五十嵐研三 百二年間の求道の姿
~四つの句集の「あとがき」と第二句集「三瀬谷村」の一句から~    

森田高司

三 一句からの求道の姿 ~第二句集「三瀬谷村」~
 第二句集「三瀬谷村」は、四百八十句、昭和四十二年(四十九歳)から平成四年(七十四歳)までの句が納められ、表紙絵・扉絵は、武馬竜生が描いている。

 以後を西日に適う首筋そろえて歩く
 もっと薪割ると弟も学帽脱ぐ

 四十九歳の句。一句目、以後という漠然とした表現から読み手を作品世界に引き込んでいく。「首筋そろえて」ということから、何か集まりがあり、その帰り道なのだろうか。「適う」が、句の核となって句の全景をだんだんと明らかにし、想起させていく句である。
 だからこそ、二句目の「もっと」が、句全体に広がりをもたせるなかで、「も」と共鳴してリズムや切れ字的な効果を派生させている。

 よくみえる切り株に置く父の飯

 五十二歳の句。上五がひらがな表記で始まる。ひらがなの持つ語感や質感を巧みにとらえている。作者が、きょろきょろ辺りを見回す姿が、ひらがなの読み方しだいで、様々に浮かび上がってくる。そして、どこに置くのか迷ったりしながら、大事な預かりもの、また作った人のことや父のことを頭に過ぎりながら、「この切り株だ」と安堵して、置いたのであろう。睦まじい家族の姿もみえてくる。

 眼鏡拭くあいだも見ゆる曼珠沙華
 ガラスにすぐにうつりばんざいの手もくらし

 六十一歳の句。「あいだも見ゆる」のわずかな間、それも動作を伴っている間の景である。一瞬逃さずに捉えた仲秋の景である。
二句目も一瞬か。そして、「ばんざい」のさりげない表記、集まったひとの高く挙げられた手が「くらし」。やはり、ひらがなの持つ本質的な語感と質感がある。また、「くらし」を読み手がどう受け取り、句の全体をどう立ち上がらせるのかが問われている句でもある。

  味方のように個室の壁の白濁色
  味方さながら白菜断面渦巻く夜

 一句目六十一歳、二句目七十二歳の句。「味方」からの句である。味方がいるということは、どこかに敵がいるのかもしれない。「個室の壁」が白濁している。病室であればこれまで入院していた人の様々な足跡として自分自身の内に引き寄せ、見つめたのではないか。「白菜断面」が渦巻くとは、それも夜である。一瞬にして市井の暮らしそのものが、立ち上がってきたようだ。心象風景が白に触発されて、彼の内面がざらりと動いた句のような気がしてならない。

 寒鯉の腹見えざるはみせぬなり
 見えるところをみよとうごかぬ寒の鯉

 六十三歳・六十九歳の句。
 二つの句も、ひらがな表記が躍動している。「見えざる」「見えるところ」と「みせぬ」「みよ」の使い分けが妙味である。特に、二句目は、ひらがなであることで、誰に向かって言っているのか、禅問答の様をおびて迫ってくる句である。

 八月六日九日十五日共残業す
 八月六日の真昼うごかぬあらゆる墓
 ただいま空っぽ原爆記念館前のバス
 六十七歳(一句目)・七十一歳の句。

 「共残業」「あらゆる墓」「空っぽ」が強烈に迫ってくる。忘れてはならぬことは、ならぬのだと。うごかぬあらゆる墓のためにも。

 枯野に杭を打つことだけに雇わるる
 枯野歩くに水平に棒持ち直す
 七十歳・七十二歳の句。

 「枯野」とは、何ぞや。「杭」「棒」とは。一句目の「だけに」が胸に突き刺さる思いがするのは、私だけだろうか。「持ち直す」それも「水平」だ。日常の生活のなかで、染みついてしまう、みえないものと向き合っているからこそ、自分は自分でありたいという本心が伝わってくる句だ。

 戦艦ゆくときもうごかぬ青野に居る
 共通の椅子に腰掛け青野に居る
 青野に坐り握り飯ほか椅子に載す
 七十一歳・七十二歳・七十三歳の句。 「青野」とは、五十嵐研三の心のなかで、確固たる居場所をしめる原風景なのであろう。 だとしたら、戦艦に対して「うごかぬ」と表現し、自分自身の態度を表明しているのだ。 「共通の椅子」「共通」とは。誰もが老若男女皆が使う、何でもない椅子だが、必要とされる大事な椅子。椅子は何者か。
 三句目、上天気のなか、大自然の山裾での作業の姿であり、生き生きと活気ある表情が迫ってくる句である。

 刈田の陰を子はとび父はまたまたぐ
 畦走る火の根死なざる兵のように
 刈田の同じ畦ゆく一人ひとりかな
 すぐそこの凶作田から暮れはじむ
 幾重にもわが村を堰く冬田畦

 五十五歳・六十歳・六十九歳・七十歳・七十二歳の句。
 刈田や畦など米作りに関わる句は、五十嵐研三が、目の当たりにしてきた、体に染み込んでしまった村の原風景から起因している。 彼の目の前に現れる事象は、彼の視座に入り、心身を通過することで咀嚼されて俳句という表現形式になっていく。が、その通過していく際に、彼独特の感性の棘がピクピクと刺激し合っている。これが、句に分かりやすい景とともに、その背後に存在する人間の暮らしにまで辿りつかせるのだ。そんなふうにして、再び一句となってあらわれているのだと受け止めている。
 だとすれば、二句目の「火の根」が「死なざる兵」と表現されることこそが、五十嵐研三たる所以であり、確固たる日々の営みがあってこそ、人であり暮らしであり、俳句が生まれてくる源泉なのだと黙示されているような気がしてならないのだ。
 また、「火の根」は、風を味方につけて自由自在に動き、その端の火力の勢いも多様だ。その様はまるで、人間の生き様のようで、その一つ一つの根が意思を持っているかのようでもある。正しく「死なざる兵」であろう。
 四句目。農村のよく見かける風景である。が、彼は、「すぐそこの」の上五を大事にしたかったのではないか。有り触れた、見慣れてしまった景のなかで、何か妙な違和感や疑問を常々抱いていたのだろうか。当然のようにして、一日の仕事を終え安堵のなかで暮れはじめる時、そのことが俳句表現となって浮かび上がってきたのではないだろうか。「すぐ」が極めて日常の生活感覚であり、村や米づくりに関わる人に寄り添う句となっている。

 空母去らねば植田の畦に烏置く
 紅葉山からやむなくわれら空母指す
 障子閉ざさば空母もただにゆくほかなし 空母おるとき足上げ冬田畦またぐ
 顎引いて睡り空母を消す嬰児

 六十歳・六十四歳・六十五歳(二句)六十六歳の句。
 「空母」に関する五句。
 空母とは、五十嵐研三にとって敵なのか味方なのか。戦を象徴するものとして、巨大で多目的で戦う時の絶対的な存在となるものが「空母」。ひょっとすると、絶えず彼の意識の対極にあるものとして「空母」があったのではないか。「要らないよ」の声が聞こえてくる。
 二句目。「やむなくわれら」この中七は、やむなくとわれらの二つの文節からなり、自分の意思ではどうにもならない様と紅葉山を愛でている「われら」がそうせざるを得ない様の内面の波風がみえる。「空母」、大きな力のあるものに対峙する時、日常の暮らしは、ゆがみを生じつつ、のしかかってくる。だからこそ、日々の暮らしのなかにある人間の関係の豊かさこそが、対峙するものと出会った時に、生きてくるのだという示唆を感じさせる句だ。
 五句目。この句では、「嬰児」に注目したい。睡っている、母に抱かれ熟睡する微笑ましい姿。周りの人達も和やか。新しい命が誕生し、家族みんなで第一歩を踏み出していこうという風景が、「空母を消す」のである。 人間の原点は、脈々と続いてきた命のつながりであり、そこから生まれる様々な感情の蓄積でもあろう。改めて「消す」ことができるのは、それを生み出した人間であり、自分達しかいないのだということを再確認させられる句である。

四 求道し続けた五十嵐研三の心底にふれる
 五十嵐研三と俳句との出会いは、昭和十三年頃嶋田青峰の「土上」であり、当時最も前衛的な排誌のひとつに投句することで始まっている。
 三十代で日野草城に認められて、「自分は自分の句を書きなさい」と背中を押され「青玄」の同人へと、革新的な俳句の動きに身を置いてきている。第一句集までの歩みは、いぶし銀そのものであろう。
 「北窪村」から、三句を取り上げ心底にふれてみたい。

 首のあたりでばんざいの声を小さくする
 木の間ゆく霧ふかければ木を掴み
 飯食べてから木の家の木が冷える

 一句目。彼の三弟は、戦争で亡くなっている。きっと様々な思いと出来事あり、やむなくそうせざるを得ないことにも直面したことであろう。五十嵐研三の奥底には、戦争という風に吹き付けられた、逆むけのようなものがあったのだろう。
 「首のあたりで」は、「命のあたりで」とみえてくる。自分で考え判断するための脳を支える首。そこで「声を小さくする」、自分が自分であることを確かめるために。 彼は、はっきりと戦争に対して自分の立場を表明しているのだ。
 二句目。霧とは彼の心の中かもしれない。ぼやっとしてみえる、目を凝らしてもみえにくい、かれはそんな歩みに出会っているのかもしれない。霧という実景は、心理状況と重なっていくのであろう。だから、「木を掴み」であり、木は人間なのだ。
 三句目。そのままの何処にでもある景である。が、「木の家」「木が冷える」のリフレインの効果。家は生活の基礎であり、木がそうなってくれている。飯を食べる前は、自分自身も冷たかったのである。飯を食べるという行為が、いかに多くのことで成り立っているのか、支えられているのか。「そうさせてくれているものたち」への敬愛、洞察力に瞠目せざるを得ない句だ。

五 おわりに
 五十嵐研三は、令和三年三月十一日に百二歳で鬼籍に入った。
 彼は、その直前まで、「ていすい」・「伊勢俳談会」への投句を続けていた。このことは、飽くなき俳句づくりに対する求道の姿勢の顕示であった。
 この姿こそが、「村」を出発点として自身の俳句を開拓し、一歩一歩掘り起こしを積み重ね、彼自身の村づくりをめざした姿であったと受け止めたい。人間の体温をこめた一句は、彼独特の視座であり、輝きを放っている。 ひたむきに自分の句の世界の実現をめざした慧眼さに、圧倒されるばかりである。深謝。
 辞世の句を紹介し最後のことばとしたい。

 塀を越えひそかに終わろうさくらの夜
                

【参考資料】
・「北窪村」五十嵐研三第一句集青玄俳句会
・「三瀬谷村」五十嵐研三第二句集橋の会 
・「櫛田村」五十嵐研三第三句集北窪文庫 
・「中郷村」五十嵐研三第四句集北窪文庫 
・五十嵐研三句集戦後俳句作家シリーズ二十九「海程」戦後俳句の会 
・「ていすい」合同句集二十六集松阪市「ていすい」俳句会