2021年新年特別企画<新春俳句&漢俳大会抜粋(上)

王小燕

2021年の新春特別企画です。司会は王小燕、ゲストは、中日友好协会理事・漢俳学会会长の劉徳有先生と日本語月刊誌「人民中国」の王衆一編集長です。

■中日文化交流における「漢俳」&お二人の俳句/漢俳との出会い
●王小燕:劉先生、そもそも、漢俳がいつ、どこで誕生しましたか。
●劉徳有:1980年、大野林火氏を団長とする日本の俳人訪中団が北京を訪れました。その時、北海公園の仿膳レストランにて開かれた歓迎会の席上、当時の中国仏教協会の趙撲初会長が次の句を詠まれました。
 【緑陰今雨来 山花枝接海花開 和風起漢俳】
 (緑陰 今雨来り 山花の枝 海花に接して開く 和風 漢俳を起す)
 五七五の形で中国語の漢字で書かれたこの句は、後に漢俳の誕生を意味する句とされています。ちなみに、「今雨」とは「新しい友人」を意味する中国語です。
●王小燕:劉先生と王編集長はいつ頃から俳句や漢俳と出会いましたか。
●劉徳有:私はスタートが遅くて、漢俳の誕生から10年後に書き始めました。それまでは、いろいろ読んで楽しみ、先輩の驥尾に付して、真似事ですが、時々試みに自分でも書いていました。
1994年、女流詩人、女流書道家・林岫(りんしゅう)さんが『漢俳首選集』を編纂されるというので、日本文学研究者の李芒(りぼう)氏の推薦で、初めて正式に漢俳を作って投稿しました。その意味でいえば、林岫と李芒の両氏は私の漢俳の先生です。
 私が作った最初漢俳は「初雪」です。
 霏々降初雪    霏々と降る初雪
 欣喜推窓伸手接  嬉しさのあまり 窓から手を伸ばせば
 晶瑩掌中滅    手のひらのきらめく雪が 消えてゆく
 実は、はじめは「初雪や窓からそっと手を伸ばし」という俳句を作り、それを漢俳に直したというのが真相です。後に、時の現代俳句協会副会長・小宅容義(こやけ・ようぎ)氏がこの句を「省略の文学といわれる」俳句にしました。
 【初雪やいく粒消ゆるたなごころ】(小宅容義)
●王衆一:私は遊び心から始めました。今から35年前、私はまだ大学生だった時に、吉林大学の日本文学の授業に先生が俳句を紹介しますと、すぐそれに魅了され、五七五と自分の名前王衆一(おうしゅういち)を混じって一句を作ってみました。
 【モンブラン高くそびえて欧州一】
 当時ダジャレが分かったように自慢していたが、今考えてみれば季語もうないこの句は、せいぜい川柳に過ぎないと分かりました(笑)。本当に俳句と漢俳の世界に踏み入れたのは、やっぱり人民中国に入社してから色々な読者に接したり、特に劉徳有先生の指導を受けたりしてからのことです。
 十数年前から仕事で訪日する際、四季折々の景色に魅了されて俳句を作り始めました。その後、中国各地で取材する時、山や川や町の美しさに感銘して、かつて李白、白楽天たちが謳歌したところを、俳句や漢俳の形で詠んでみました。
 先日、久しぶりに仕事でくいの杭州に行ってきました。朝のもやに見え隠れする西湖を見て、【水墨で綴る初冬の西湖かな】を咏み出しました。それを漢俳風に表現しますと、
【西湖入初冬,百态尽没晨霭中,如画水墨浓】となりますが、どちらかというとやっぱり漢詩の雰囲気ですね。

■俳句の中国伝来&郭沫若先生にまつわる思い出話
●王小燕――漢俳が中国で誕生する前に、そもそも俳句が中国に伝わってきた歴史があるかと思いますが……
●劉徳有:中国にはもともと日本のような俳句はありませんでした。最初に日本語で俳句を作った中国人は明末清初の禅僧・東臯心越(とうこうしんえつ)と言われています。その後、わずかながら中国で俳句が作られていましたが、1919年の「五四」新文化運動あたりから、中国人留学生が俳句を中国語に翻訳して紹介しました。学生生活と亡命生活合わせて20年日本にいたことのある中国の文豪・郭沫若も若いころから俳句に注目していたようです。
 1955年12月、郭氏が訪日し、私が通訳として同行していました。宿泊先は箱根の富士屋ホテルで、季節は既に冬に入りましたが、感覚的にまだ晩秋の気配です。紅葉が赤く染まり、朝、窓外の林から鳥のさえずりが聞こえました。生活秘書も兼ねていた私は朝、郭氏の部屋に入りますと、書いたばかりの詩句を見せてくれました。
 紅葉経霜久、  紅葉 霜を経(ふ)ること久しく
 依然恋故枝。  依然 故枝(もとのえだ)を恋(した)う
 そして、「どうかね、ちょっと日本の俳句に似ているではないか?」とおっしゃいました。
●王小燕:興味深かいお話です。郭先生が書かれたのは中国の五言絶句のような対句ですが、思い出された雰囲気は俳句と似ているのではないかとご本人がおっしゃいました。
●王衆一:俳句と漢詩は形式や美意識の表現は異なるところがあるかもしれないけど、源流から言えば、誕生するまでに俳句が外来文化から栄養を汲み取り、中国古典からの影響を受けたことは否定できないかと思いますので、やっぱり通じるところあると思います。
 例えば、【小雪や渓流を釣る簑笠翁(さりゅうおう)】(塚越義幸)
という句は、【孤舟蓑笠翁,独钓寒江雪】(簑笠翁 小舟を寒い川に浮かべてひとりで雪を釣る)という漢詩とよく似ていると思いませんか。
 また、俳聖の松尾芭蕉は、自分の俳号に「桃青」、つまり青い桃を使った時期がありました。これも、白いすももの李白へのオマージュだと伺えるでしょう。
●王小燕:こちらも大変興味深い話題です。互いに良い刺激を与えながら、新しい文化を作り出し、世界の詩歌、世界の文化をより豊かなものにしていく。これは、ある意味、文化交流の理想的な形だと思います。

■俳句の国際化の中で誕生した漢俳&俳句の変容
●王小燕:ところで、俳句と漢俳の似ている点、違う点、または、俳句の形にヒントを受けて誕生した漢俳独自の創意工夫について、お二方の注目点を聞かせてください。
●劉徳有:その最たる違いは「季語」の扱い方に出ているかと思います。日本の伝統的俳句に接してみて、“季語”を抜きにしては俳句について語れないことを知った。「一句を活かすも殺すも季語次第」と言われているほど、日本では“季語”の重要性が強調されるが、中国人にはいまひとつピンとこない。
 正岡子規の名句に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」というのがありますが、しかし、中国の読者がこれを読んで、まず疑問に思うのは、なぜ柿を食べたら法隆寺の鐘が鳴ったのか、リンゴではいけないのか、と言うのです。日本人なら、この句からだんだん深まる奈良の秋の気配を感じとり、いろいろ連想をふくらませるに違いありませんが、中国の一般の読者にそこまで理解してもらうよう要求するのは無理でしょう。
 私の考えをまとめますと、俳句は俳句、中国語訳の俳句は中国語訳の俳句、漢俳は漢俳であって、所詮別々のものであるということです。したがって相互間の翻訳も“完全等値”を要求するのは無理で、“近似値”の翻訳がしばしばであることも事実だ。しかし、それにもかかわらず、日本の俳句を中国語に翻訳して中国に紹介する仕事は今日中日文化交流を発展させるうえで重要な意義をもつものであると考えます。
●王小燕:季語に日本人の繊細な感受性がにじみ出ているようですね。そこで思いついたことですが、中国と日本は同じく北東アジアのモンスーン地帯に位置しており、季節は地方により、多少のずれがあっても、基本的に大部分の中国人と日本人が季節感を共有することができると思います。一方、俳句は最近、世界各地に広まりつつあると聞いておりますが、たとえば、季節感のまったく違うエリアでは、季語とかどうなりそうですか。
●王衆一:そうですね。これは国際化を目指し、世界遺産登録名簿に入ろうとする俳句にとっては大きな課題ですね。例えば俳句にとって大事な季語ですけれど、四季折々の気候に恵まれて生まれた独特な季语が、環境が全く違う外国に来るとどう嵌め込めるか、あるいは、海外の風土にふさわしく変容した新しい季語を認めるかどうかという問題が生まれますよね。
 例えば、オーストラリアに来ると、南十字星が季語に入れるかどうかというような問題ですね。この問題について、何度も劉先生に伺ったことがありますが、やっぱり「美人之美」、つまり、他の人が美しくて、良いなと思うことを忠実に理解して、それを愛する能力を育て、そこから自分が美しくて良いなと思うことを作り出す中で、受容側のイノベーション、創意工夫が必要ですし、輸出側が文化の变容を認める容量も必要だと思います。
●王小燕:劉先生はこの点について、いかが思うでしょうか。
●劉徳有:漢俳の読み下しはどうしても散文的になり、俳人からは「俳句ではない」という苦言が出ているほどですが、私に言わせれば、中国と日本はそれぞれ異なる伝統を持っているため、俳句は俳句、漢俳は漢俳であって、しょせん別々のものであることを認めた上で、交流を強めるのが大事ではないかと思っています。

https://japanese.cri.cn/20210103/57fda40d-a2b6-c834-8b8c-cb391654300d.html
2021年新年特別企画<新春俳句&漢俳大会(上)より転載。

王小燕(おう・しょうえん)プロフィール
中国国際放送局日本語放送パーソナリティー、北方工業大学語言文学部日本語科卒業。北京日本学研究センター修士。京都大学で交流留学。早稲田大学アジア太平洋研究科訪問学者。テレビ山梨(UTY)でアナウンス研修。主な翻訳書に『銀河鉄道の夜」など多数。2021年から「聊楽句会」メンバー。