俗言と俳諧 ―『犬子(えのこ)集』(俳諧撰集)の貞徳の発句を中心に―
小枝恵美子
慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開きようやく平和の兆しが見え、その後三代将軍家光の時代になり、寛永10年(1633)に近世最初の俳諧撰集『犬子集』が重頼によって刊行された。松永貞徳を中心とした貞門俳諧の撰集だが、門人の重頼と親重の二人が俳諧の撰集を企画して作品を集めていたが不和になり、草稿を持っていた重頼が単独で刊行した。四季類題別発句集が二冊、付句集が二冊、上古俳諧(『菟玖波集』の抜粋)が一冊という構成である。この集は、初めて作者名が記された俳諧撰集で刊行後、大反響となり俳諧流行の端緒となった。
本稿では、その『犬子集』の貞徳らの句を通して、俳諧における雅語と俗言の問題を考えてみたい。
貞徳は、和歌作者、歌学者であったが俳諧師となり、寛永6年に、京の妙満寺で正式俳諧興行を開いた。その後、慶安4年(1651)に『誹諧(はいかい)御傘(ごさん)』を出した。そこから少し引用する。
抑、はじめは誹諧と連歌のわいだめなし。其中よりやさしき詞のみをつゞけて連歌といひ、俗言を嫌はず作する句を誹諧と言ふなり。誹諧といふ文字は唐の文より出たり。長歌・短歌・旋頭・混本・誹諧等は哥の一体の名なり。
初めは俳諧と連歌には区別がなく優美な言葉だけを用いたのが連歌であったが、俗言を用いたのを俳諧という。「俗言」は、和歌、連歌で用いることのない俗語や漢語、流行語等である。つまり人々が日常に使っている言葉をいい、和歌、連歌に用いる言葉は雅語という。そして、貞徳は俳諧も和歌と一体であるという認識を示しており、貞門俳諧の付合作法書では、伝統的な古典知識はすべて身につけるものとしている。発句においては、縁語、掛詞の使用や故事、古典の利用、諺、謎かけ、見立て(比喩)、擬人化などに特徴がある。今日では言語遊戯にすぎない、というのが一般的な説となっている。
先ず、『犬子集』発句編(巻第一)の巻頭の二句をあげるが、これらは掛詞を多用している。
春立やにほんめでたき門の松 徳元
ありたつたひとりたつたる今年かな 貞徳
巻頭の徳元の句は、春が立ち日本国中めでたく新年となって、家々の門に門松が立っていることだなあ、という句意。「春立つ」と門松「立つ」とを掛け、「日本」と門松の「二本」を掛けている。日本中を見渡したスケールの大きな巻頭句である。徳元はかつて豊臣秀次に仕官、のち小田秀信に仕えた武将であった。戦乱の世をくぐり、ようやく穏やかな日本になったなあという実感がこもっている。貞徳の句は、あれ立った一人で立ったよ子どもが、と同時に春も立って辰の年を迎えたではないか、という句意。「あり」は感動詞で、「あれ、あら」などの意。「立つ」は「春立つ」と「辰年」とを掛けている。「あり立った」の口語調が良く効いており、タ音の繰り返しのリズムに弾むような新春の喜びや子に対する愛情があふれている。後の蕉門時代になると、荷兮の句に〈あゝたつたひとりたつたる冬の宿〉が出る。前書きには「其角に」とあり、其角が冬の宿を出立した様を貞徳のリズムで嘆きに転じている。
次に謎かけや諺を用いた句を見よう。
高野山谷の螢もひじりかな 貞徳
ほころぶや尻もむすばぬ糸桜 親重
花よりも団子やありて帰雁 貞徳
貞徳の句は謎かけである。高野山の谷の蛍が聖(ひじり)なのは何故か、答えは「ひじり」つまり、蛍は火のついた尻を持つから、火尻と聖(高野山の僧を高野聖と詠んだ)の掛詞で謎が明かされる。親重は、「尻も結ばぬ糸」という諺を用いている。糸桜はしまりがなくて早くもほころび花が咲いているよ、という句意。貞徳は「花より団子」という諺を用いている。春になると雁が北国へ帰っていくが、それは花よりも団子があるから、という句意。伊勢の歌、<春霞たつを見すててゆく雁は花なき里に住みやならへる>(『古今集』)の「帰雁」の雅と、「団子」という俗を用い卑俗化し滑稽感を出している。団子といえば、後に蕉門の許六によって〈十団子も小粒になりぬ秋の風〉という句が登場する。街道も寂れ行く頃、秋風の中で思いなしか十団子が小粒になったようだ、という句意。「秋の風」の雅と宇津の山の名物「十団子」の俗の取り合わせ。「十団子も」に宇津の山の風情をも捉えている。
この撰集で最も多いのが見立て(比喩)や擬人化の句で、現代でも馴染のある用法だ。
春風は梢そろゆるはさみ哉 正直
山姥が尿やしぐれの山めぐり 貞徳
しほるゝは何かあんずの花の色 貞徳
正直は、春風と共に梢に新芽が生え揃うのを見て、春風を鋏に見立てた。貞徳は、山姥が山巡りをしながら尿をしているが、それがこの時雨か、と尿を時雨に見立てている。時雨は雅であり、そこに俗語の尿を用いた。貞門時代の芭蕉にも<行雲や犬の欠尿むらしぐれ>と、類型的発想の句がある。乾裕幸はこのような例句をあげて「貞門における俳諧化、すなわち滑稽化の要諦は、雅を俗のごとく言いなし、雅・俗の秩序を撹乱することにあったということができよう」と述べている。芭蕉はその後『猿蓑』において、<初しぐれ猿も小蓑をほしげなり>と新境地を開いた。山中で蓑を着けて初時雨にめぐりあい、しみじみと味わうことが出来たが、猿までが小蓑をつけて初時雨に興じたそうな風情であることよ、という句意。「時雨」は侘びしいが、「初時雨」は濡れ興じるという風狂の精神がある。「小蓑をほしげなり」と猿のその表情を想像すると飄逸でもあり、俳諧の本質はおさえられている。貞徳の擬人化の句は、杏の花が萎れているのは、いったい何を案じて萎れているのだろうか、まるで女性が何かを案じているかのようだ、という句意。「しをるる」は花が萎れるのと、人が愁いに沈む意を掛けている。「あんず」は、案ずの言い掛けで「何か案ず」と続く。「花の色」は、小野小町の<花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに>の歌の連想から美人の愁いを帯びた様が浮かび余情がある。
最後に、晩年の芭蕉や蕪村の句をあげて貞門俳諧からの流れを考えたい。
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉
白梅や誰がむかしより垣の外 蕪村
『おくのほそ道』の終わりに大垣で詠んだ芭蕉の句は、蛤が蓋と身に分かれるように、大垣で出迎えてくれた親しい人々に別れを告げて、伊勢の二見が浦へと今、出立するが、折からの過ぎ去る秋の寂しさはいっそう身に沁みる、という句意。「ふたみ」は「蓋・身」との関連で二見に掛け、「み」は「見る」の意もある。「行」は「わかれ行」と「行秋」とを掛けている。特に蛤の「蓋・身」という掛詞は、和歌の雅語ではなく蛤を食べ物とした俗語である。貞門俳諧と同様の掛詞を駆使しており、行く秋の寂しさの中に、また旅立つという心の弾みを内包している。蕪村(60歳)の句は、垣の外に白梅が咲いているが、誰がいつ植えておいたのか知らないがゆかしく感じられることよ、という句意。ひとつの例として、藤原敦家の歌〈あるじをばたれとも分かず春はただ垣根の梅を尋ねてぞみる〉(『新古今集』)があり、和歌では垣の内に梅が咲くのだが、「垣の外」としたことで、俳諧的になった。この句の解説として、藤田真一は「俳諧のルーツは、和歌にある。それでいて、和歌的なものからの離陸を願望している。その意識があって、俳諧という文芸が存立しているといって過言でない。蕪村も、そのことをつねに意識していたはずだ。この句にも、それがはっきりあらわれている」、と述べている。
俗言(日常語)を俳諧の中でどのように活かすのか、『犬子集』の時代からずっと近世の俳諧における主要なテーマであった。そして和歌との違いを明確にするまでには時間を要したといえるだろう。
参考文献
『俳文学大辞典』角川書店
『貞門俳諧集』古典俳文学大系1、集英社
『蕉門俳諧集』俳書大系8、春秋社
『芭蕉集 全』古典俳文学大系5、集英社
『初期俳諧集』新日本古典俳文学大系69、岩波書店
『蕉門名家句集』一、古典俳文学大系8、集英社
『蕪村全集』一、発句、講談社
乾裕幸『俳句の本質』関西大学出版部
藤田真一『蕪村』岩波新書