撮影:山田憲行
「わたしの1句」鑑賞 筑紫磐井
小林貴子に常々畏敬の念を持っている。それは極めてハードなコアを持っているからだ。
松本サリン忌ざりがにの忌なりけり 貴子
「岳」の作家は自然詠が多い。貴子もそうだが、時折このような社会的な俳句を詠む。それも魂にまで突き刺さるような句だ。すでに記憶で風化しているが、オウムサリン事件の発端は松本市におけるサリン噴霧事件だ(貴子の地元)。そしてこのとき7人が死亡している。しかし殺人実施の直前に予備的噴霧で魚やザリガニが死んでいたことが報告されている。これを詠んでいるのだが、人の死に比較してはるかに軽い(と思われる)ザリガニの死を悼んでいる。それは諧謔とかアイロニーではなく、驕り昂った人間の視点からの俳句に鉄槌を下しているからだろう。人もザリガニも被害者である点にちがいはない。
こんな貴子の句と比較すると、掲出句はアニメ調の甘さがあるように思われてもしょうがないであろう。しかし「サリン忌」のような句ばかりを期待されても作者はつらい。むしろ「サリン忌」の句に働いている非情な視点が、アニメに向けても発揮されていることに感心したい。
相手は恋人だろうが、「焦点が君に合ふまで」とは相手は恋人であろうが、この直前までは恋人の姿は見えていなかったはずだ。漠然とした視界の中で、ふいに恋人が現れて来る。「せつな」はせつないという意味であろうが、この現象が瞬間的に起こった(刹那)ことも語感では感じさせる。「合ふまで」とあるから、合ったとたんに感情はせつないから歓喜に変わるのであろうか。しかしそれまでの「せつな」な感情の方が日本の恋歌の伝統には叶っている。不逢恋、偲ぶ恋、別る恋が和歌の代表的な題であるし、戦後の歌謡曲の大半は失恋の歌だ。日本人にとっての琴線は失恋にあるから、歓喜の恋の句ではいけない。敢えて合った喜びを切り離したところがこの句のミソだと思う。もちろん「焦点が合ふまで」の句は類例がないと作者が思っていることも間違いない。