赤尾兜子『歳華集』を読む
川森基次
赤尾兜子という俳人は一個の<不安>である。作品を読めばその向こうに<不安の像>を紡ぎ出す発話者が浮かび上がる。「・・二物衝撃法を多用し、イメージと暗喩を駆使して、都市社会に生きる者の傷つきやすい内面意識や危機感などを表出したのが赤尾兜子。」(川名大『昭和俳句史』)
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢 (『蛇』1959年)
多くの人が赤尾兜子の代表作の一つとしてこの句をあげるだろう。たとえば同時代を生きた金子兜太には、この作品の発話者の向こうに傷付いた赤尾兜子が立っていることが明瞭に見えていた。『この句でいまもすっきりしないのは、「岸侵しゆく蛇の飢」で十分ではないか、このほうが鋭い、「音楽漂う」は添え物ではないか、という感想である。・・・・・・・しかし、兜子は「音楽漂う」に執着していたに違い無く、彼に必要な<情感>だったにちがいないとも思っている。』(金子兜太「鑑賞赤尾兜子百句」) すなわち赤尾兜子の二物衝撃法が単に二つのイメージを結合しているのではなく、内部現実のイメージ(音楽漂う)と外部現実イメージ(岸侵しゆく蛇の飢)の接合として現れるということの止む無さ。外部現実を映すカメラと内部に起ち上るイメージを写し取るカメラの2つが据えられ、そのイメージを俳句作品上に結合することで、<不安の像>を表現することが赤尾兜子の確立した文体であることを理解していたのではないだろうか。
赤尾兜子の生前最後の句集『歳華集』は、1975年6月刊行。 収められた作品は1965年から1974年の10年間の一年を一章立てとする構成になっている。兜子自身にとっても40代という壮年期と重なる<クロニクル>として『歳華集』は成立している。60年安保の敗退と共に<前衛俳句>が転換を迎える中、政治的にも文化的にも時代の変曲点となった60年代後半から70年代前半を赤尾兜子はどのように時代と内面を拮抗させつつ表現を続けたのかその足跡をたどってみたい。
散髪後霧ごしに立つ不意の墓
目薬うしなう巡禮小突堤のはぐれ鷹
女墓灯りさめざめ耳梳く風
句集の冒頭部には兜子が確立した2点カメラによる<不安のイメージ>を表出する作品が並ぶ。と、同時に“四日市 一句”と前書のある句が現れる。
晝月食う火焔煙突群の妙な街
四日市公害とのちに呼ばれる<国家資本主義の失敗>がもたらした悲惨な社会的事象を詠んだ作品。この時期、私の知る限り<公害>を取り上げて俳句作品を詠んだのは鈴木六林男と石牟礼道子がいるのみではないだろうか。
ヘドロ地帯指す明確な意思泥男 (鈴木六林男)
祈るべき天とおもえど天の病む (石牟礼道子)
赤尾兜子の場合、社会性俳句の系譜としての前衛俳句に位置づけられるよりどちらかと言えば<表現の前衛>に重きをおいた系譜に位置づけられる。しかしだからといって社会のダイナミックな変化を、景として詠まなかったわけではなく、むしろ1960年代後半の時代の変曲点をとらえた作品をいくつか残していることについてはやはり留意しておきたい。
冷凍魚鞄に革命と踏繪憶う夏
林檎投げ若者の目指す遥かなる砦
インド饑う北越の川枯れて
瀕死の白鳥古きアジアの菫など
眼に揚花火嵌め水爆の国うかぶ
亂へ到らず根雪絡みあう白秩序
冬ゆうやけの眸に速報の<死>を躱す
一句ずつ解説はしないが、60年安保の敗退以降政治的前衛の迷走や若者の文化的反乱(カウンターカルチャー)、ベトナム戦争や中国の水爆実験、そして再び反乱の敗北という<時代の困難>が詠まれている。同世代の戦後派作家が<過去の戦争の傷>を詠むことに留まる、あるいは金子兜太のように自らの「社会性俳句」概念の改変を行いつつ、内面意識の表出にむかいはじめる中、赤尾兜子にはすくなくともこの時期時代と並走しようという意識があったのではないだろうか。単に新聞社に勤めていたからといった理由ではない、時代の病巣への関心がやみがたくあったのだと思えるほど作品の完成度は高い。
しかしこのような時代詠ともいえる作品は1968年を最後に詠まれなくなる。
室葉宵ごと黑くなり寝返る妻
海胆裂くに悶えし暁は幼児なり
舐めあう墓猫 夜は幾十の甘い裸
藤房怺えるばかり吊橋上の接吻
白魚火戀う岸男女無數の影ゆらぐ
そして69年には<エロス>を主題にした作品が現れるが、イメージも意味も明瞭で、言語規範に違反する意識が弱まっているようにおもわせるのは、1点のカメラを操りながら表現する文体に変化しつつあるからだろう。おそらくは時代の病巣への関心が薄れゆき、赤尾兜子自身の内面にある、幼児期より居座りつつける<対幻想(家族)>の課題が大きく揺れ始めたのではないかと思われる。どの句にもなにかが隠されているように感じるのだ。
70年には兜子は作家眉村卓たちと欧州旅行にでかける。そこで体験した異文化的接触をきっかけに<日本的なるもの>に覚醒したと言われているが『歳華集』を最後まで読んでもそのことを裏付けるような作品には出会わなかった。むしろ69年には、自らの表現の根拠が揺らぎつつあり、それが欧州旅行に向かわせた理由なのだと考えたほう自然だと思う。
歸るラガー鱝水槽の中に死ぬ
69年の作品群の最後にこの<日常の不条理>を詠んだ句が置かれた以降、70年の欧州旅行を挟んで、大岡信が『赤尾兜子の世界』で指摘した「この新句集では、昭和46年度「単飛」あたりから、句に変化が生じていると感じられる。」作品群が続く。世上言われる<前衛俳人赤尾兜子の伝統回帰>の始まりである。
壯年の暁白梅の白を驗す
いかにも古俳句の文体とおぼしき作品であるがこの句は与謝蕪村の辞世の句(しら梅に明る夜ばかりとなりにけり)を自分自身の気分として詠んでみたものだろう。こういう作品を伝統回帰と呼ぶなら呼べないことはない。しかし単純に季語の使用や五七五定型へのおさまりをもって<伝統回帰>とは呼べないし、<伝統俳句>が決して詠まないような作品群がこの句集の後半に散りばめられていることを銘記すべきだろう。
ひとり夕焼人形市の潰れ顔
隠れ月ステンレス皿の蟹死にやすし
花菜明りはやブランコに乘る老婆
菟さげし獵夫と暁をゆきちがう
歸り花鶴折るうちに折り殺す
おびただしく兜蟹死に夏来る
盲母いま盲兒を産めり春の暮
空鬱々さくらは白く走るかな
大岡信のいわゆる「句に変化」はあきらかに方法意識としての2点カメラの消滅からくるものだろう。それでも赤尾兜子の作品は<不安の像>を結ぼうとする。あるいは<不安>は発話者の胸の内におさまり、作品が結ぶのは<不吉な像>と呼んでも良い。兜子のかつての作品群が読者の感情移入を拒むような文体であったことと比べると、これらの作品群には読者の感情を招き入れようとするものがある。
表現の先端を走った詩人が、晩年<伝統回帰>したという批評には疑い深く耳を傾けるべきだ。宮沢賢治の文語詩への回帰、萩原朔太郎の「氷島」の文語体。数えればきりがないが、それら<回帰>と言われるもののなかには単なる表現力の弛緩ではなく、あらたな課題への内発的転換が潜んでいることがあることを忘れてはならない。『歳華集』後半の作品群も兜子がどのような表現上の抗いをつづけていたのか、そしてそれが同時代の他の作品群と比してどのような意義をもつのか改めて検討すべき課題だと思う。
葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり