以下の文章は、筆者の意向により第44回現代俳句評論賞で佳作となった論の内容に大幅な増補や修正を筆者が加えている。佳作受賞作は、全文が現代俳句協会HP「俳論広場」に既に掲載されている点に鑑み、筆者の意向も受けて掲載することとした。佳作の対象はあくまで「俳論広場」掲載の文章である。(編集部)
2024年3月末日締切の現代俳句協会第44回現代俳句評論賞に応募した「詩人石原吉郎の俳句観‐定型は彼を救った‐」についてはテーマの絞り方が悪かったせいもあり、制限文字数(12000字)に比べて書きたいことが多く、詩は改行を「/」で表現したり、数行の引用は書き出しを1字しか下げないなど圧縮したうえで、自分の考察はなるべく少なめにして、石原吉郎の文や先行論者の引用などの構成で言いたいことを表現するようにした。また、タイトルはアピールするものにした。しかし、そのことで不満が後を引いたため、文字数を限定せず、また、賞を意識せずに修正することにした。その結果、タイトル(副題)は元に戻し、「一 はじめに」の部分でも、斎藤慎爾であると思われる帯の文も復活させるなどして、約24000字になった。(筆者)
詩人石原吉郎と俳句 ‐実存と定型‐
石川夏山
一 はじめに
石原吉郎は1915(大正4)年、静岡県土肥村に生まれ、1977(昭和52)年、埼玉県上福岡市で亡くなった(62歳)。第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』でH氏賞を受賞、『水準原点』『北條』などの詩集により、戦後の現代詩を代表する詩人であった。同時に『日常への強制』『望郷と海』などの評論・エッセイ集でも知られるとともに、句集『石原吉郎句集‐附俳句評論‐』、歌集『北鎌倉』を著した。その文学的営為には8年間に渡る壮絶なシベリア抑留体験が強く影響していた。
彼の俳句及び俳句観は斎藤慎爾(1)による句集の出版がなければ、詩人の文学修行の一頁あるいは余興としてしか語られなかったかもしれない。齋藤は主宰していた深夜叢書社で1974(昭和49)年に『石原吉郎句集‐附俳句評論‐』を刊行した(2)。掲載は1958(昭和33)年から1962(昭和37)年にかけて雲俳句会の同人月刊誌『雲』に発表されたもので、俳号は「石原青磁」、「石原せいじ」を用いている。
齋藤は1959(昭和34)年、20歳で秋元不死男主宰『氷海』の氷海賞を受賞した翌年から20年間、句作から遠ざかった。その間の1974(昭和49)年に、吉郎の12年以上前の句と俳論を出版するというのは、よほどの共感や意図があったのではないか。齋藤は吉郎が捕虜としてシベリアに抑留されていた1946(昭和21)年、京城府(現ソウル市)から山形県飛島へ移住している。句集の帯の文は記名がないので齋藤ではないかと推測されるが、硬質で格調高い文だ。
戦後詩の孤高の祭司・石原吉郎は、異土の酷烈な時空から<十七音>の沈黙の萌芽を持ち還っていた。辛い覚醒の刻を経て、石原青磁の俳号で一俳誌に発表され、筐底に埋もれていた全句全俳句評論を初めて集成。生の根源に垂下し、さらなる光度と密度を高める詩人の原質に迫る掌句集。
吉郎について俳句界での言及は多くはないが、現代俳句協会のホームページ「読む・学ぶ」の「現代俳句コラム」では、高岡修氏が吉郎の句「縊死にせよ絞殺にせよ水温む」を取り上げ、「石原は、詩と俳句を同じ思想のレベルで書きえた数少ない詩人のひとりでもあった」と紹介している(3)。
また、文芸評論家で俳人の井口時男氏は氏のブログのタイトル『批評と俳句:井口時男の方丈の一室』の下に「いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな(石原吉郎)」という吉郎の詩の一節(4)を掲げ、数回にわたり吉郎について言及している(5)。
本論は詩人石原吉郎の俳句と俳句論、とくに定型論を中心に、俳句と彼の実存について論じる。
二 石原吉郎と文学
(1)石原吉郎の文学的土壌
吉郎は幼児期に母を亡くした。自編年譜(6)では「東北農家出の継母に育てられる。父は転職の関係で、東京、福島、新潟などを転々し、1926(大正15)年、東京府下におちつく。爾後7年ほど半失業状態つづく」という幼少年期を送り、東京高等師範学校の受験に失敗した年には自殺未遂を起こした。翌年も師範は失敗したが、東京外国語学校ドイツ部に入った。河上肇やマルクス主義文献を読み、北条民雄に衝撃を受け、シェフトフ、ドストエフスキイ、さらにはカール・バルトを読んでキリスト教の洗礼を受けた。詩も作った。24歳のとき、仕事(大阪ガス)をやめ、神学校に入るために上京するも召集を受け、軍に入った。ロシア語を習得させられ、1941(昭和16)年7月に本土を発ち、朝鮮を経由して8月上旬ハルビンに到着。陸軍の関東軍情報部でロシア語の情報蒐集、翻訳の仕事に就いた。1942(昭和17)年11月召集解除されるも即日関東軍特殊通信部隊に徴用。敗戦後の1945(昭和20)年12月、ソ連軍の捕虜となり、1949(昭和24)年2月、判決前には独房に入れられた末、ソ連の軍法会議カラガンダ臨時法廷において重労働25年の刑を受けた。そして、氷点下40度にもなる極寒の地で、少量の食事、粗末な寝具で重労働を強いられた。そこには死を免れるための囚人同士の競争があり、協同もあった。たとえば、少量かつ貧弱な食事はひとつの食器に2人分が提供され、分け合った。寝具は床が冷たいにもかかわらず1人に1枚の毛布だった。彼らは2人で食事を分け、2人で1枚の毛布を敷き、1枚を上にかけて、背中を固くつけて眠ったという(7)。囚人服を着て、作業の行き帰りの隊列からはずれるだけでも銃殺されるかもしれないという監視下の、ロシア語だけの世界で、ペンや紙を持つことを許されず、日本語に飢え、失語の恐怖にあった。そのような状況下、自殺したり、精神に異常をきたす者もいた。そのようなギリギリの日々のなか、彼は俳句を作り、記憶していた。
1950(昭和25)年には栄養失調による2回の入院の末、9月にはなはだしい衰弱状態でハバロフスクに運ばれた。当地でしだいに体力を回復していくとともに、作業も軽作業となり、ペンと紙も持つことも許された。そして、1953(昭和28)年、スターリン死去による特赦で解放され、12月1日、舞鶴港に入港した。
しかし、1941(昭和16)年の26歳から12年の時を経て38歳で日本に戻ると、日本の体制も社会も、人々の心情も一変し、「御苦労様」どころか共産主義者になったのではないかと疑われて警戒、差別された。両親は亡くなっていたものの親族と断絶し、就職もままならなかった。敗戦後3、4年後くらいまでであればそのようなことはあまりなかったが、1950(昭和25)年から共産党員の公職からの追放(レッドパージ)、国民への強化宣伝が始まっていた。石原吉郎は帰国後も教会へも出入りしていたが、キリスト教にも、共産主義にも、戦後社会にも染まることができず、どこにも帰属するところのない単独者として生きるしかなかった。このあたりの石原吉郎の人生について、同じ伊豆に、吉郎より2年前に生を得た俳人中村苑子も『俳句礼賛』(富士見書房 2002)の「たましいを病んだ俳人たち」で触れている。
彼の悲惨な体験は深く記憶のなかに積み重なり、結婚し、H氏賞を受賞して詩人とみなされるようになってからも日々フラッシュバックして彼を苦しめたのではないか。
吉郎は日本基督教団出版局から本を2冊出版し、妻も受洗していたにもかかわらず、死後、告別式のさいに、牧師から苛烈な言葉で糾弾された。『石原吉郎全集』第一巻の手帖(栞)に告別式に参列した詩人清水昶が「酒と希望が残りをやっつける」という文で書いている(4)。
石原さんがすがりつくようにして信奉し、そしてついに信奉しきれなかったバルト神学の著作を、かつてわたしは手にとってみたもののどうしても理解できなかった覚えがある。〈……〉バルト神学と石原さんの関係については、今後だれかが解明しなければならない問題だと思うが、信濃町教会での石原さんの葬儀の折、牧師が、神をついに信じなかった石原さんを批判的に説教していた。神なき日本を生きた石原さんは、そのとき神から糾弾されていたのである。べらぼうなことだと思った。わたしは死者が神の名によって批判されることの異様さに身ぶるいした。石原さんは神と人間のあいだの深い虚無の中で生涯を終えたのだから。その人間的な苦悩こそを神はやさしく救い許すべきではないのか。
(2)石原吉郎の文学
昭和43年12月に出版した処女詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(8)は詩壇に衝撃を与え、翌年、H氏賞を受賞した。ドン・キホーテどころか、その従者のサンチョ・パンサだという自己卑下の題の詩集で、シベリア帰りの49歳は驚きを持って詩壇に迎えられた。句集の一番はじめの詩「位置」。
しずかな肩には / 声だけがならぶのではない /
声よりも近く / 敵がならぶのだ /
勇敢な男たちが目指す位置は /
その右でも おそらく / そのひだりでもない /
無防備の空がついに撓(たわ)み / 正午の弓となる位置で /
君は呼吸し / かつ挨拶せよ /
君の位置からの それが /
最もすぐれた姿勢である(8)
石原吉郎は多くの詩集を出し、日本現代詩人会の会長も務めた(1975〈昭和50〉~1976〈昭和51〉年)が、その詩は難解で、吉郎の名前は詩の愛好者のなかにとどまっていた。しかし、『望郷と海』をはじめとするシベリア抑留についてを含む評論・エッセイ集を刊行すると、彼は一気に世間に知られるシベリア帰りの文学者になり、インタビューなども依頼されるようになった。
また、評論集のなかにはアフォリズムもある。野村喜和夫氏は、吉郎のアフォリズムは「朔太郎以来の収穫といっても過言ではない」と書いている(9)。
私は虚無へと引きかえす / 帰るべき故郷をもつもののように
耐えるとは、<なにかあるもの>に耐えることではない。<なにもないこと>に耐えることだ。(7)
ことばによって弁明するな。存在によって弁明せよ。 (10)
死の前年には歌集も作った。吉郎はさまざまな文学形式で、その形式と関連を意識し、使い分けながら、個性的な作品を遺した。
三 石原吉郎の俳句と俳句観
吉郎は『石原吉郎句集』の「あとがき」に次のように記している。
句集が出ることになろうとは思ってもいなかったので、いささか とまどいの感なきをえない。詩作に先立つ数年間、俳句に熱中した時期があって、それなりに詩作のための、いわばトレーニングのごとき役割を果した。詩を書くようになり、俳句からはまった く遠ざかっていたが、たまたまある結社へ誘われたのを機に、3年ほどのあいだ俳句にまぎれこんだ。これはその時期の心許ない所産である。
シベリア時代のハバロフスクで、体力の回復後、ペンと紙も許され、軽作業、靴工、左官として働いていた際、ハバロフスクの日本人たちの「韃靼句会」に参加した。郷原宏氏は次のように記している(11)。
石原吉郎は詩人である前に俳人だった。学生時代にはモダニズム風の詩を書き、シベリアでも何篇かの詩を脳裏に刻んで持ち帰ったが、それはあくまで習作ないしは草稿というべきもので、自分なりの方法論に基づいて意識的に作品をつくったのは、ハバロフスク収容所時代の韃靼句会をもって嚆矢とする。
帰国後、文芸投稿誌に詩を投稿し、その投稿仲間で詩の会「ロシナンテ」を作ったが、1958(昭和33)年秋、収容所仲間の斎藤有思(本名保)に誘われて、韃靼句会の主宰だった佐々木有風が始めた雲俳句会に参加した。同人はシベリアからの帰還者が多かった。
斎藤有思は『雲』に次のように書いている。(12)
さらに八月四日に満州から千五百名の捕虜が加わり、その一部は転出したが、第三ラーゲリの収容人員は一挙に二千五百名に膨張した。この捕虜の中にも……が居たし、……のちに大方想太郎のペンネームでラーゲリを風靡した詩人石原青磁君らが参加して句会は回を追うて発展して行った。
なお、斎藤有思は吉郎の雲俳句会への勧誘と参加に先立ち、7月に社団法人海外電力調査会への就職を斡旋した。吉郎は37年には正職員になり、死去の年まで勤務している。
後述するが、雲俳句会での句作や俳句への考察が詩人石原吉郎を誕生させたと言って過言ではない。本項目は、この時代の句と俳論が掲載された『石原吉郎句集‐附俳句評論‐』と詩人中桐雅夫との対談「俳句と青春」(『一期一会の海』日本基督教団出版局1978年)(13)を中心に彼の俳句観を整理する。
なお、句集のうちの俳論三篇「定型についての覚書」「賭とPoesie(ポエジー)」「俳句と<ものがたり>について」は同年発行の『海を流れる河』にも収録されている(14)。それは句集の部数が800部と少部数であったこと、深夜叢書社の斎藤慎爾に評価され、自身も再評価したことにより多くの人に読んでほしいと思ったのだろう。また、「定型についての覚書」は『一期一会の海』(13)にも収められているが、それは中桐雅夫との対談「俳句と青春」の掲載に伴って内容を相互に補完するためではないかと思われる。
(1)定型
『石原吉郎句集』の「定型についての覚書」の冒頭は以下のとおりである。
「われわれが<短歌>の条件として認めるのも、また定型以外のなにものでもない」と一人の歌人が語った。この言葉をそのまま受け入れうるような条件と雰囲気のなかでは、俳句作家はさらにはげしい口調で、まったくおなじ言葉をくりかえさなければならないだろう。「定型がすべてである」と。僕もそれに同意するものである。 / 「定型が一切である」というところから俳句を書き始めてはならない。しかし、すべての俳句はさいごには、そこにたどりつく。 / 誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌たらずの詩である。ということは、完全性に対する止みがたい希求と情熱が、俳句を成立たせる理由と条件になっており、その発想法の根拠となっていることを意味する。
定型は詩との最大の差異であり、俳句を俳句たらしめるものだ。吉郎は「『自由』な現代詩は、このようなパラドクシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう」と言う。さらに、「覚書」は高柳重信の言葉を引用している。
「詩学」の八月号で、高柳重信は詩人の側からの批評に対して、「みずから、翼を折り、両眼を突く態の、そんな生き方、死に方も嘗ってはあった。それぞれの生き方死に方に対する、何故か、の問いは、それぞれに、現に切実に生きている者だけが発すべきなのだ」とこたえている。
本論に掲載する句をはじめ吉郎の多くの句は、定型で作っている。しかし、例外もある。
林檎の切口かがやき彼はかならず死ぬ
「犬ワハダシダ」もはや嘘をつくまでもない
(2)季語
季語について、吉郎は中桐雅夫との対談で「ぼくはときどき季語を抜いておりますけれども、やっぱり季語は要ると思います。」と述べている。しかし、続けて、シベリアで俳句を作る場合は日本の季語が通用しない、無理があると述べている。
本論に掲載する句をはじめ吉郎の多くの句は、季語を入れているが、無季の句もある。
庶民銀行扉口より種子こぼれつぐ
肩がある憎しみとほす肩のうえに
2句めは雲俳句会昭和34年10月例会への投句では「綿がある憎しみとほす秋の肩に」(15)だった。「秋の」をやめ、詩「位置」にも登場するこだわりのある用語「肩」への変更をしている。
(3)表現
吉郎は俳句にルビや英語を用いたり、さらには記号を用いたりと、斬新な表現に挑んでいる。
黙秘権もちうたふ「海(ラ・メール)よ」肩から夏
縊死者へ撓む子午線 南風(はえ)のair pocket
〈河は呼んでる〉党員五月の査問会
3句とも挑戦的な句で、取合せである。二物衝撃と言ってもいい。しかし、3句とも二つの句の関係性は極めて薄く想像は難しい。後年著されたシベリア抑留の評論・エッセイを読めばシベリア抑留という、二つの句をつなぐ細い糸の手がかりを得られるが、それを読んでいない現代の人に見せても多くの人は変な句としか思えないのではないだろうか。ただ、雲俳句会のシベリア抑留経験のある方々はイメージできる人もいたのだろう。そうであったにせよ、英語やルビや記号を使用するなどは戸惑ったに違いない。
また、吉郎は、新しい俳句に挑戦する会員を擁護して、『雲』に「作品評について」と言う文を寄せている。はじめに、ある会員の別の会員への評言で「とくに憤慨に耐えないのは、この人たちが「俳句はこういうものでなければならない」とか「こういう言葉を使ってはならない」といった一定の禁止的態度をもって臨んでいることです」とし、「俳句の前近代性と職人性からまがりなりにも脱出を「試みて」いる少数の事例に対しては、好むと好まないとにかかわらず、まじめな評価をもって臨むことが必要です。不完全な言葉を越えて、なお詩精神が持つ結実の可能性を見のがしてはなりません。」と書いている(16)。
(4)俳句の物語性と切断性
吉郎の詠む対象は自分という存在や人間や人間界だ。吉郎は句集の「俳句と<ものがたり>について」で、1枚の外国映画のスチール写真からは多くのことが想像され、無数の物語をもつと言い、写真は長い物語を一点で切断した断面のようなものだという。そして、「俳句は他のジャンルに比べて、はるかに強い切断力を持っており、その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与えるのである」と記している。そして、俳句は「二つの場面の間にある一つの裂目をとらえなければならない。でなければ俳句における時間性が回復される時はないであろう」という。吉郎はこの部分の説明として加藤郁乎の句を出している。
雨季来りなむ斧一振りの再会
という加藤郁乎の句は、いかなる場面の再現でもない。しかし、それが単的に一つの裂目をとらえているという点で、一つの完璧な物語をもっていると僕は考える。
前項の吉郎の句を見て欲しい。「黙秘権」「縊死者」「査問会」など、シベリア時代に見聞きした事柄からの切断である。
さらに、鋭い切断の句。
銃声のごとし秋立つ日の邂逅(であひ)
柿の木の下へ正午を射ちおろす
冬木立はじめにおれが敵となる
(5)俳句の発想の広さ
吉郎は中桐雅夫との対談で次のような発言をしている。
ぼくの初期の詩は、俳句的だとさかんに言われたんですよ。俳 句の表現形式をそのまま使ったんだな。俳句の空間の広さとい うものを、僕は詩にそのまま使ったような気がするんです。残 した空間の広さっていうのは、やっぱりあるんですよ。実在するんですよ。
次の句は発想が広いと言えるだろうか。
懐手蹼ありといってみよ
柿の木の下へ正午を射ちおとす
無花果や使徒が旅立つひとりづつ
中桐の、「二十行書いちゃったら、それでおしまいという詩が多くなった」という発言に対して「空間がまるっきりない。空間がないということは、つまり谺(エコー)が伝わっていく、余韻が響いていく空間がないということでしょう」と述べている。掲句には谺が感じられるだろうか。
(6)俳句の発想の重さ
中桐雅夫が、自分が詩に書けなかった経験と同じような経験が、ある俳句で表現されていたという話をしたことに対して、吉郎は「発想の重さというものは、詩よりも重いですからね、俳句のほうが。発想が重すぎて展開出来ないわけです。ただ、場合によっては、発想だけでどうしても処理出来ない俳句があるだろうとぼくは思いますね。短歌ではそれほど発想は強くないですよ。」と言う。さらに、その後に、高屋窓秋の全句集に解説を依頼され、「降る雪が川の中にもふり昏れぬ」の一句に絞って書いたら、窓秋から人と違う読み方をしてくれたと丁寧な手紙をもらったと話している。これは一句の重さを説きおこしたということではないだろうか。
この句の発想は重いだろうか。
百一人目の加入者受取る拳銃(コルト)と夏
絶叫や石榴の傷はもはや癒えず
(7)「社会性俳句」について
薔薇売る自由血を売る自由肩の肉(しし)
この句について吉郎は句集のなかの「自句自解」で、「社会性俳句(こんなずさんなレッテルが通用するのも俳句の世界なればこそだが)を気どったつもりではない。僕が目ざしたのは、自由というイメージが血と薔薇とに同時に結びつくという状況に対するきわめて感性的な反撥である」と書いている。
中桐との対談では「社会性俳句という分類の仕方そのものがおかしいですよ。」と述べている。そして、中桐が「もし俳句はそういう青春をうたったものがないとすれば、やっぱり若い人でうまく書ける人がいないということかな」(対談のテーマは「俳句と青春」)に対して次のように述べている。
つまり、十七字一行でずばっと言えないようなものもあるんですよ。もっと複雑なんでしょうね。といって、小説を書くほど のエネルギーはない。そうするとやっぱり詩にとびつくでしょう。詩は引き伸ばせば千行にも引き伸ばせるでしょう。吉増剛造の詩に、「空に魔子一千行を書く」……それを十回ぐらい書いてるんだ。ところが彼が朗読すると、一行一行が全部生きるのね。あれが不思議なんだ。 (詩集『黄金詩篇』「古代天文台」)
吉郎は俳句を作ったが詩も書いた。この文にその答えの一つがある。彼は詩で言い換えやリフレインなどを多く用いている。
また、吉郎にとっては、社会的な問題への関心をもってテーマとするということは自明なことで、それをとりわけ分野のように括るということは考えられないということなのではないだろうか。
なお、「社会性」という言葉に関連して言えば、石原吉郎は内村剛介や吉本隆明から社会に対する批判や告発ということをしないと批判された。野村喜和夫は次のように書いている。
さきにふれた内村剛介や吉本隆明の、石原作品には告発する姿勢や社会性がないという批判は、やや的外れというべきだろう。単独者の特異性がもつ不意の純粋な暴力的エネルギーに、そしてそれが可能にする関係の逆転(そのとき測(お)錘(もり)は吊り手なりそのとき虚無は足場となる 縊死者は審きを絞(くく)るだろう)に賭けた、あるいはすくなくとも賭けようとした瞬間があったのである。(9)ただし、( )内は吉郎の詩(17)
石原吉郎は詩、俳句、評論、エッセイでシベリア抑留について書いたが、日本やソビエトの政府などへの直接的な告発はしなかった。しかし、作品によって、監禁やその状況、非道理性などの側面は伝わる。それは告発ではないと言うのか、あるいは告発より弱いと言えるだろうか。詩人とは、文学者とは何者か、そのような者の社会との関わりのあり方はどのようなものか、考えたうえでの吉郎の生き方だったのではないだろうか。
(8)「前衛俳句」について
中桐との対談で吉郎は「いまの若い人が前衛俳句にとりつきやすいのを、塚本邦雄は歎いてるわけですよ。塚本邦雄の前衛短歌には、ある意味での華麗なメロディがあるでしょう。ところが前衛俳句はそれを壊してるというんですよ」と述べたのに対し、吉郎は「でも、それを壊すのは非常に苦痛だろう。その苦痛をおかしてまで壊すという気持は尊敬出来るとは言ってましたね。」と言う。これは、塚本発言を引用しながら現代俳句への共感を表明していると思われる。
佐佐木幸綱は次のように書いている。
石原吉郎は現代(、、)俳句に関して深い関心と理解を持っていたようである。伝統と形式、これが俳句を支える二本の柱だとすると、石原は後者に焦点を絞って俳句をとらえており、このとらえ方は、前衛俳句とも呼称される現代俳句の作家たちのそれとほとんど重なり合う。 (18)
吉郎は西東三鬼の初期や中村草田男が好きで、俳句評論では高柳重信や加藤郁乎を引用する。また、中桐が俳句の方で若い、いい俳人は出ているだろうかという問いに対して、次のように述べている。
短歌は意外といい若い歌人がどんどん出るんですよ。福島泰樹以来。俳句は最近読んでいないから知らないんですけれど、こ のあいだ読んだのはよかったですよ。深夜叢書から出た句集ですけど(津沢まさ子『楕円の昼』)、贅沢な句集で、全部装飾の縁取りをしてあって、一ページ一句ですよ。前に西東三鬼の結社に関係しておった人で、その後、高柳重信さんのグループに入った人です。古典的でもあるし、前衛的でもあるというような句で、あれは好きですね。
(9)「第二芸術論」について
桑原武夫の「第二芸術論」について、吉郎は中桐雅夫との対談で次のように述べる。
「第二芸術、それも結構じゃないか」という言い方をされると、そんなとぼけた言い方はない、堂々と主張しろ、といいたくなる。俳句も一流の文学だからと言えば言えるんですけどね。
中桐の「俳句の全国民的性格ね、だれもかれもがみんな書く。したがって芸術じゃないというわけですよ。強いて芸術という言葉を使うとするならば、第二芸術として区別したほうがいいんじゃないかという意見だった」という発言に、吉郎は「第一がよくて、第二がその下という言い方じゃなしにね」、区別するだけならいい、と言っている。
(10)句会、結社について
中桐雅夫との対談で次のように述べている。
俳句の結社に入っていやなことは、すぐ天狗が出来て、序列が出来ちゃうことね。出来た序列はなかなか替えられない。/
ぼくは運座そのものの形式がどうも疑問でしようがない。それが俳句をやめた理由の一つでもあるんです。
吉郎の句の俳句主体の非日常性、重さ、想像の拡げ方、二物衝撃のあまりにも不自然なつなげ方などについていけない、理解できないと思う人はいただろう。(3)の「縊死者」の句については句集の自句自解で、「『air pocket』と特に横書きにしたのは、エヤー・ポケットというかな書きのムードをきらったためと、それから特にこういう横文字を嫌う人を考慮したうえでの、ささやかないやがらせです」と書いている。このことについて、郷原宏は「俳句という形式に安住し自足する人々に対する、石原の嫌悪と苛立ちの表現にほかならない。」と書いている(11)。
吉郎は雲俳句会の多くの会員に、自分の句も俳句論も理解されず、(3)で見たような、硬直した教条的な俳句論を振りかざす人を見たり、そうした人々との人間関係などに嫌気が差すとともに、表現方法を詩へ移行することで、俳句から離れていった。
(11)俳句における賭け
詩であれ俳句であれ、作品の完成は、作品を手放すことであり、選択や修正を断念することだ。別の視点から言えば、投げることであり、賭けることだと言ってもよい。そのような切迫感を持った決断によって、作品は作者から離脱し、完成となる。吉郎は句集の「賭けとPoesie(ポエジー)」において、「『詩にだって命を賭けることができるんだ!』とか、『その時、何ものかによって逆に僕自身が詩作されているのだ』」ということによって何かが生まれてこないかと言う。吉郎は賭けのような切迫感、断念の気持ちをもって句を作っているか、と言いたいのではないだろうか。
四 石原吉郎の実存と俳句
(1)吉郎の実存と定型
定型は3度、彼を救った。
一度めはシベリア時代。監禁、極寒、飢え、重労働、失語状態という絶望的な状況のなかで、彼を救ったのは俳句という定型だった。食べるのも寝るのもやっとの、選択という余地が全くない悲惨な状況でも、頭のなかの言葉は選択できる、自分を表現できる。ペンと紙がなくても、定型ならリズムで記憶できる。自己の存在に関心をもち自己のあり方を考える主体的な存在を「実存」と言うならば、自分の言葉で自己を表現することは実存を生きる証しだ。彼は実存を支え、自己同一性(アイデンティティ)を保持するため、言葉の連なりの意味を定型で表現した。作った俳句の定型のリズムは繰り返し口ずさみ、そのリズムは言語野に染み込んだ。定型は生きるための自己の証しそのものだったろう。
なお、吉郎の「実存」についての文を紹介しておく。
実存とは、いわば私自身のことである。私はついに私自身を一度も離脱できず、結局この私自身を生きてこそほんとうに生きたということができるのだ、という認識から、何かの価値の転倒(私にとっての)が起らないだろうか。生きるということは、この世界の何を生きるというのでもない。ただ現実の中の現実、レアリテの極限としての自分自身を生きることにほかならない。(7)
清水昶は鮎川信夫、谷川俊太郎との対談で次のように述べている(19)。
石原さんがどこかで言っているんですけれど、言葉というのは 他人とつながるためではなくて、自分をととのえるためだって、そういうことを言ってるんです。でも、ぼくは、石原さんの他者というのは自分自身のなかにあって、他人の区別はなかったんじゃないかと思いますね。
『石原吉郎句集』に補遺として、シベリア時代の句が四句ある。
ペンも紙も持てずに記憶していたカラガンダ時代の二句。
葱は佳しちちはは愁ふことなかれ
宥(なだ)めえぬ怒りやつひに夏日墜つ
ハバロフスク時代の二句。
囚徒われライラックより十歩隔つ
けさ開く芥あり確(しか)と見て通る
シベリア時代に身についたのかもしれない思考の方法について書いた文章がある。題は「私の部屋には机がない」だ。
私は机の前ではほとんど詩が書けない。詩ばかりでなく、自律的な思考は机の前ではすべて停止してしまう。それはたぶん、 長い期間労働しながらものを考えて来た名残りなのかもしれない。今でも私がものを考えるのは、ほとんどが歩行中である。
したがって、私にとって散歩とは、ものを考えるためにどうしても必要な一種の手つづきである。そして私が詩を書くのも、多くは屋外である。そのばあいでも、私はあまりメモをとらず、頭のなかで詩を書きあげる。一行書くごとに、忘れないようにそれを確かめてから、先へ進む。行きづまったら、また最初から出来上がった詩行を忘れないために、リズムは不可欠なものであり、そのためにも歩行は私に必要なものである。(10)
ペンも紙もなく、日本語で考え、俳句を作っていた。それも作業をしたり歩きながらやっていた。それも何年間も。そのリズム、習慣は血肉化されたのだろう。
2度めは雲俳句会での3年間だ。吉郎は詩の停滞の一方、定型である俳句の沼にどっぷり浸かり、句作し、俳句について考えた。その時期は、「帰って、もうだいぶん時間がたって、だいぶ詩を書き出して、俳句を書くようになったときにぶつかったのが塚本邦雄の短歌なんです。塚本邦雄の影響で書いたような句がいっぱいありますよ。」と中桐に言っている(12)。俳句での、重いテーマ、物語性と切断性、広がりなどを意識しながら、暗喩やイメージの展開、二物衝撃など実験的な俳句を作ったのだろう。
倉橋健一は吉郎の「俳句は結局は「かたわな」舌足らずの詩である。」という「定型についての覚書」の文を引用した上で、「納得」という詩(8)について、「この詩は全体を二行ないし三行に解体することが可能で、そうすれば水面下に隠れているか(、)た(、)わ(、)な(、)舌(、)足(、)ら(、)ず(、)が浮かびあがるはずであり、そこを往路とすれば、一篇の詩としての合成が環路となるはずである。/石原吉郎にとって俳句の体験は、シベリア体験にまさるともおとらないかけがえのない大きなものだったろう。詩法を獲得するための詩法そのものの喩の役割としても。」(20)と述べている。「納得」はH氏賞を受賞した『サンチョ・パンサの帰郷』の3番目の詩だ。
わかったな それが / 納得したということだ /
旗のようなもので / あるかもしれぬ /
おしつめた息のようなもので / あるかもしれぬ /
旗のようなものであるとき /
商人は風と / 峻別されるだろう /
おしつめた / 息のようなものであるときは /
ききとりうるかぎりの / 小さな声を待てばいいのだ /
あるいは樽のようなもので / あるかもしれぬ /
根拠のようなもので / あるかもしれぬ /
目をふいに下に向け / かたくなな顎を /
ゆっくりと落とす / 死が前にいても /
馬車が前にいても / 納得したと それは /
いうことだ / 革くさい理由をどさりと投げ /
老人は嗚咽し / 少年は放尿する /
うずくまるにせよ / 立ち去るにせよ /
ひげだらけの弁明は / それで終るのだ
このリズムと流れ、定型を感じないだろうか。
詩想を俳句で表現するという、定型に縛られるなかで、最大限の詩想を展開すること。定型が彼の詩法を整え、「トレーニング」して、吉郎を詩人石原吉郎にしたと言えるだろう。
「二(9)第二芸術論」における「俳句は一流の文学だ」とは吉郎の俳句界へのエールだろう。そうでなければ、自分の詩も文学ではなくなってしまうのであり、吉郎は俳句を愛し、俳句によって救われたのだから。
3度めは、死の前年の短歌だ。彼はシベリア抑留についてエッセイを書いたが、具体的に、理解されるように、伝達性を意識して書いた。散文は彼の過去をえぐり、傷を追体験させ、精神に悪影響を与えた。エッセイを書き出してからの吉郎のアルコール依存による心身の壊れ方は、粕谷栄市(21)、小柳玲子(22)などが書いている。粕谷栄市は次のように書いている。
石原さんがシベリアのエッセイを書いていた頃は、詩だけ書いていればいいのに、と思っていました。収容所体験を書くということは、もう一度そこに立ち戻ることですよね。決して幸福な経験ではありませんよ。エッセイは倫理的な要請によって書かれたもので、ほんとうはそういうのが嫌で詩を書き始めたのにね。今は少し考えが違いますが、自ら苦役を選んでいると当時は感じていました。「ロシナンテ」時代の自由で、無邪気な石原さんをよく知っていましたから、なおさらです。(21)
最期は自宅で入浴中に急性心不全で死去、翌日発見されたが、死ぬ前年の11月、出勤途中の新橋駅で倒れて73日入院した際に短歌を作った。中桐雅夫との対談で語っている。
去年、急性のアルコール中毒で病院に入って、書こうと思ったら、もちろん詩は書けない。散文も書けない。斎藤茂吉さんの息子さん(斎藤茂太氏)の病院に入ったんですが、あの人は短歌のわかる人ですからね。とにかく無気力な状態から抜け出そそうと思って、夢中になって三日間に二十五首書きました。全部短歌なんですよ。なぜあああいうときに短歌が書けるかと考えたら、形があるからなんですね。
入院している患者たちの様子を見て、現在の無気力な状態から抜け出すために何かを表現したいと思ったようだ。吉郎自身は次のように書いている。
一瞬にして自己、または他者の生命の切断すらをのぞむことが、最も安易な逃避であることを、私自身、誰よりもよく知っているつもりです。私自身、そのような逃避のあり方を、しばしば考えましたから。/ただ、逃避のあとで辛うじて私たちになお持続するもの、忘れようとしても忘れられないものに、どれ程私たちは執するか。/それを私は三日間、本能的に短歌でたしかめようとしたわけです。俳句による発想の瞬間的な決定、現代詩型による発想の無制限な拡散をおそれた理由は、おそらくそのあたりにあると思います。 (23)
短歌は、定型があり、五七五に七七があることで展開ができる。詩でよく使う同語反復も使いながら、すらすらと思いを述べることができる。別な言い方をすれば、俳句のような精神的な集中や緊張を強いる比喩、省略、飛躍などをせずに済む。短歌という定型によって無気力状態から一時的には抜け出ることができた。
歌集『北鎌倉』の標題紙裏の歌。
今生(こんじゃう)の水面(みなも)を垂りて相逢はず藤は他界を逆向きて立つ(24)
俳句で使った「蹼」を使った歌もある。
蹼の膜を啖いてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ(24)
同年、『詩の世界』に詩3篇、俳句3句、歌2首を寄せている(25)。俳句だけ挙げる。
打ちあげて華麗なものの降(くだ)りつぐ
死者ねむる眠らば繚乱たる真下
墓碑ひとつひとつの影もあざむかず
入院前に作った作品と思われるが、3句とも死がテーマのようで、身心共に疲労困憊していた様子が偲ばれる。3句目は中村草田男の「冬の水一枝の影も欺かず」を忘れて、記憶に残っていた「影も欺かず」を使ってしまったのだろうか。
(2)位置と断念
定型は吉郎を3度救った。1度めと3度めは人間としての、いわば実存の危機だったが、2度めは詩人としての停滞を救い飛躍させた。定型を作り、考えるなかで多くの技法を獲得したが、詩の内容、発想において、キーワードとしての「位置」と「断念」の獲得も非常に重要だった。そして、「位置」は「日常」の位置だ。吉郎は強制的に絶望的な日常に位置づけられた。そして、そのことを断念した。そのあたりの具体的な状況は『日常への強制』(7)が詳しいが、その考察の著作に現れている。
私にあって、位置とはまさに断念する地点であり、その姿勢はいまも私に持続しているといわざるをえない。(26)
私の詩が出発したときには、「位置」という発想が唐突にあって、その発想が私の詩にとって次第に決定的になって行った。
その延長線の上へ断念という発想が浮びあがって来たように私自身には思われます。 /
私が「位置」ということばについて考えるのは、自分自身がそこにいるよりほかどうしようもないという位置であって、多分それは私自身、軍隊とシベリアに拘禁されつづけて来た体験がその背後にあると思います。 /
つまり自分はそこにいるよりほか、どうしようもなかったという、その位置です。 (27)
ただ、私にとってかろうじていえることは、私がかつて「ある位置」にいたということは、同時に、他の位置をえらぶことを断念したということではないのか。(27)
人間が自由に他の位置をえらびとることができないという状況は、戦争と強制収容という状況を通ってきた私には、今もなお痛切な問題であり、その痛切さが断念という発想を生んだのだと今にして思うわけです。 (27)
その文章のあとの方には次の文がある。
私は私以外のものであることを断念することによって、まぎれもない私として、今この場に存在している。 / その人がもし、その人自身であることを断念できない時、その人はどうすればいいのか。これは容易に自殺論に展開するおそれがあるので、これ以上は触れません。(27)
「位置」はシベリア抑留時代の、監禁されて逃げることのできない、何の選択もできない、重労働のためにのみ生かされている位置であり、日本に戻ってからも、いつでも何度でも戻されてしまう記憶の場所だ。精神の牢獄と言ってもいい。
また、「北」「北方」は「位置」についての具体的な表現である。
「位置」については二(2)で掲出した「位置」という詩があり、詩集『禮節』の詩「音楽」の1節には「あからんで行くことで/りんごの位置をただしくきめるのは/音楽だ」がある(28)。
詩集『水準原点』の詩「水準原点」は次のような詩だ。
みなもとにあって 水は /
まさにそのかたちに集約する /
そのかたちにあって / まさに物質をただすために /
水であるすべてを / その位置へ集約するまぎれもない /
高さで そこが / あるならば /
みなもとはふたたび / 北へ求めねばならぬ /
(空白行) / 北方水準原点 (29)
この「位置」という言葉はアフォリズムにもある。
私は告発しない。ただ自分の<位置>に立つ。(7)
位置の確認とはまったくの測量である。それはまちがいなく<技術>である。 (10)
自己の、自己へのかかわり方。それが位置である。マッスのなかでの自己測定ではない。自己が、自己に対してどれだけずれるか。それが位置なのだ。(10)
歌にもある。
石膏のごとくあらずばこの地上になんぢの位置はつひにあらざる
遠景はとほきにありて北を呼ぶ 北よりとほき北ありやさらに(24)
俳句においては「位置」という言葉を入れた句はない。作句主体の視点が位置だ。それはシベリアまたは心のシベリアの位置だ。
ジャムのごと背に夕焼けをなすらるる
懲罰を待つや冬帽子傾けて
位置に対して断念ができているか、あるいは、その位置は断念を伴って得られた位置であるか、吉郎は常に自問していた。
冬木立はじめにあれが敵となる
われおもふゆえ十字架と葱坊主
逆吊りに売らるる鮟鱇カミュ氏死す
耐えがたい断念を耐えきることによって、生き延びることはできた。しかし、傷に塩を塗るようにその断念を思い出しエッセイを書くことによって、それに耐えかねてアルコール量を増やし、自分を壊していった。句集『禮節』の一番目の詩は「断念」だ。
この日 馬は / 蹄鉄を終る /
あるいは蹄鉄が馬を。 /
馬がさらに馬であり / 蹄鉄が /
もはや蹄鉄であるために /
瞬間を断念において / 手なづけるために /
馬は脚をあげる / 蹄鉄は砂上にのこる (28)
五 結語
吉郎は3度、定型に救われた。彼の文学は生と文学の根源的な関係を示している。
言葉や文章は通常、意識の、理性的なフィールドで作られるが、実際は、意識の底の、記憶や感情、欲動など、非理性的なフィールドの密接な関連、影響があるのではないだろうか。それは意識にとっては非‐知の部分、言語野の基幹の肉体的な部分とでも言えようか。叫び、嘆き、怒り、さらには笑いなどの感情表現やそこにおける言葉は意識の理性的な部分を濾過せずにそこから直接発現してしまったものではないだろうか。言葉や文章は、意識で作っていながら、意識していない、さらには意識しえぬものが基底にあるのではないだろうか。翻ってみれば、どんなに知的で理性的な人でもそうでないフィールドのしがらみを受けているのではないだろうか。別な面から言えば、理性的な文章でさえ、意識下や非理性的な、いわば、生理的な、肉体に近いフィールドの影響を受けているのではないか。
そして、詩とは意識と意識下、理性と非理性を行き来し、あるいは通底したものを呼び覚ましつつ、世界や人間や実存を詠う文学ではないか。さらに、定型はそのための重要な道具であり、容器ではないか。とくに、17音の俳句には比喩、象徴に加えて取合せという魔術的な表現法がある。そのことによって、吉郎のいう重み、広さ、切断などが可能なのではないか。
AIの出現と活用によって人間の、人としての価値、尊厳が揺らいでいるように見える現在、人はなぜ生きるのか、生きられるのか、そこで果たす文学の役割、とくに定型の役割ということを考えるために、石原吉郎の文学と定型論は重要ではないだろうか。
2024年は『石原吉郎句集』が出版されて50周年、出版をした齋藤愼爾は2023年に亡くなっている。吉郎の俳句や俳論は現代なお、吟味する意義があるのではないか。
〔注〕
1 斎藤の表記は現在「斎藤慎爾」であるが、句集奥付の発行者名は「(・)斎(・)藤慎爾」となっている。
2 『石原吉郎句集‐附俳句評論‐』 深夜叢書社 1974年 *掲句は四(1)の最後の3句を除き、すべて本書。 『石原吉郎全集』第三巻に収載。
3 現代俳句協会ホームページ 「読む・学ぶ」内「現代俳句コラム」2012年
5月1日
4 『石原吉郎全集』第一巻 花神社 1980年 「斧の思想」内「月が沈む」 *詩集「斧の思想」は第三詩集にあたるが、出版はされていない。『現代詩文庫26石原吉郎詩集』(思潮社 1969年)に「未完詩篇から」として掲載されている。
5 ブログ『批評と俳句:井口時男の方丈の一室』2012年4月~
6 『石原吉郎全集』第三巻 花神社 1980年 「自編年譜」
7 『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年 「日常への強制」 (『日常への強制』構造社1970年)
8 『石原吉郎全集』第一巻 花神社 1980年 「サンチョ・パンサの帰郷」(『サンチョ・パンサの帰郷』思潮社 1963年)
9 『証言と抒情――詩人石原吉郎と私たち』 野村喜和夫著 白水社 2015年
10 『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年 「海を流れる河」(『海を流れる河』花神社1974年)
11『岸辺のない海 石原吉郎ノート』 郷原宏著 未来社 2019年
12『雲』1958年10月号 斎藤有思著「俳諧抑留記(3)」
13『石原吉郎全集』第三巻 花神社 1980年 「一期一会の海」内「俳句と青春」中桐雅夫との対談(『一期一会の海』日本基督教団出版局 1978年)
14「定型についての覚書」は初出は『雲』昭和35年10月号で題名は「定型についてのおぼえがき」。著者名は「石原せいじ」だった。また、「定型についての覚書」は本句集(1974年3月刊)のほかに、次の3冊に収録されている。
・『海を流れる河』 花神社 1974年(11月刊) 句集の俳論3篇 が収録
・『一期一会の海』日本基督教出版局 1974年8月刊
・『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年3月刊 『海を流れる河』
所収として収録されている。
15『雲』昭和35年1月号 雲俳句社 1960年
16『石原吉郎全集』第三巻 「作品評について」 *『石原吉郎句集』には
収載されていない。初出は『雲』昭和34年10月号
17『石原吉郎全集』第一巻 花神社 1980年 「水準原点」内「測(お)錘(もり)」
(『水準原点』 サンリオ出版 1972年)
18『石原吉郎‐現代詩読本2‐』 思潮社 1978年 「物語の可能性と沈黙
の詩‐石原吉郎の俳句と短歌‐」佐佐木幸綱著
19『石原吉郎‐現代詩読本2‐』 思潮社 1978年 「詩の象徴性と生存感覚‐〈断念〉と〈拒絶〉の構造」 対談:鮎川信夫、谷川俊太郎、清水昶
20『現代詩手帖』 40巻3号 思潮社 1997年 「石原吉郎と俳句定型」 倉橋健一著
21『現代詩手帖』2015年11月号 思潮社 2015年 「『ロシナンテ』以後の生きざま」粕谷栄市著 *本号の特集Ⅰは「石原吉郎の100年」である。
22『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』 小柳玲子著 詩学社 2004年
23『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年 「一期一会の海」内「短詩形文学と私」 (『一期一会の海』 日本基督教出版局 1978年)
24『石原吉郎全集』第三巻 花神社 1980年 「北鎌倉」 (『北鎌倉』花神社 1978年)
25『詩の世界』第5号 詩の世界社 1976年
*歌は『北鎌倉』に収載されているが、詩、句は全集にも収載なし。
26『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年 「断念の海から」 (『断念の海から』日本基督教団出版局1976年)
27『石原吉郎全集』第二巻 花神社 1980年 「一期一会の海」の「断念の詩」 (『一期一会の海』 日本基督教出版局 1974年)
28『石原吉郎全集』第一巻 花神社 1980年 句集「禮節」内「礼節」
(『禮説』サンリオ出版1974年)
29『石原吉郎全集』第一巻 花神社 1980年 句集「水準原点」内「水準原点」 (『水準原点』サンリオ出版 1972年)
〔注以外の参考文献〕
『コレクション 戦後詩誌 第11巻 シベリアからの帰還』野坂昭雄編 和田博文監修 ゆまに書房 2018年 *『ロシナンテ』第1~20号(1955年~1959年)、『ペリカン』第1~15号(1961~1971年)
『石原吉郎』 清水昶著 国文社 1975年
『俳句』第27巻第7号 角川書店 1978年 「石原吉郎の詩と俳句」 中桐雅夫著
『現代詩手帖』第22巻第1号 1979年 「偶然こそ必然」 内村剛介著
『ユリイカ』第10巻第10号 青土社 1978年 「石原吉郎の晩年」 渡辺石夫著
『ユリイカ』第11巻第5号 青土社 1979年 「石原吉郎と短詩型文学」 渡辺石夫著
『石原吉郎のシベリア』 落合東朗著 論創社 1999年
『戦後詩史論』 吉本隆明著 思潮社 2005年
『石原吉郎の詩の世界』 安西均編著 教文館 1981年
『失語と断念‐石原吉郎論‐』 内村剛介著 思潮社 1979年
『現代詩読本2 石原吉郎』 思潮社 1978年
『俳句礼賛』 中村苑子著 富士見書房 2001年
『戦後詩のポエティクス 1935-1959』 和田博文編著 世界思想社 2009年
『石原吉郎 詩文学の核心』 柴崎聡著 新教出版社 2011年
『石原吉郎―寂滅の人』 勢古浩爾著 言視社 2013年
『「断念」の系譜―近代日本文学への一視角』 太田哲男著 影書房 2014年
『パウル・ツェランと石原吉郎』 冨岡悦子著 みすず書房 2014年
『他者のトポロジー』 岩野卓司編 書肆心水 2014年 「石原吉郎の詩における他者のトポロジー」 斉藤毅著
『現代詩手帖』第58巻第11号 特集Ⅰ:石原吉郎の一〇〇年 思潮社 2015年
『石原吉郎‐シベリア抑留詩人の生と詩‐』細見和之著 中央公論新社 2015年
『証言と抒情―詩人石原吉郎と私たち』 野村喜和夫著 白水社 2015年
『びーぐる』28号 澪標(大阪市) 2015年 特集:石原吉郎と戦後詩の未来
『石原吉郎コレクション』 石原吉郎著 柴崎聡編 岩波書店 2016年(岩波現代文庫)
『石原吉郎の位置』 新木安利著 海鳥社(福岡市) 2018年
『シベリア抑留者への鎮魂歌』 富田武著 人文書院 2019年『岡井隆の忘れもの』 岡井隆著 書肆侃侃房 2022年
『極限状況を刻む俳句‐ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ‐』大関博美著 コールサック社 2023年
ブログ『清水麟造ホームページ』清水麟造著 対話「石原吉郎 没後四年」渡辺石夫との対話 1999年アップロード *雑誌『毒草』1981年掲載
四元康祐note 「三つの石原吉郎像:細見和之、野村喜和夫、三宅勇介」その1,2,3 2017年
ブログ『KAZUO NAKAJIMA 間奏』 中島一夫著 「遅すぎる、早すぎる―小柳玲子と石原吉郎 1~9」 2023年
【今の思い・今後の抱負】
石川夏山
大学生の頃、現代詩に熱中して石原吉郎の詩も読みましたが、『石原吉郎句集』はわかりませんでした。しかし、定年前に俳句をはじめ、現代俳句を志向するようになって再読すると、句も理解もでき、俳句論は参考になりました。石原吉郎はペンも紙も持つことが許されないシベリア流刑時(ソ連の法廷で懲役二五年の判決)に俳句を詠み、持ち帰りました。定型だから記憶できたのでしょう。復員後、詩を書くようになりますが、結社に入って句作を再開してから、彼の詩は変わり、H氏賞を受賞し、独自の表現を手にいれました。
私は大学時代の三年間、古書店(一部新刊も)でアルバイトをしましたが、『石原吉郎句集』はそこで求めました。同書を刊行した深夜叢書社主宰の齋藤愼爾は一九五九年、二十歳で秋元不死男主宰『氷海』の氷海賞を受賞した翌年から二十年間、俳句を発表していません。同じ頃に吉郎は結社で俳句や俳句評論を発表しました。齋藤愼爾が一九七四年、十年以上前に発表されたそれらを出版したのはよほどの思いがあったのでしょう。その頃に週刊誌で紹介された齋藤の繊細ながら意志の強そうな、そして禁欲的な姿が忘れられません。
青春を思い出しながら書いていくと文字数を越え、削るのは大変でした。削るのは自分の文章で、吉郎の文と先行論者の引用とそれらの構成で、自分の論旨を表現できると考えました。吉郎の俳句と俳句評論を読み、俳句の力を考えていただけたら幸いです。
【プロフィール ‑俳歴‑ 】
二〇一四年三月 室戸句会(~二○一六年三月)
二〇一五年一月 天為俳句会(~二〇一九年一二月)
二〇一八年一月 現代俳句協会会員(~現在)
二〇一八年一二月 麦の会会員(~現在)
二〇二一年七月 楽園俳句会会員(~現在)
二〇二三年七月 現代俳句評論賞 佳作