桜雨、そして日本海軍
― 海外と日本の連作俳句 (後編) ―

木村聡雄

 海外俳句の連作についての前編(2024年10月号)では、アメリカの農場からの作品を取り上げた。後編では、同じくこの夏に発表された連作を引用してみよう。
 毎年春には、海外からの多くの観光客が日本の桜を一目見ようと訪日してくれると話題になる。こうした桜人気で、海の向こうにも花見の名所がいくつかあって、現地の人々が楽しんでいるニュースも流れてくる。たとえばアメリカで花見発祥の地といえば、わが国の英語の教科書で扱われることもあるように、ワシントンD.C.のポトマック川周辺だろう。20世紀初め、アメリカからの要望を受けて東京市の尾崎幸雄市長が2000本の桜がワシントンD.C.に贈ったのがはじまりであった。以下の連作のタイトルに出てくる「植えた人」については、アメリカの「国立公園サイト」(National Park Service)に詳しい解説がある。明治期に来日して桜に魅せられた米女性が帰国して各方面に働きかけたそうである。サイトによれば、ワシントンD.C.のほかにも、ニューヨークの「ブルックリン植物園」にはアメリカ初の日本式庭園が20世紀初めに造られ、今では毎年「花見」が催されているという。ソメイヨシノのほか、特に八重桜がゴージャスでアメリカ人好みのようである。

 全八句からなる今回の連作は、アメリカに桜を植えた人のおかげで、この俳人も桜の美しさにさまざまな思いが浮かんでは消える、というものである。

「大昔にこれを植えた人へ “To the One Who Planted It Long Ago
桜雨」 Cherry blossom Rain”   ミシェル・テニソン Michelle Tennison
Modern Haiku (55.2 Summer 2024)

 この題には「桜雨」と言う季語が用いられている。日本の連作などでもしばしば使われる技法であるが、二行書きの連作八句すべてにおいて二行目にこの季語を詠み込まれ、統一感が強められている。

なおも母を求めて still wanting my mother
桜雨 cherry blossom rain

 桜をアメリカに植える運動をした「人」、すなわち上述の米女性はまさに桜の「母」と呼べるだろう。そして作者自身の拠り所であった母親へと思いは繋がって行く。

私たちが選ばないもの choices we never make
桜雨 cherry blossom rain

私が知り得ないあらゆるものへ to everything I’ll never know
桜雨 cherry blossom rain

 われわれは日々、選択をしながら生きている。たった今、あるいはあのとき、「選ばな」かった道を進んでいたら、今の自分とは違う自分がいるのだろうか。それは、より幸せな自分なのだろうか、われわれは決して「知り得ない」ことである。こうした問いを発することは現在の自分の在りようを問うことである。幸せの絶頂にある人はこんな質問をする暇もなく今このときを謳歌していることだろう。実際、本論後半で述べる高柳重信もかつて私に「幸福ではないから俳句を書くのだ」と語ってくれたことが思い出される。
 この桜雨連作は現代詩の影響下に書かれているものの、読者に日本の情景を示しつつ、そこにそれぞれの心の思いを重ね合わせることができるよう詠まれているのである。

 日本の連作については、前編では「ミヤコホテル」(日野草城)を引用した。わが国の連作俳句については、読者もそれぞれに心に浮かぶものがあるだろう。筆者の場合は、俳句の連作と言えばこれとすでに決まっている。『日本海軍』(高柳重信、1979年、立風書房)である。日本海軍の艦艇の名称は、古い国名、山や川からの名からつけられている。この書物の黒の帯の背表紙に、「イメージ多重をめざした現代の歌枕」と書かれている通り、この句集は一句に艦艇の名を詠み込んで、それらの地名にまつわるイメージを幾重にも重ね合わせたまさに歌枕と言うべき連作なのである。当時、学生だった私は、本屋でこの一冊が目に飛び込んでくるや、すぐに買って帰ったのであった。一巻全体としての連作の重みは、半世紀過ぎようとしている今日、さらに増しつつあると感じられる。

見たな
見たなの
磐手の鬼を
見にゆかむ 高柳重信『日本海軍』

 この巡洋艦の名は「磐手」(岩手)山から取られているだろう。岩手には恐ろしい鬼を岩に閉じ込めたという三ツ石伝説ほか数多くの鬼伝説が伝わり、地名にも「鬼死骸」というあまりに恐ろしげなものさえ残っている。私が子ども時代にみた怖い夢といえば、鬼が「見たな~」と叫びながら追いかけてくるというものであった。思えばそれは、怖いもの見たさの好奇心の裏返しなのだろう。さて、この句で鬼を「見に」行った人はその後どうなったのか。鬼に食われて、今度は岩手山の山奥で人を食らうものと化したか、あるいは鬼となっても戻って来て素知らぬふりで里にもぐり込んでいるのか。
 ところで、同連作で句集に未収録のものは、後に「日本海軍・補遺」として『俳句研究』(1982・83)、『俳句評論』(1982)に発表されている。次の引用句のように、「補遺」はどれもしりとり句で、洗練された言葉遊びも本編とはやや異なる趣を醸し出している。(私を含め、当時の革新俳句系の若手はこうした影響のもと、少なからずしりとり句を試みたのであった。)

長月
去来忌
狐・猫又・狸
霧 高柳重信『日本海軍 補遺』

 駆逐艦は月の名や気象現象、植物などから名称が取られた。「長月」は九月、そこから九月の去来忌が導き出される。向井去来は芭蕉の高弟のひとりで、温厚篤実であったと言われるが、その去来をしのぶべく現れたのは、なんと「狐・猫又・狸」という人を化かす三匹衆である。その化かし合戦に関しては、万一、誠実だった去来の霊を迷わせることがあり得るとすれば、私個人としては、その長いキャリア(?)から「猫又」に違いない思われるが、その結末は「霧」の中。化かされたのはこちらの方であった。
 『日本海軍』とは、これらの作品の秀逸性だけではないだろう。その現代における意義は、あの戦禍の記憶を優れた連作として刻み、同じ間違いを起こすことのないよう、読み継がれて行くところにあるのだろう。

[Cherry Blossom Rain and Japanese Navy
— Sequential Haiku from Abroad and Japan (II) Toshio Kimura]