ビブリオバトルと俳句のシンフォニー
大西美優
はじめに
はじめまして、大西美優と申します。現代俳句協会青年部のゼロ句会を中心に俳句を楽しんでおります。言葉と言葉の重なりあいによって時に予想外の化学反応が起こることが面白くて俳句を続けています。よろしくお願いいたします。
私には、俳句の他に、もうひとつの趣味があります。もう10年近く続けているものなので、趣味というよりはライフワークと言ったほうが良いかもしれません。私のライフワーク、それは「ビブリオバトル」です。
これを読んでくださっている方の大半は、「ビブリオバトル? 何それ、聞いたことないぞ」と困惑しているかもしれません。「聞いたことはあるけれど、参加したことはない」という方も多いと思います。あるいは、「俳句に関する記事を読みたかったのに、どうしてビブリオバトルなんだ」と憤慨している方もいらっしゃるかもしれません。
ビブリオバトルとは、ごく簡単に言うと、「知的書評合戦」です。
私は中学生のときにビブリオバトルに出会いました。そしてその魅力にどっぷりとはまり、現在では阪大ビブリオバトルというインカレサークルに所属し、部長を務めています。ビブリオバトルと俳句、全く異なる営みでありながら、そのエッセンスには似た部分があるかもしれない……と思っていたところ、ありがたいことにお声がけいただき、2024年3月には「俳句の隣人〜ビブリオバトル×俳句の摩擦熱〜」という表題で現代俳句協会青年部の勉強会にも出演させていただきました。この記事では、勉強会でお話した内容を振り返りつつ、私の考えるビブリオバトルと俳句の共通点、その魅力について書いていきたいと思います。
ビブリオバトルとは、本が主役のコミュニケーションゲーム
「ビブリオ」はラテン語で書物を意味する言葉、「バトル」はご存知の通り英語で「闘い」を意味する言葉です。こう説明すると、書物で殴り合うプロレスのようなものを想像されるかもしれませんが、全くの誤解です。ビブリオバトルとは、バトラーと呼ばれる発表者が5分間で本について話し、聴衆との3分間の質疑応答を経て、最後に参加者全員の投票によってチャンプ本を決めるというものです。公式ルールは以下の通りです。(引用:知的書評合戦ビブリオバトル公式サイト)
1.発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
2.順番に1人5分間で本を紹介する。
3.それぞれの発表の後に,参加者全員でその発表に関するディスカッションを2〜3分間行う。
4.全ての発表が終了した後に,「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員が1人1票で行い,最多票を集めた本をチャンプ本とする。
一見非常に簡素なルールですが、実は細かな部分に意匠が凝らされています。例えば、「発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる」の部分です。ビブリオバトルでは、「観客受けしそうな本」「読んでいないけれど面白そうな本」ではなく、「自身が読んだ上で魅力的だと感じた本」を紹介する必要があります。このように、発表者が心から面白いと感じた本を紹介するというルールが、後に行われるディスカッションの活性化を促します。
また、ビブリオバトルは投票で勝敗を決めますが、票を投じる対象は「紹介が上手だった人」「話が流暢だった人」ではなく、あくまでも「一番読みたくなった本」です。最多票を集めた本が「チャンプ本」と呼ばれることからも、ビブリオバトルの主役は人ではなく本であることが分かっていただけるかと思います。
ビブリオバトルと俳句の類似点
ここからは、青年部勉強会「俳句の隣人〜ビブリオバトル×俳句の摩擦熱〜」でお話した、ビブリオバトルと俳句の類似点について書いていきたいと思います。
ビブリオバトルという比較的新しいカルチャーを、俳句という比較的歴史のある詩形の隣に並べてお話しすることに、初めは少し不安がありましたが、考えてみると意外にもいくつかの共通点が見出せました。
まずは、5・7・5という音数の決まりを持つ俳句と、5分間という時間制限を持つビブリオバトルに共通する「制限」という側面です。ビブリオバトルの5分間は、パッションで押し切るには長く、全てを説明しきるには短い、絶妙な時間設定です。俳句の、全てを写生するにはあまりにも短いため取捨選択を強いられる、17音の音数制限と少し似ていると思います。個人的には、ビブリオバトルで、話し終えたその瞬間に5分間のタイマー終了の合図が鳴り響いたときの興奮と、俳句を作っていて、表現したい事象が5・7・5の音数にピタリとはまったときの興奮は、少し似ているとも思います。
それから、こういった制限を乗り越えるために、ビブリオバトラーは本に語らせ、俳人は季語に語らせる……すなわち自分とは遠くのものを借りて表現しようとする態度には、親和性が見出せるように思います。ビブリオバトルはよく、本を介した自己主張のようなものだと勘違いされがちですが、実情は異なっており、主役はあくまでも本です。本の魅力に向き合い、言葉を紡いでいくなかで、そのバトラーならではの視点や独特の個性のようなものが自然と漏れ出て、結果的に自己開示のようなものに繋がっているのではないか、というのが私の主張です。俳句も、自分の心に強烈に焼きついた瞬間の出来事を俳句という詩形に収めるなかで、切り取り方や写し取り方にその俳人ならではの感性が滲み出ていくものではないかと思います。外的なものを描きながらも、翻って究極に内的な世界が表現されているという点で、両者にどこか似たものを感じます。
また、みんなで作り上げていく場を大切にする「座の文芸」であるという側面も、無視することはできません。どの本が一番読みたくなったかを自分の中の価値基準に沿って選定し票を投じるビブリオバトルの投票システムは、句会でいう選句に近しいものを感じます。ビブリオバトルでいうディスカッションタイムは、句会でいう披講と講評でしょうか。これらの行為は、順番や作法、目的は違えども、「同じ空間にいる人々と意見を交わし、感覚を分かち合い、言葉を介して見たことのない世界を見てみたい」という根底の感情は類似しているように思われます。
最後に、ビブリオバトルと俳句における、既存の価値観に抗おうとする態度についてです。俳人の小津夜景さんは、『いつかたこぶねになる日』(新潮文庫)で、俳句の魅力について「速さ、深さ、豊かさなどとは全く別の尺度」であることだと述べておられます。私もこの意見に全く同意です。俳人の、普段なら気にも留めないような情景を大切に心にしまおうとする感性。読み手の、限られた言葉から叙情や詩情を汲み取り、そこに広がる風景を想像する感性。その句に出会う前と後とでは世界が少し違って見えるような感覚。「で、だから何なの」と言ってしまえばそれまでの、取るに足らないささやかな情景を詩の形に収めることは、役に立つものやお金になるものだけに価値を置こうとする既存の世界へのささやかな反抗とも言えるのではないでしょうか。
ビブリオバトルもまた、既存の世界の価値基準に抗するゲームであると私は考えます。流暢に話す人が賞賛されるゲームではありません。途中でつっかえようが黙り込んでしまおうが、聴衆に「読みたい」とさえ思わせれば、その本がチャンプ本になります。沈黙、ためらい、言いよどみでさえも魅力に転じうるのです。私は普段、いろんな人のビブリオバトルを聞きますが、バトラーによって話し方というのは本当に様々です。淀みなくはきはきと自分の論を展開する人もいますが、そう簡単にすらすら話せる人ばかりではありません。特に、質疑応答で予期せぬ質問が飛び出してきたときには、多くのバトラーは言葉を詰まらせます。えっと、あのー、そうですね、なんて言ったらいいんだろう……そう言いながら、掴み所のない自分の考えを、それでもなんとか掴もうと、あれこれ言葉を探します。このような時間は、いわば聴衆にとっての余白です。この余白があるからこそ、その本の中身を想像し、その本を読んでいる自分を想像し、心の中で自分自身と対話をする時間が生まれるのです。この考えには、「速さ、深さ、豊かさなどとは全く別の尺度」に重きを置く俳句との、ある種の親和性が見出せるのではないでしょうか。
俳句ビブリオバトルに挑戦
勉強会では、最後に3人のバトラーに登壇していただき、紹介本を俳句に関する書籍に限定した「俳句ビブリオバトル」を行いました。1冊目は現代俳句協会専務理事・後藤章さんの紹介された『言語の本質』(今井むつみ・秋田喜美著、中公新書)。俳句を構成する「言語」について、記号接地という視点からアプローチを試みた点が斬新かつ鮮やかでした。2冊目は現代俳句協会青年部長である黒岩徳将さんの紹介された『現代の俳句』(平井照敏著、講談社学術文庫)。野球の実況を思わせるような明瞭な分析とパッション溢れる語彙の数々が印象的でした。3冊目は、東北にお住まいの大学生でビブリオバトラーの佐々木透也さんが紹介された『俳句忠臣蔵』(復本一郎著、新潮選書)。奇想天外な発想の本を、丁寧でやさしい語り口で紹介する様子に思わず聞き入ってしまいました。ライブ感溢れる質疑応答の後、チャンプ本は後藤さん紹介の『言語の本質』に決まりました。三者三様の個性溢れる選書と語りに観客一同引き込まれ、アフタートークでは「ビブリオバトルも句会も、好奇心が旺盛な人の集う場所かもしれない」という意見が飛び出しました。
おわりに
この文章を読んで、俳人の皆さまにもビブリオバトルに興味を持っていただけたら幸いです。そして是非、ビブリオバトルに参加してみてください。ビブリオバトルはいつでもあなたを待っています。