というか、難しい句ですよね。もともと写生のもとは取り合わせですよね。子規が、「写生」は物と物の取り合わせといって、それを徹底したのが「客観写生」。さらにそれを近代的にやったのが山口誓子の「構成」で、「構成」からもっと積極的にデフォルメしたのが金子兜太の「造型」。藤田湘子が「二物衝撃」、みんな同じなんです。

  下萌えぬ人間それに従ひぬ

星野:「人」ではなく「人間」という言葉。非常に強い思いがあると思います。立子は、父虚子の教えに従ってたけど、それにしちゃあ「人間」とか言葉の表現が大胆。立子に訊いたことあるんですよ、「なんでこんなの作れるの」って。そしたら「自分の思ったこと素直に詠うのよ」って。それでまた困っちゃった。だって自分の思ったこと素直に作ったってつまんないもんね。虚子が立子のソーダ水の句とか読んで、びっくりしたって言われてます。立子は、虚子の教えを守りながら自分の世界を持ってた人だと思います。

高野:素直に虚子のいうことをきいて、娘としてさりげなく作った俳句に「人間」という言葉を持ってこれるところが、おそろしいですよ。「下萌え」というほんの小さな春先の出来事に、宇宙が従ってると読める。「人間」の言葉の効果がすごい。宇宙とか世界では言い過ぎなんですよ。

  大仏の冬日は山に移りけり

星野:これは鎌倉の大仏に句碑になってます。鎌倉でのある月の句会の最高点句だったそうです。「大仏」の冬日が山に移っていくのが寂しい、その自分の気持ちは言わずに「移りけり」でとどめた。この句に面白いエピソードがあります。その句会で一緒にいた人が、私の祖父、吉人。この句を立子が作ったのを見て、その場で俳句やめたそうです。晩年語ってましたよ。「これ以上女房と一緒に俳句やるのいやだ」って、やめちゃった。

高野:立子も星野さんも、自然体に日常のそのまま取り出してきながら、しかしどこにもない俳句を作り上げる。そんなことができるのは、血筋だけじゃなくて、キャッチコピーにあるように、自分を追い込んでるからだと思います。でもそういう姿は全然見せないで、さりげなく、しかし深いものを作れる。普通なら「大仏の冬日が山に入りにけり」なんです。ところが「移りけり」と、時間を描いた。おそらく詩的想像力で世界を掴み取るからできるんです。想像力を支えているのは、その人の考え方とか、もっと突き詰めると生き方、思考している方向性、それらが無意識のなかに溶け込んでき出てきたときに、こういう俳句になる。虚子の言い方をすると、客観写生というのは、絶対主観がびっしり中に込められていたからこその客観写生であって、そういう心のたぎりがない客観写生は客観写生じゃないと。

星野:星野立子というのは、裕福に育って、お嬢様だと思ってるけど、全然違うんですよ。立子の育ったのは、虚子も飯がそんなに食えない頃です。そこから戦ってやっとそこで生きてるわけ。だから立子の俳句というのは、人間に訴える抒情性がある。写生句だなんて生易しいものじゃないんです。虚子もそうだけどね。私なんか立子の真似をすることはできません。精神をどこでもらえるか。立子の俳句は、まだまだ考えていかないといけないと思っています。

高野:なるほど、星野立子の俳句の見方の大きなヒントをいただきましたね。

筑紫:今までは立子が虚子の手のひらの中にいると思われてたけど、実は全然別なんじゃないかと。ある所から、虚子が見えてないものが見えたのが立子だったんじゃないか。金子兜太と並べるとよくわかるんですが、兜太はなにかギラギラを詩にしようとしている。虚子は兜太ほどギラギラしてないけれど、帚木にとか、去年今年とか、やっぱり詩に近いものを狙って、正直「あざとい」ですよね。でも立子は、ポエジーにはしないぞと思うと、逆にポエジーになっちゃった。ギラギラしてない、完全に死に絶えたところから、案外ポエジーというのは生まれてくることもあるんだなあと。

星野:それは磐井さん新しい論ですね。

高野:俳句と詩は違う、という考え方がありますが、虚子は「客観写生」の中で、「詩、ポエジーは志なり」と書いてます。心の感動なくして何の詩ぞやと。虚子にとって俳句=詩なんです。

***

筑紫:最後に、これから現代俳句協会がどういう方向を目指すかのヒント、お考えをお聞かせいただけないでしょうか。

高野:私は金子兜太はじめ、宇多喜代子さん、様々な俳人が私のことを育ててくれたと思っています。この精神、新しい人を育てる、俳句を後世に伝えることは、自分のやるべきことだと思っています。俳句は自分自身の投影でもある世界ですよね。こういう魅力的な世界を、若い人たちに伝えたいというのが、私が会長を受けた理由です。
これは俳人協会だとか、「玉藻」の出身であるとか、関係ないと思うんです。繰り返して言いますが、自分の感覚、感じたことは、思い切って大事にして表現する。そのために艱難辛苦を堪えながら推敲して、その痛みを楽しむという、マゾヒスティックな楽しみも俳句の楽しみなんです。いい俳句に恵まれるということは、俳句から自分の姿を教わるんです。たった十七文字の、この力を大事にしたいし、それをぜひ若い人たちに伝えていきたいと思っております。

星野:私は伝説の「月曜会」、毎月第3月曜に、銀座の鈴木真砂女の「卯波」での句会に長年参加してきました。藤田湘子、三橋敏夫、阿部完市、後藤綾子、それから「春燈」の鈴木榮子、黒田杏子、若手は中原道夫、小澤實と私。賄いのカレーライス食ったりしながら、そういう交流がありました。私も自分の俳句はこれでいいのかな、これからどうなるんだろうって、いつも、今も壁にぶち当たっています。私は非常に人に恵まれて、いろいろな人たちとすごくフラットに話ができる。そういう意味でいろんな俳句を知ってます。こういう時間を、楽しめるかどうかなんだよね。私は現俳の会員でスタートしようという気持ちでしたから。「副」が付くだけでちょっと気楽なんですよ。責任感がだいぶ違う。
 私は「玉藻」、「鎌倉虚子記念館」では社長として経営もやらなきゃいけない。現代俳句協会の副会長、伝統俳句協会の常務理事、いろんなことに携わってる。その中で一番忘れてはならないのは作家精神です。雑事といってはあれだけど、携わらなければいけないこともあるでしょう。それをやりながら自分の俳句の生きざまをどう見せるか。評価は自分でできないじゃないですか。私も副会長として携わりながら、自分の作家精神を大事にしていきたい。
 磐井さんの三協会統一論も、三協会がひとつになれば、会費一つで払えばいいんだから。賞だって一緒にやればいいじゃない。みんな幸せになる。一つの協会であれば、いろんな情報も全部入るでしょう。今後5年、10年たってどうなるか、これを私は危惧しています。高齢になっていい俳句できるのが文学ですよ。明日の自分はどんな俳句ができるか。皆さんと進んでいきたいと思います。