新作現代俳句十句とその鑑賞
加藤法子
日傘の柄
縛られて捕虫網の夏終る
民宿の奥まで見えて鱗雲
釣忍耳さだかともかすかとも
すず虫や母亡き後の父の肩
相性の隙間におかる水羊羹
A面の空軽やかなねぶの花
菜殻火や夕日を連れて海へ落つ
慟哭をたどれば八月十五日
八月の書き残すこと書き直す
呼び止めて欲しいと言えぬ日傘の柄
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百字鑑賞
加藤法子「日傘の柄」鑑賞
大井恒行
縛られて捕虫網の夏終る
大人はほとんど捕虫網を使わない。子どもや孫の夏休みの遊びに付き合うくらいのものだ。その補虫網が縛れて立てかけられているのだ。昨今の猛暑のなかであっても、こうした光景に出会うと、夏の過ぎ去るに、感懐をふと感じてしまうのだ。
民宿の奥まで見えて鱗雲
作者は、民宿の庭先にでもいるのだろう。廊下の奥の部屋の暗さに眼差しを凝らしているが、眼差しを転じて見上げると鰯雲。明暗があるが座五の「鰯雲」はあくまで明るい。そこは、同じ鰯雲でも、加藤楸邨「鰯雲人に告ぐべくことならず」とは趣が違う。
釣忍耳さだかともかすかとも
上五「釣忍」で切れる。下句のフレーズ「耳さだかともかすかとも」は作者の感懐。季語+感懐の、俳句作法の典型的な作りといえよう。下句は作者の不安感をあらわしている。中空の釣忍は喩的なアナロジーとしても眼前にあるのだ。
すず虫や母亡き後の父の肩
父はもともと文芸の上では悲しい存在である。下句「母亡き後の父の肩」とくればその寂しさや悲しさは、いや増す。加えて、鈴虫のリーンリーンと鳴くさまは哀愁を誘う。この「や」は切れ字だが、じつは切れてつながる「や」で、「の」の感触もなしとはしない。
相性の隙間におかる水羊羹
「相性の隙間」とは、微妙である。その味わいに水羊羹とは…、なかなかだ。冷たいうちに口に入れれば、なにはともあれ、美味い。
A面の空軽やかなねぶの花
黛まどか『B面の夏』ならぬ「A面の空」という。A面の空とは、いささか強引な断定。少なくとも雨空ではないだろう。青空か。それは「軽やかな」の措辞が裏付けてくれる。紅の刷毛を想像させる合歓の花なら軽さの感触もある。とはいえ、合歓の花ゆえ、夕暮れまでの時間を思わざるを得ない。取り合わせの妙というべきだろう。
菜殻火や夕日を連れて海へ落つ
ある意味で菜殻火と夕日は見立ての範疇。いずれも火の色を思わせるが、暮れがそこまで来ている。黒田杏子に「減反の小佐渡にひとり菜種刈」があるが、この句、海の近くの菜種畑での光景であろうか。海に入る夕日、とりわけ日本海の夕日なら、なお美しい。
慟哭をたどれば八月十五日
八月は、多くの日本人にとって特別な月。それでも七十九年も経てば、慟哭に満ちていた日でさえ、意識的にたどらなければ、それを思うことが、稀れになってくるものだ。
八月の書き残すこと書き直す
この句も、前句の八月十五日にまつわる句。どのようなことを書き残すのか、じつに複雑だ。書き直さねばならないあれこれが生じている。三橋敏雄は「あやまちは繰り返します秋の暮」と詠んだが、もとより、繰り返して欲しくないという願いがこもっている。
呼び止めて欲しいと言えぬ日傘の柄
今年の夏、ボクは日傘男子の仲間入りをした。「呼び止めて欲しいと言えぬ」などいう、ひそやかな奥ゆかしい気持ちはボクには無縁。昔日の映画のシーンだったら、こうしたシーンに出会えるだろう。たぶん白日傘の麗人にちがいない。