連載 横山白虹と松本清張 第一回
――「眼の壁」「巻頭句の女」「時間の習俗」の俳句を中心に

小野芳美


1953 年 1 月 清張の芥川賞受賞祝賀会

挨拶をしているのが清張、右隣が白虹
=北九州市立松本清張記念館提供の写真を一部拡大=

一.横山白虹と松本清張

 戦後を代表する作家・松本清張(1909―92年)は、北九州・小倉で、尋常高等小学校を卒業後、十五歳で就職する。少年期から読書を好みはしたが、進学や文筆業を夢見られる環境にはなく、給仕、印刷画工、のちに朝日新聞広告部の社員として、働きづめの日々を送る。1950年、初めて書いた小説「西郷札」が懸賞企画に入選、翌年、直木賞候補となる。1953年「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞、同年上京する。56年に会社員を辞め専業作家となる。58年、「点と線」「眼の壁」がベストセラーになり、以降人気作家として第一線を走り続ける。作家という肩書きは82年の生涯の後半生の約40年間のみだが、作品は短いものも含めると約1000編に及び、執筆原稿は枚数にして約12万枚を超える。

 東京生まれの横山白虹(1899―1983年)は、本名健夫。祖父・横山幾太(1841―1906年)は松下村塾に学び、維新後、山口県で大津郡長などを歴任した。父・横山健堂(1872―1943年)は、ジャーナリスト・評論家として知られた。

 府立一高から九州帝国大学医学部に進学。勤務医を経て、34年、小倉市に外科医院を開設する。のち医業を離れ、小倉市市議会議員になり、全国市議会議長会副会長などを歴任。北九州市発足(1963年)後は、北九州文化連盟会長なども務め文化振興に尽力した。

 府立一高第三学部(医科)在学中、陸上競技に打ち込むかたわら、詩作にも熱中。川路虹行の「現代詩歌」に参加、また「一高詩会」を創立した。大学在学中に句会に参加するようになり、25年「九大俳句会」を発足。27年「天の川」、33年「傘火」に参加。三七年「自鳴鐘(とけい)」を主宰発行。48年に「自鳴鐘(じめいしょう)」として復刊。親しみやすい人柄で知られ、後進の指導にも積極的に取り組んだ。現代俳句協会には47年の設立当初より参加し、73年には第二代の会長に就任、亡くなるまで六期務めた。句集に『海堡』『空港』『旅程』などがあり、

  ラガー等のそのかちうたのみじかけれ

  よろけやみあの世の螢手にともす

 といった数々の句で知られる。

 白虹と清張の交流は今日あまり知られていない。ふたりの縁は、1938年頃、白虹が清張の盲腸の手術を担当したことにはじまる。清張はこじらせて腹膜炎を併発していたが、白虹の手術・処置で快癒する。

 再会は、清張の芥川賞受賞祝賀会(53年1月)である。北九州の文化人のひとりとして発起人に名を連ねた白虹に、清張は手術の礼を述べる。白虹は15年前のいち患者にすぎない清張を覚えてはいなかったが、友人や文学関係者が集った写真では清張の隣に白虹が並んでいる。

 これに先立つ52年11月、小倉郷土会は森鷗外の長男・森於菟を招く。於菟を囲んだ懇親会の写真に、同年9月に「或る『小倉日記』伝」を発表していた清張も、白虹とともに収まっているが、この時は互いを記憶していないのか、印象は二人とも語ってはいない。

 清張は芥川賞受賞後、俳人・杉田久女(1890-1946年)を主人公のモデルにした「菊枕」を発表する(原題「菊枕 ぬい女略歴」、1953年8月)。執筆に先立ち、白虹をはじめ、横山房子や丸橋静子ら、生前の久女を知る人物に取材を行った。奈良に住んでいた橋本多佳子(1899―1963年)にも白虹の紹介を得て初めて面会する。

 白虹は「菊枕」発表に先立つ五月、「自鳴鐘」復刊記念五周年大会に清張を招いた。同人のひとりは緊張した初々しい様子の清張を記憶している。

 12月に清張が東京に拠点を移してからも交流は続く。白虹は俳人として、また、議員や各界の代表として頻繁に上京するが、ともに多忙な予定の合間を縫って会食をともにしていた。白虹は橋本多佳子や西東三鬼ら俳人や、文化人の集まる場に清張をよく招いた。清張も白虹やその家族に宴席を設けた。白虹が小倉で開催した俳句大会に、清張は日帰りで講演を行ったこともある。「自鳴鐘」には、清張が寄稿した小文のほか、近況を示す短文や俳句が紹介されたこともあり、親しくつきあっていたことが垣間見える。

 本稿は、松本清張の小説「眼の壁」「巻頭句の女」「時間の習俗」への横山白虹の協力および影響について考察するもの。なお、「松本清張研究」25号(2024年3月)に発表した同タイトルの論考を再構成した。

(おの よしみ・北九州市立松本清張記念館学芸員)