楸邨の季語「蟬」
加藤楸邨の「生や死や有や無や蟬が充満す」の句を中心とした考察

田辺みのる

はじめに

 加藤楸邨の蟬の句の考察を、ある一句から始めたい。その句は蟬の句として特殊なだけでなく、蟬以外の季語に広げても、楸邨の句としては特殊な一句であり、その特殊性を以て楸邨を論じることはできない。しかし、同じ季(蟬)の句と比較し、その一句の特殊性を際立たせることは、逆に楸邨の基本的な作句態度や特徴を明らかにすることにもつながるのではないか。そのようにして蟬の句の全体像が見えてくれば、特殊な句の位置づけもまた明らかになるのではないか。その一句とは次の句である。

生や死や有や無や蟬が充満す 『吹越』昭和五十(1975)年

 この句と出会ったとき衝撃を受けた。それは筆者の個人的なある体験と結びついたからである。個人的な体験からくる感銘は主観的な考察に偏るであろうが、それを客観化すべく考察の範囲を広げていきたい。およそこのような論の展開として相応しくないであろう個人的体験談から入ることを、まずはお許しいただきたい。
 その体験とはこうである。
 小石川植物園を塀沿いに自転車で通り過ぎようとすると、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。その年は大量発生の年なのか、今まで聞いたことのない数の鳴き声である。自転車を止めて塀の外に立ち尽くした。塀のすぐ裏も相当数の鳴き声だったが、庭園を挟んで反対側の樹林の方がさらに夥しい数だ。ツクツクボウシは鳴き始めと鳴き終わりに特徴があるが、これだけの数だと一つに焦点を絞れず、始まりも終わりもない、切れ目なしのカオスとなる。当然、樹林の奥へ行くほど鳴き声は小さくなるのだが、あまりに重層的に聞こえるため、音が小さくなるのではなく深くなる。手前の鳴き声がこだまして宇宙の果てへ吸い込まれていくかのような錯覚に陥る。この音の渦が庭園を囲む空間すべてに満ち満ちている。
 私は何かに打ちのめされたようになり、その場から動けなかった。日は落ちて闇に包まれたがツクツクボウシは鳴き止みそうにない。自分が今、何を感じているのか言葉にできずにその場を去った。
 それから何年かが経ち、楸邨のこの句を初めて目にしたとき、小石川植物園で感じていたものがよみがえった。この句はあの時の状況そのものだった。あの時、言葉にできなかったものが今、目の前にあるという驚き。それもたった十七音の言葉に私が感じたすべてがあるのである。
 小石川植物園の体験があったがゆえに一瞬でこの句が自分の中に入ってきた。しかし、それなしにこの句と出会っていたらどうか。生、死、有、無というあまりに抽象的な概念の連続に翻弄されていたかもしれない。この四つの概念を一つ一つ検証し迷宮をさまようことになったかもしれない。しかしこれは俳句だ。一瞬を切り取っただけの俳句だ。以下、この句の「一瞬」について詳しく見ていきたい。
 なお、楸邨の掲出句については、刊行年ではなく作句年を出典の後に記したが、作句年を特定できないものについては刊行年を入れ「(刊行)」と記した。

一、生と死、存在と無

 最初の考察句を改めて示す。

生や死や有や無や蟬が充満す 『吹越』昭和五十(1975)年

 尋常ならざる句である。この「や」は切字なのか疑うであろう。一句の冒頭が四回の詠嘆で始まる。こんな句は見たことがない。もちろん生、死、有、無のどの一語をとっても深く詠嘆するに十分すぎるテーマではあるのだが、それが一句に収まるとは誰も思わない。
ひょっとするとこの「や」は「あれやこれや」の「や」ではないか、はたまた「有や無や」は曖昧の意味の「有耶無耶」ではないかと勘繰る人もいるかもしれない。しかし私はそうではないと確信している。この句は「生と死」「存在(有)と無」という哲学的テーマを示している。そう思うのはこの句と初めて出会ったとき、一瞬にしてかつての小石川植物園での蟬の体験がよみがえったからである。
 「蟬が充満す」、これは蟬時雨ではない。もちろん、複数の蟬が鳴いている点では蟬時雨なのだが、楸邨は敢えて蟬時雨を使わなかった。「充満す」はそうとしか表現しようのない夥しい蟬の声なのだ。蟬の声は切れ目なく覆いつくし、音の遠近は重層的な音の塊を作り出す。もはやパラパラと降ってくる時雨の比喩では十分ではない。音の洪水であり、渦なのだ。時々うねりを感じるものの、切れ目のない一塊の宇宙である。
 その宇宙の実態は蟬の声なのだが、声の一つ一つが「生(せい)」である。あまりに夥しい生は認識できる限界に達すると生のカオスとなり、その対極にあるはずの「死」の概念が入り込む。圧倒的な数の生は個別の認識が不可能となり均質化、抽象化し、それが本当に生なのか疑念が生じる。生は個にのみ存在する。生でなければ何か、それは生を否定すれば即ち死という当然の帰結なのかもしれない。そして生と死という反対の概念を一つのものと捉えた時、それは死へと向かう生、死を最初から内包した生という認識に達する。
 日常では体験しえない充満した蟬のこの空間を、全宇宙のように感じながら、同時にもう一つの疑問が浮かぶ。この圧倒的な存在(有)は本当に存在するのか。渾然一体となった蟬の声のカオスは、完全に一つのカオスとなり全宇宙を覆いつくしたとき、もはや均質化した一つの秩序となる。カオスの行きつく先は漠然と「無」を思わせる。だがこの「無」とは何であろうか。存在の対極、非存在。しかし、存在を知っているものについて、それがないことを以て「無」とすることはできるが、存在を知らないものについての「無」は認識できない。ならば「無」とは存在が前提となる。純粋な「無」の概念などないのではなかろうか。そもそも「存在と無」について考えているこの私の存在を否定することはできるのだろうか。私の存在を否定するものはもちろん「死」である。ここに至って「存在と無」は私自身の「生と死」の問題となる。
 以上は私の個人的な思考であるが、楸邨も蟬の句を詠んだその瞬間、同様な閃きがあったと信じたい。私が植物園の前で立ち尽くしても何の言葉も出てこなかったが、楸邨の一句によって、その感覚に一瞬で形が与えられたのだから。それは「生や死や有や無や」によってである。四つの概念が掻き回され一つに練られていくように蟬の声に収斂されていく。
 しかし俳句は俳句でしかない。十七音で表現できることは一瞬を切り取ることだけ。ならば生死有無の概念から感じ取ったことを季語に託すしかない。だからこそ蟬時雨では足りない。「充満」しなければならない。全宇宙に充満し認識の枠をはみ出す寸前に、今まで受けたことのない啓示をこの句から受けるかもしれないのだ。
 以上は筆者の個人的、主観的、妄想的感想にすぎない。次にこれを楸邨の他の蟬の句から捉えなおしていきたい。

二、木と石は生と死か

 掲出句には楸邨主宰誌「寒雷」に発表された先行句がある。

木や石や有や無や蟬が充満す 「寒雷」昭和四十九(1974)年6月

 前章で「有や無や」は曖昧の意味ではないと断じた。しかし、「木や石や」であれば曖昧という意味で詠まれた可能性も出てくる。なぜ木と石なのか。句集掲載の「生や死や」に対応させれば、木は命あるもの、石は命なきものと意識していたからこそ推敲の結果、「生や死や」となったという推測は成り立つ。しかしそれは最終的な推敲句を知っているから結びつくのであって、作句当初の思いは別のところにあるかもしれない。
 木は蟬とは切り離せない存在だ。だが石はいささか唐突な感がある。木にとまる蟬を見上げた視界に石はなかなか入ってこない。ここで多くの人が連想するのは芭蕉の蟬の句〈閑かさや岩にしみ入る蟬の声〉ではなかろうか。立石寺で詠まれた句であるから岩は景として自然に受け入れることができる。しかし、実際に蟬を観察した場合、岩のある場所にわざわざ行かなければ視界に入らないし、蟬の声がしみ入るのは木であると感じるのではないだろうか。木にしみ入るのを感じながら、芭蕉の句を思い足元の石に触れる。木と石、どちらにしみ入るのか、命ある植物の木と命なき鉱物の石、どちらにもしみ入る声が生と死を有耶無耶にする。そのような感慨を詠んだ句が「木や石や」の句であり、楸邨は石に芭蕉句への思いを込めたのかもしれない。楸邨は自身の主宰誌「寒雷」にこの句を発表したが、石から芭蕉を読み取ることは無理があり、推敲の必要性を感じていたのだろう。その推敲の過程で「有や無や」の文字が楸邨を刺激し、仮に当初は曖昧の意味で書かれたものであったとしても、いまや存在と無という抽象度の極めて高い言葉として迫ってきたのではないだろうか。当然、「木や石や」も存在と無に対抗できる抽象度の高い言葉に生まれ変わらなければならない。こうして生死有無の四字が対等に拮抗する一句となった。
 もともと楸邨は生死を同等に詠嘆する試みをしていた。終戦前の空襲が激しさを増す頃の句、〈死や生や冬日のベルト止むときなし『火の記憶』昭和二十(1945)年二月〉がそうである。「生や死や」は「木や石や」から一見遠い言葉とも思えるが、戦中から温めていた言葉であり、一気に飛躍した。
 また、存在という抽象的な言葉を蟬の句に取り入れる試みもすでにあった。次の句。

存在の頂点蟬の両眼木に点じ 『山脈』昭和二十七(1952)年

 この句は抽象的な「存在」から一句を始めている。生あるものにとって生死と有無は一対である。存在とは生であり、生の頂点にある蟬を楸邨は見つめている。生の頂点、存在の頂点とは何であろうか。人であれば、生きている実感、人生の絶頂。それを目の前の蟬に見ているのである。
長い年月を地中で過ごした幼虫が地上で羽化し成虫となり、今、存在の頂点にある。当然、鳴いているのである。全身全霊で鳴いている。句中に鳴いていることを示す言葉はない。しかし存在の頂点とはそういうことではないだろうか。
 蟬の雄は発振膜で音を出し腹中の共鳴室で増幅させる。一秒間に百回の振動と共鳴室での増幅のため、鳴いているときの蟬の腹は激しく動いている。そのような蟬の声を聞き、腹の動きを見ながら、蟬の存在が頂点にあることを感じているのである。その際に楸邨が動かない「蟬の両眼」に着目するのは、蟬の意思を感じ取ろうとしているのであろうか。蟬の目をしっかりと見つめていることからも、この蟬が木の高いところではなく、よく観察できる位置にいることがわかる。
 この一匹の蟬の「存在の頂点」が、夥しい蟬の声をなしたとき〈生や死や有や無や蟬が充満す〉の一句へと昇華し、さらなる抽象の世界を見せてくれるのである。
 このように「木や石や有や無や」が「生や死や有や無や」へ飛躍する下地はすでにあった。ただそれはおよそ俳句的表現ではないと言わざるを得ない。

三、蟬の充満

 〈木や石や有や無や蟬が充満す〉の句に戻る。
 季語の表現について見ていきたい。「蟬が充満す」は「木や石や」の句から変わっていない。通常は「蟬時雨」が使われそうなものだが、そもそも楸邨の句に「蟬時雨」を使った句が少ない。蟬の句は全部で八十二句(夏の蟬に限る)あり、その中で蟬時雨(楸邨の表記はすべて「蟬しぐれ」)は五句のみ。しかも、必ずしも正面に据えて詠んでいるわけではないものもある。例えば次の句。

蟬しぐれ中に鳴きやむひとつかな 『雪後の天』昭和十七(1942)年

 楸邨の関心は蟬時雨よりも鳴き止んだ一匹にある。また蟬時雨以外の蟬の句でも、鳴かない蟬、鳴き止んだ蟬の句も散見される。さらに啞蟬の句も十三句、その他、啞蟬と言っていなくても実質的に啞蟬の句と思われるものもある。一般に「蟬の声」や「蟬時雨」が使われる句は、必ずしも姿が見えているわけではなく、単に鳴き声として詠まれる場合が多い。しかし楸邨は一匹一匹を見ようとする。鳴く蟬、鳴かぬ蟬、蟬の一つ一つと向き合おうとする。蟬時雨の中でも一匹を見つめる楸邨に蟬時雨の句が少ないのも道理である。
 では「蟬が充満す」に類する句はないだろうか。〈木や石や有や無や蟬が充満す〉から遡ること十七年、「飛騨の谿」という四十六句の連作の最後の二句が次の句。

人焼くや飛騨の青谷蟬が充ち
滅びゆくもの生まれゆくものいま蜩 『まぼろしの鹿』昭和三十二(1957)年

 飛騨の蟬は蜩だったようだ。人を焼くこの場面で「蟬が充ち」ている。この二句を一句に凝縮したものが〈生や死や有や無や蟬が充満す〉なのである。
 さらに戦中まで遡る。『沙漠の鶴』は戦後の刊行だが、句が作られた大陸紀行の旅程は昭和十九年、終戦の前年である。

幾千の蟬なき汝今は亡し 『沙漠の鶴』昭和十九(1944)年(昭和二十三年刊行)

 「汝」は身近な誰かであろうか。「幾千の蟬」は悲しみの深さでもある。数えきれない「幾千」から、もはや数の概念ではない「充満」に後年たどり着くわけだが、その萌芽がここにある。
 数としての蟬ならば、一匹が具体的な個の生であるが、蟬の充満は全体で一つの抽象的な生となる。抽象的になればこそ、死の概念が入り込む。「幾千」「充つ」「充満」は抽象化していく過程を示している。しかしこの三句は、楸邨の蟬の句としては非常に珍しい。楸邨の蟬の句はすでに述べたように個と向き合う句が多いのである。それは蟬を声という属性として捉えず、一匹の蟬すべてを個として捉えようとしている。だからこそ、鳴いていない蟬の句も多くなる。幾つか示す。

我に動いて声を持たざる蟬の口 『吹越』昭和四十七(1972)年
蟬鳴かず直線の街きらきらす 『怒濤』昭和六十(1985)年
じりじりと蟬横に匍ふまだ鳴かず 『望岳』昭和六十二(1987)年

 このように、蟬の一匹を見続ける。鳴き声などの一属性にとどまらず、一個の生として捉える。これが楸邨の姿勢である(楸邨に夏の蟬の鳴き声の句はほとんどない。鳴き声の多くは秋の蟬の蜩である)。「蟬の声」は単なる音として捉えることができるし、「蟬時雨」には蟬の個の生体を離れた、すでに抽象化されたものを感じる。当然、楸邨の句では少なくなる。すでに見た〈蟬しぐれ中に鳴きやむひとつかな〉は、蟬時雨に抽象化しそうになる意識を再び個の生に引き戻している。もしも個の生に引き戻された意識を、その認識のまま、蟬時雨を構成する全ての蟬に一つ一つ当てはめていったらどうだろう。自分を対象に同一化させられる生は一つが限界かもしれない。それを無理にやろうとしたら個の生ではなくなり、全体が抽象化された生となる。しかしそんなものは実在しない。個を離れては生はなく、それは神のようなものでしかない。
 楸邨の蟬の句のほとんどは、抽象化されたものを描くのではなく、具体的な個の蟬を描く。個を積み上げたその上に哲学的思考が形成されたとき、一気に抽象化する。しかし俳句では哲学は語れない。にもかかわらず〈生や死や有や無や蟬が充満す〉には哲学的啓示がある。これは俳句のできる範囲を超えた奇跡の句だ。

四、蟬の声

 前章で、蟬を鳴き声などの一属性にとどめず、一個の生として捉えるのが楸邨の姿勢であることを述べた。この点を補足しておきたい。
「蟬時雨」の句が五句しかないことはすでに述べたが、「蟬の声」となると実に少ない。芭蕉も詠んだこの季語を楸邨はほとんど用いていない。八十二句の蟬の句の内、一句しかないのである。その一句は〈蟬の声聞かずをりしが天山下『死の塔』昭和四十七(1972)年〉なのだが、「聞かず」とあるので、蟬の声を明確に詠んだとは言い難い。「蟬の声」を直接用いた句は実質的にはないと言って差し支えない。蟬の声を音として捉えると、単に自然現象として耳に入ってしまうのだが、蟬を意志を持った主体と捉えると、「鳴く」という行為が見えてくる。動詞を多用するのは楸邨の特徴だ。「蟬の声」ではなく、「蟬鳴く」「蟬鳴かず」「蟬あるく」「蟬とぶ」「蟬匍ふ」となる。
これは主体が蟬の声を聞く人間の側になっても同じだ。「蟬の声」ではなく「蟬を聴く」となる。

わがこゑとなるまで蟬を聴きゐたる 『雪起し』昭和五十四~五十八(1979~83)年

 次の句は一般に上五を「蟬の声」としがちであろうが、楸邨は鳴き声を聞く主体の行為として動詞を使う。

蟬きくやふるさと遠き顔ばかり 『沙漠の鶴』昭和十九(1944)年(昭和二十三年刊行)

 この姿勢は初期から一貫したものである。蟬と一体化するまで没入し、蟬の意思を感じながら鳴き声を聴く。

微笑みて征けり蟬鳴きしんに鳴く 『穂高』昭和十五(1940)年(刊行)

 鳴いているのは蟬なのか楸邨なのか、私には区別がつかない。
 属性ではなく生として捉えるということは、主体の意思を捉えることだ。それにより、季語の表現も自ずと違ってくるのであろう。
 そうは言っても、長い生涯で「蟬の声」の句が一句もないというのはどういうことであろうか。これは意識的に避けているのではないだろうか。避ける理由があるとすれば、それはやはり芭蕉の句であろう。芭蕉の句があまりにも人口に膾炙したため、「蟬の声」と置くだけで読者は芭蕉の世界に引き込まれてしまう。むしろそれを利用して効果をあげる方法もあるだろうが、楸邨は芭蕉の句に凭れかかるようなことはしなかった。このことは楸邨が蟬の句を詠むときに芭蕉の句を意識していたことを思わせる。
 伝統的な季語に対する楸邨の考え方を窺わせるものがある。紀行随筆の『隠岐への旅』の中に四頁にわたる俳論があるのだが、それは「伝統と因襲の混同」から始まる。「俳句の十七音にせよ、季にせよ、因襲として使っているに過ぎない場合が随分多い」と述べているが、この後展開されるのは十七音論であり、季語についての言及はないものの季語への考え方を窺い知れるものだ。その核心部分を紹介する。
 「伝統は疑いぬいて、血肉化された歴史だ。十七音を一度疑いぬいて、もう一度我々の立つところに於て新たに生みかえすことだ。(中略)もう一度、自分の、ここで、この心で、生みかえしてゆくのだ。これは、十七音でなくても理屈ではよいという反抗精神を通って伝統を生みかえす精神だ。」
 この後、楸邨は芭蕉についても言及し、芭蕉の十七音が「反抗しぬいて」新たに生みかえされた十七音であることを述べているが、季語についての言及はやはりない。この紀行随筆中の俳論部分の最後の段落をそのまま引用する。
 「私がいいたいことは、とにかく、俳句の十七音に甘んじきれぬものが、却って十七音を生かす重さであり、季に就ても、季に甘んじきれぬ心が、季を重くするものだということなのだ。だから、趣味的な因襲には出来るだけ従わないで、伝統としてのそれを、自分の現実の心で生みかえしてみたいという念願を持ちつづけたいと思っている。」
 このように十七音論というべきものは、「十七音にせよ、季にせよ……」から始まり、「季に就ても……」で終わるのだが、季への具体的な言及はない。その精神は十七音の場合と同じだということであろう。すなわち季についても、因襲に従わず、自分の現実の心で生みかえすということ。その決意を以て実作に臨んでいる。
 楸邨は、伝統を疑い生みかえした芭蕉に共感し、芭蕉の季語を疑い生みかえそうとしていたのではないだろうか。だからこそ芭蕉の「蟬の声」を意識的に使わなかった。
 では楸邨は芭蕉の句をどう読んでいたのであろうか。次の章ではそこから始めたい。

五、芭蕉との対峙

閑かさや岩にしみ入る蟬の声 芭蕉

 蟬の句と言えば誰もが真っ先に思うのは芭蕉のこの句であろう。楸邨はこの句をどのように読んでいたのであろうか。楸邨の著書に「芭蕉全句」があるが、これは文字通り全句の評釈であって、句意は短くまとめ、推敲の経緯や作句時期の検討などに紙面を割いている。そのため楸邨独自の解釈までは突っ込んでは書かれていない。しかし楸邨の〈生や死や有や無や蟬が充満す〉の句を通して読みかえしてみると、楸邨は芭蕉をさらに深く読み込んでいて、芭蕉と同じものを目指したのではないかと思うのだ。
 それを述べる前に芭蕉の有名なもう一句の蟬の句も見ておきたい。死を強く意識した句だ。

やがて死ぬけしきは見えず蟬の声 芭蕉

 現代語では「やがて」は「すぐに」、「けしき」は「様子」の意。それを踏まえて読んでも、現代語の感覚で読んだときと不思議と印象は変わらない。この句は「やがて死ぬ」と死の意識が強いことを表明しながらも、かたちの上では「けしきは見えず」と死を否定し有耶無耶にしてしまっている。死を見据えながらも生死の明確な境界などないようにも思われる。蟬の命は短いが、今鳴いている蟬の声はいつ果てるともなく続く。短命という宿命を負った蟬の声は鳴き始めから死を内包し、死へ向かって続いてゆく。
 楸邨は「閑かさや」の句を読む際も、蟬の声に死を内包した生、死へと向かう生を思いながら読んだかもしれない。この蟬の声は蟬時雨かもしれないし一匹であるかもしれない。どちらであってもかまわない。一匹でも蟬の声が続く限り岩にしみ入り続ける。岩の中に蟬の声が充満する。死を内包する生が充満した、岩の中の「閑かさ」とはいかなるものであろうか。生死の混沌としたカオスではあるが、それは宇宙の原理であり秩序でもある。岩の中の「閑かさ」は宇宙の「閑かさ」ではないだろうか。芭蕉の句の岩の中を思うと、その「閑かさ」はなんと深く広大であろうか。
 この「閑かさ」を楸邨は芭蕉とは違う表現で詠もうとした。芭蕉は岩の中に「閑かさ」を凝縮して結実させたが、楸邨は「閑かさ」を宇宙に解き放った。この「閑かさ」は、対極にある生と死、存在と無を一体としたカオスでありながら秩序でもあるものだ。楸邨は芭蕉の句から感じたものを全く違う方法で描いた。そうでなければ芭蕉と並び立つことはできない。芭蕉は楸邨自らの心を以て生みかえすべき巨大な「伝統」である。そして楸邨の〈生や死や有や無や蟬が充満す〉は芭蕉へのオマージュなのだ。
 芭蕉は「閑かさ」という抽象世界を「岩」へと具象化した。楸邨は「閑かさ」の抽象度を上げることで、芭蕉の句において読み飛ばしがちな「閑かさ」の意味を深く考えざるを得ないように生死有無というキーワードをちりばめた。ただし楸邨の句が俳句として成功と言えるかは疑問である。具象を離れ難解なものになってしまったという批判は免れない。
 そもそも楸邨の「生や死や」の句が、楸邨句の中でも極めて特殊な句であることは最初に述べたとおりだ。鳴き声という一属性のみに抽象化せずに、個性として存在そのものを把握しようとするのが楸邨の作句態度である。敢えてその逆を試みるのは、芭蕉の「閑かさや」の句に対峙する気概ではないだろうか。そしてそこには楸邨の自信も感じられる。難解になり直ぐには理解されない句となる危険を認識しつつも、伝わるはずだという自信、俳句の可能性を広げるはずだという自信である。

 「生や死や」の句は、岩波文庫の約三千句を収めた『加藤楸邨句集』にはない。この句集は、森澄雄と矢島房利の選によるものだ。二人はこの句を成功していないと判断したのだろう。しかし楸邨は死の前年、全ての句の中から自選三百二句を収めた句集を編んだ。そこには〈生や死や有や無や蟬が充満す〉が収められている。この句の真価を再び世に問うたのだ。楸邨のこの句への思い入れは深い。
 私はこの句と出会ってから折に触れ考えてきたが、今回の考察で初めて楸邨の句を通して芭蕉の句を読み直すことができた。楸邨の言う「伝統を生みかえす」とは、外見は全く違ってもその世界観や精神性を現代に引き継ぐものであり、それを芭蕉の句に見出だすことができた。それは芭蕉を現代の視点から読み直すことでもある。楸邨はそれをこの一句と成した。楸邨のこの句は評価し直されるべきであろう。(了)

 

俳句鑑賞者として

田辺みのる

 この度は歴史ある賞を頂き光栄に存じます。
 私は加藤楸邨の師系に拘り六年前に炎環に入会、それと同時に作句を開始しました。結社の評論賞を二度受賞しましたが、どちらも楸邨の季語の考察によって作家像を描くものでした。今回の季語は蟬でしたが、蟬全般よりも、私が俳句を始める原点となった出会いの一句を記しておきたいとの思いで書きました。おそらく選考の過程でエッセイ風の書き出し、妄想的な鑑賞が、評論としてどうなのか厳しい批判もあったことと思います。そう覚悟しておりましたので今回の受賞は予想外の事で未だに信じられない気持ちでおります。
 俳句を始めたときすでに楸邨はこの世の人ではなく、私にとっては歴史上の人物でした。炎環主宰である師の石寒太は楸邨の直接の弟子であるだけでなく、長年、編集者として楸邨と接してこられた方です。私は師の気息に触れその背中に師系を追い求めてきました。炎環の句会は自由闊達な議論が特徴で、私の妄想的鑑賞も大目に見て頂き自由に発言させて頂きました。一句から見えるものを述べ切りたい、受けた感銘の正体を明らかにしたいとの思いは、句座が持つ一期一会の精神からくるものかと思います。あらためて導いて下さった主宰と句座をともにして頂いた全ての方へ感謝申し上げます。
 本格的評論は些かハードルが高いように思いますが、今回の受賞で俳句鑑賞者として認められた喜びをかみしめております。ありがとうございました。

プロフィール

田辺みのる(たなべ・みのる)

1964年(昭和39年) 滋賀県長浜市生まれ 東京在住

◆俳句歴
2018年(平成30年) 炎環入会、石寒太に師事、作句開始
2021年(令和3年) 第25回炎環評論賞受賞(受賞作「楸邨の季語『寒の石』『海月』『昆虫』の考察」)
2022年(令和4年) 炎環同人
2023年(令和5年) 第27回炎環評論賞受賞(受賞作「楸邨の季語『綿虫』の考察」)
現在 炎環同人

◆メールアドレス minoru41564@yahoo.co.jp