自在な珠のかがやき
対馬康子
本閉じる誤訳のような梅雨の月
本を閉じたとき誤訳かとおもう感覚で梅雨の月を見た。比喩が意表をつく。行を追い、意味を追い、うつむいて本を読む。知識の海のなかに忘我の時。それが途切れ、本を閉じたときに軽い決断がある。文脈の余韻をひきながら、ふと見上げた窓の外に月が輝いていた。それは満を持して待つ仲秋の名月ではなく、思いがけない梅雨の晴れ間の雲間から出てきた月。「本閉じる」という行為から「誤訳のような」と複雑な心情にいたる飛躍に、作者の詩的領域の広さが発揮されている。すでにこの世は、正義も悪も幸も不幸も誤訳に満ちているのかもしれない。
再びの阿修羅に畳む白日傘
身に入むや風神雷神背を見せぬ
どういう状況であるのか、すさまじい形相で闘う阿修羅を心のうちに、何か白無垢で決戦に臨むような白日傘である。現実の行為として、例えば炎天をめぐり来て、寺社の阿修羅像を前に日傘を畳んだという状況だとしても、ここに表現された強い内面性に圧倒される。また、秋のもの寂しさがしみ入る思いを勇壮な風神雷神の姿に重ねるということも大胆な発想である。風雨をもたらす風神と雷鳴をおこす雷神の見えない背中をもって描写している。決して「背を見せぬ」という、ここにも作者の何か決意をしてのぞむ意思が表れている。
珠子さんは、「麦」一筋の句歴が30年になる。中島斌雄が評論『現代俳句の創造』の中で、ピカソのことば「私の場合は一つの作品は破壊の合計である」を用いて、詩というものの「新しい関係」の構築を述べているが、珠子俳句はそれを十分に理解し、眼前の景を見つめ、見つめることで眼前のものから離れ、そしてどこか異質な新しい部分を掴みとるのである。それは破壊の言葉が先行するものではない。珠子さんの破壊の合計とは、家族との日常を大切にして、そのような日々の思いに真摯に向き合ってきたところから生まれてくる新しみを積み重ねてゆくことである。
かけのぼる炭酸の泡鳥の恋
立春の空山彦の放物線
設定はソーダ―水でもいいが、ここはやはりシャンパンが洒落ている。細いグラスの底から炭酸の泡が上へ上へとのかけのぼるその先に、解放された春の青い空が見える。窓の外では繁殖期を迎えた春の鳥たちが踊るように、一途な恋の鳴き声がする。そして、春立つ日、山彦が空にのびのびとした音の放物線を描いているということも、見えないものを見ながらも生命力に満ちた明るさが魅力である。
送盆翅あるものは翅畳み
死者生者噴水虹を生むばかり
お盆でこの世に戻ってきていた先祖の霊を門火を焚いて彼岸へ送る。人だけでなく、生きとし生けるものたち、薄い翅ある小さなものたちもその翅を畳んで彼岸への道を戻ってゆくのであろう。あまねく精霊との交感がやさしく美しい。平泉光堂に残されている「中尊寺建立供養願文」を思い起こした。藤原清衡が、悲惨な戦いを二度と起こしてはならないという誓いを立て、打ち鳴らす一音(いっとん)の梵鐘の音があらゆる世界に響き渡り、あらゆる人々を等しく苦しみから救うことを願った。小さな虫の繊細な翅にその思いがある。また、死者にも生者にも等しく虹を生み続ける噴水という見方もその思いが通底している。
連山は雪足裏から息を吸う
黙祷に揺らぐ体幹残暑光
義士の日のサンドイッチの耳を切る
足は第二の心臓と言うが、足裏から息をするという張りつめた歩。広島、長崎、沖縄などの式典であろうか。黙祷の眼を瞑れば体幹が揺らぐ。何者かが揺らすのである。討ち入りに思いを馳せながらサンドイッチのパンの耳を切る。どれも五感を研ぎ澄ませた第六感ともいうべき諧謔が表れている。
一木一草夏霧の海の中
「虚」の実相に立った上に生き生きと「実」に遊ぶ。珠子俳句の受賞はとても嬉しい。