ふるさと巡り 隠岐の島(1)
遠流の島「隠岐」について

月森遊子

 隠岐は島前(海士町、西ノ島町、知夫村)と、島後(隠岐の島町)に分かれ、それぞれに歴史と文化がある。始めは島前から。
 隠岐の島と言えば、古来より遠流の島とのイメージが強い。時は承久の乱、公家を中心とした伝統的な公家政権と、武士階級の利害を中心とした武家政権との対立で、承久2年討幕の兵を挙げた後鳥羽上皇の公家政権は、北条義時の武家政権に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐に配流された。
 その海路の途中、海が荒れ﨑港(海士町)に上陸された上皇は、「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」と詠まれ、三穂神社で急遽一夜を過ごされて、「命あればかやが軒端の月もみつ知れぬは人の行末の空」と詠まれている。
 後鳥羽上皇が、60歳の生涯を閉じられてから93年後の元弘2年、上皇のご意志であった討幕の企てが、北条高時に察知され、配流されてこられたのが、後醍醐天皇である。
 後鳥羽上皇隠岐御遷幸の旅に詠まれた歌の中から。
「墨染の袖になさけをかけよかし涙ばかりはすてもこそしれ」都への名残りを惜しんで。
「天が下おほふ袖だになきものをしばしはゆるせ浜松のかげ」(境港市の皇の松)の歌碑。
「知るらめや憂き目をみをの浦千鳥泣くなしぼる袖のけしきを」風待ち港(松江市美保関町)の仏国寺に残る3首。
「みをの浦を月とともにや出でぬらんおきのとやまにふけるかりがね」
「たらちめの消えやらで待つ露の身を風より先にいかで訪はまし」

文武両道の後鳥羽上皇
 後鳥羽上皇は、多方面に才能を発揮されている。先づ刀剣に興味があり、刀剣好きが高じて御番鍛冶制度を設け、日本各地の刀工を集め刀剣を製作させ、急速に技術が進歩したという。次は和歌人としての才能である。後鳥羽上皇は和歌集を作ることに力を入れ、当時有名な歌人達に命じて、「新古今和歌集」を作らせた。又、鎌倉時代の指折歌人としても、上皇は有名である。小倉百人一首に選ばれた上皇の歌、
「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」

後醍醐天皇
 文保2年に即位された後醍醐天皇は、天皇親政を理想にかかげ、鎌倉幕府の打倒をひそかに目指したが、正中元年六波羅探題に察知された。天皇は幕府に釈明し処罰をまぬがれた。
 しかし天皇は討幕をあきらめず、再び討幕計画を進めた。元弘元年側近が計画を密告し、攻めてくる六波羅探題軍を、女装して御所を脱出し難を免れたが、その後挙兵して幕府に捕らえられ、元弘2年隠岐へ流された。
 後醍醐天皇は隠岐のどこに配されたか、二説あり。
①  島後の国分寺説
イ. 出雲の鰐淵寺の頼源という僧の記録には隠岐に渡り国分寺で、天皇から綸旨を賜ったとある。
ロ. 室町時代の歴書「増鏡」の一節に、国分寺を御所にしたとの記述による。
ハ. 室町時代の軍記物「太平記」に、「府の島(国府)にいらしたところに、黒木御所をつくって「皇居」としたと書いてある。当時の国府は道後にあった。
② 島前の黒木御所説
イ. 「太平記」出てきた「府の島」とは別府の島のことで「黒木」とは地名である。
ロ. 江戸時代に書かれた「隠州視聴合記」に、「黒木」に御所があったと書かれている。
ハ. 島前には天皇が隠岐を脱出する時の、伝説が多く残っている。

後醍醐天皇の隠岐脱出
 天皇はひそかに隠岐から脱出する計画を立てていて、隠岐に渡って1年も経たない中に実現された。
 元弘3年3月、鎌倉の執権北条高時のもとへ、隠岐からの早馬で後醍醐天皇の脱出が伝えられた。隠岐から伯耆の国へ無事脱出出来たのは、伯耆の武士名和長年の協力があったからである。
 以後足利氏、楠木氏、新田氏等の新興武士と共に、鎌倉幕府を倒して政治を朝廷に取りもどし、建武の新政を行なわれた。
 後に足利尊氏の反抗にあい、天皇は吉野(奈良)へ逃れ、時代は南北朝時代となった。

歴史的物件ほか
  海士町
 隠岐神社=後鳥羽上皇崩御700年に建てられ、祭神は後鳥羽天皇。
 行在所跡=後鳥羽上皇が、御所として19年間過ごされた源福寺の跡地。
 後鳥羽院資料館=後鳥羽上皇に関する資料や、隠岐神社に奉納された刀剣など、宝物が展示されている。
 後鳥羽上皇御火葬塚=後鳥羽上皇が崩御された後に、火葬された址。
 村上家資料館=後鳥羽上皇に仕えた旧家と言われ、昔の島の様子についての資料を展示。
  西ノ島町
 黒木御所址=後醍醐天皇が脱出されるまでの1年余り、過ごされた行在所と伝えられている。
 碧風館=後醍醐天皇にまつわる資料館。
  その他
 八雲広場=小泉八雲とせつ夫人の像がある。
 西ノ島ふるさと館=隠岐ユネスコ世界ジオパークに関するパネル展示、西ノ島町の歴史文化や同町出身の山本幡男の資料展示。
  知夫町
 天佐志比古命神社=千年以上の歴史があり重要文化財の「芝居小屋」と、「後醍醐天皇お腰掛の石」もある。
 文覚上人の墓=平安末期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠で武士。誤って「袈裟御前」を殺して出家。源頼朝の挙兵に助勢、源頼朝没後対馬に流罪、その後西ノ島で修業し没後知夫村の友人が墓を建てた。

文芸部門
 海士町では後鳥羽院顕彰事業詩歌大会が企画され今年で第25回目を数える。事務局では「うたとともにある島」をテーマにかかげ、①うたを詠むことで、隠岐の大切な風景や伝統文化を残していくこと、②町民の日常生活の中にうたがあることで、生活をより良くすることにつなげることを目指している。
 第25回「隠岐後鳥羽院大賞」の作品を列記する。

俳句部門
石寒太特選
 春闇の楸邨の息院の息
             神奈川県  前島 康樹

稲畑廣太郎準特選
 みな集ふ島の教会畳替
             静岡県   及川 光代
  (註)特選句は二重投稿が判明し削除
宇多喜代子特選
 隠岐島島それぞれに雲の峰
             滋賀県   赤木 章嗣
小澤 實特選
 秋の虹御火葬塚に札なせば
             東京都   川又 憲次郎
 短歌部門
三枝昴之特選
ぜんまいが切れたみたいに子が眠り夜泣きのへやの孤島解かれる
             茨城県   坂上 くも
安田純生特選
 行きたいと言っていたのに島めぐりツアーに母は眠ってばかり
             山口県   石井久美子

隠岐を訪れた加藤楸邨
 昭和16年3月末、後鳥羽院配流の地、隠岐島(海士町)へ渡った楸邨について、石寒太氏は、「馬酔木」での万葉調抒情句が、人間探求の「寒雷」調の都塵の句に変貌をとげたと語っている。
 楸邨の句「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」について、隠岐神社(海士町)の杉浦安磨宮司より、句碑建立を乞われたが、楸邨は有名な句碑ぎらい。その楸邨を10回も訪ね口説いて、隠岐神社に句碑を建立させたのが金子兜太だと語る石寒太氏。
 句碑が完成したのが、平成2年。楸邨は85歳で車椅子生活だったので、除幕式は金子兜太と石寒太が出席したとも語る。

楸邨の句の抽出10句
さえざえと雪後の天の怒涛かな
耕牛やどこかかならず日本海
隠岐の院春寒くここに果てましき
牡丹の芽炎となりし怒涛かな
春愁やくらりと海月くつがえる
春寒く海女にもの問ふ渚かな
赭き崖の滴るごとし春没日
春さむき顔も巌のひとつかな
あるときは陽炎となり田を打ちぬ
笹鳴や遠島御百首の詠まれし世

以上