長崎を巡る(2)

前川弘明

(1) 中心街
 中島川の左岸の下流に鉄橋(くろがねばし)があって、そこから南へアーケード街が伸びていて、途中で東西へ伸びるアーケードとも交差しており、この辺りがもっとも繁華街である。(だから、この橋ではビラ配りや演説などがよくある。)                                           
 その繁華街を中心にして長崎市内は八方に展開しているとも言えるだろう。この近くを路面電車が通っているが、この通りは狭い道なので、この道を横切って繁華街へ入る場合以外はほとんど人は通らない。本道は、中島川の右岸に並行している大きな道路である。
 この道路をバスやタクシーがしきりに往来していて、中央橋というバス停があり、人々の乗降がしきりである。(中央橋はバス停の向うの本道に在るのだが、舗装の下に隠れてしまって見えない。)    

(2)諏訪神社
 長﨑の氏神である諏訪神社は、中心街から、電車も通っている大通りを東へ10分ほど歩けば、左手に大きな鳥居があり石段や石畳で出来た道を登ってゆくと、最後に少し長い石段があって、社殿に至る。この神社の特長は、秋季大祭が毎年10月の7日8日9日の3日間、街を挙げて行なわれる。先ずは神社の特別桟敷や石段に密集する人々が見つめる神社の敷石広場で演し物が奉納されるのであるが、各町にそれぞれが決まっている演し物あって、龍踊、傘鉾、龍船, 芸妓舞、川船、等々が神社に奉納される。そのあと、華麗な金飾りの神輿三台が男衆に担がれ、観衆の大歓声を背に神社から出て市中をじゅうを練り回ったあと、街中に定められた御旅所へと行って着座するのである。なお、町内の各種演し物も奉納のあと神社から町へ出て、街中の掛け声に励まされつつ市内を演じて回るのである。

(3)二十六人聖人像                                                              
 二十六聖人像は長﨑駅から歩いて10分ほどの近くにある。(長崎駅は終着駅である。昨年、県庁と共に海側にすこし移動した)東側へ道を挟んで「県営バスターミナル」の裏側の斜面を少し登った西坂公園にあって、そこから長﨑港が見える。
 豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会の宣教師6人と日本人信者20人の計26人が、1597年(慶長元年)はりつけにされて処刑されたが、その26人が並ぶ等身大ブロンズ像が記念碑になっていて像は全員着衣し胸元に手を合わせて天を仰いでいる。この記念碑「昇天のいのり」の作者は彫刻家の舟越保武氏。

(3)原爆被爆中心地
 1945年8月9日午前11時2分、米機B29「ボックスカー」から長崎市浦上地区に落とされた原子爆弾はプルトニウムを用いたものであり、「ファットマン」と名付けられたものであり、当初予定されていた福岡の小倉が天候不良のため変更されたのだった。
 赤ん坊の頃に住んでいた寺井谷子さんに次の句がある。

 原爆投下予定地に哭く赤ん坊  寺井谷子

 被爆の瞬間、私は4キロほど離れた家に居たが、閃光と爆風に驚いて、町内の人達が避難するように指定されていた遠い防空壕まで走って行った。そこには夏休みの子供達やその家族の人達が居た。その夜、防空壕から出て、近くの丘の上から見た浦上の辺りの街は、真っ赤な炎で舐められるように燃えていた。
 時を経て、昭和33年に赴任してきた金子兜太、皆子の夫妻と浦上付近を歩いたが浦上天主堂の赤煉瓦の部分はまだ崩れたままであった。
 金子夫妻の官舎は爆心地の東側上に在って、爆心地は直接には見えなかったが、すこし移動すると見えたであろうから、被爆中心地を日常の皮膚感覚のように感じていたであろう。
 
(4)原爆資料館
 爆心地から長い石段を登って行くと、原爆資料館がある。既存の長﨑国際文化会館を被爆50周年の記念事業として改築し、長崎原爆資料館として1966年(平成8年)に開館した。被爆資料の展示や被爆惨状の再現や記録映画のビデオルームなどがある。なお、毎年の原爆忌の頃にこの資料館で西九州現代俳句協会が中心となって「長﨑原爆忌俳句大会」を開催しているが、今年は第71回大会であった。
 その資料館前から左斜めの道向こうの空き地に、原爆句碑がある。昭和36年8月の建立である。当初は下方の大通りの側に在ったが、後に現在地に移されたものであり、12名の句が刻まれている。例えば次のような句がある。

 なにもかもなくした手に四枚の爆死証明 松尾あつゆき        
 弯曲し火傷し爆心地のマラソン     金子兜太
 武器つくるけむりが爆心地の夜雲    隈 治人
 蝉籠に蝉の眼のあり原爆忌       柳原天風子

(5)平和公園
 爆心地から道を挟んで北側に10メートルほど行くと、平和公園がある。小高い台地にあるので、階段のほかにエスカレータが併設されている。広い公園の正面にある平和祈念像は原爆犠牲者の冥福と恒久平和を願う高さ9,8メートルの青銅のもので、1955年(昭和30年)に長﨑出身の彫刻家北村西望氏による制作である。この像の、天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、閉じた瞼は原爆犠牲者の冥福を祈る思いが込められているという。毎年原爆の日の平和祈念式典はこの像の前で行われる。 
 この広場には、各国から送られた像や鐘、樹木など平和へのメッセージが置かれている。