鎌倉吟行記~現俳と「玉藻」のコラボ

杉 美春                 

           

鎌倉虚子立子記念館にて

令和六年七月三十日(火) 於・鎌倉虚子立子記念館

 現代俳句協会副会長で、神奈川県現代俳句協会会員の星野高士氏にお願いし、実現した吟行会。
当日は快晴、というより油照りの猛暑日。暑さの中、最初の吟行地「鎌倉宮」へ。ここで星野副会長をはじめ、後藤専務理事ほか参加者二十七名が待ち合わせた。星野氏の結社「玉藻」からも二名の参加者があった。
オーバーツーリズムの人込みに湧く鎌倉駅周辺とは異なり、お宮は人影もまばらで蟬の声が響くばかり。鎌倉宮は、赤い笠木に白い島木と柱を配した紅白の鳥居が特徴的。大塔宮とも呼ばれ、御祭神は護良親王。幼少より英明・勇猛にして父帝後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒し平和な世を実現したが、足利尊氏の陰謀の為に鎌倉二階堂に幽閉の身となり、二八歳の若さで非業の最期を遂げられた。境内には護良親王が九か月にわたり幽閉されていた
土牢、吉野山の戦いの折に親王の身代わりとなった村上義光公を祀る村上社(木像身代わり様)などがある。


(右)鎌倉宮鳥居 (左)集合場所にて

 木立に覆われた土牢、その狭さと闇の深さに護良親王の運命を偲ぶ。そのとき大樹からツーと一匹の尺取虫が降りてきた。大きな尺取虫が一同の笑いを誘った。鎌倉宮をあとに、次の吟行地、永福寺(ようふくじ)跡へ向かう。

土牢前から永福寺跡へ

 永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経、藤原泰衡など、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立された。建久五年(1194年)に二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成したが、応永一二年(1405年)に焼失してしまい、以降再建されなかった。今は発掘調査も終わり礎石と広大な原っぱが残されている。

永福寺跡の原っぱ

 池のたもとでは、岩手県平泉町から寄贈された中尊寺ハスが栽培されており、六月には開花するという。しばし古の歴史に思いを馳せたあと、原っぱを突っ切り、いよいよ句会場の虚子立子記念館へ。

鎌倉虚子立子記念館 句碑の前で
 猛暑の中、辿り着いた記念館はその佇まいからして涼しい。句碑〈幾佛偲ぶ心に初桜 椿〉が出迎えてくれる。館内は冷房が効き、句会の準備も整っている。まずは昼食休憩。お取り寄せの弁当をいただき、俳句をまとめたり二階の展示室を見学したり思い思いの時を過ごす。休憩後は厳しくも楽しい句会が始まる。それぞれ2句出句、互選、後藤章選、星野高士選と順調に披講が進む。
  


句会場にて

 そしてサプライズ!中休みに、虚子立子記念館よりビールやワインが振舞われ、一同喉を潤す。そしてさらなるサプライズ!星野椿氏が句会場に現れたのは、嬉しい驚き。興奮もさめやらない内に句会の講評が再開される。活発な意見の飛び交う句会もやがてお開きに。名残り惜しくも散会となった。

参加者の俳句 
土牢に海風当たり夏の果           星野 高士
寺跡をどう巡りても爆暑かな         星野 高士
虚子の字の立居晴居の涼しさよ        後藤 章
夏草を踏めば史跡の立ち上がる        植田いく子
土牢も大樹も神として涼し          江原 文
身代りさま黙し千年夏落葉          岡田 翠風
涼しき神園土牢に突き当る          岡田 恵子
永福寺波紋を遺す水澄し           樫村 弘子
木洩れ日に息ついて行く藪茗荷        川村智香子
土牢や夏手袋のながき黒           栗林 浩
土牢の夏回天の夢の果            佐々木重満
白南風や虚子の革新継ぐ高士         佐々木光野
涼しさや鎌倉宮の白鳥居           佐藤 久
短冊を屏風に仕立て庵涼し          杉 美春
老鶯の音によみがえる永福寺         芹澤 祥子
五色布の寂びて溽暑の鎌倉宮         多久島重宏
日盛りや幽閉牢はただ冥し          田畑ヒロ子
土牢の静けさ尺取の渾身           たむら 葉
ふと蝶が蝶は立子か夏の蝶          鶴田 静枝
ごうと冷房シーラカンスの大皿に       なつはづき
尺蠖の向上心を手本とす           芳賀 陽子
伝統も前衛もおり朱夏の宮          長谷川昭放
水馬結界もなくはね廻り           廣田 洋々
空蝉の縋り付きたる絵馬掛所         藤田 裕哉
ハンカチや首塚に聴く森の音         堀口みゆき
土牢の奥の沈黙蝉時雨            保里よし枝
土牢へ走り根太き夏木立           松原 薫子
尺蠖のボルダリングは宙を蹴り        山下 遊児

鎌倉吟行記

星野高士 

 今年はともかく暑い。そして湿気もある。これは今年に限ったことではなく、去年もそうであった。
 しかし去年よりも湿度が高くなってきたのは皆さんそうであろうが、肌で感じる。
 真夏の季語も沢山あるが、今年ぐらい「炎暑」「猛暑」「溽暑」以外で、暑さを言い表す季題、季語はないのかといつも思っている。
 たまたまユネスコ、国際俳句協会のイベントで日本語学者の金田一秀穂さんと対談することができた。
 そこでテーマとして話し合ったのが今年の暑さ。
 確か「爆暑」と言ったが、どうもドン・キホーテの安売りみたいで「爆買い」「爆安」などと一緒で品が悪いのではと語り合った。そして数日が経ったが、私にはその「爆暑」という新しい言葉が好ましくなってきた。もちろんまだ季語としてはどこにも無いのであるが、季題や季語の生まれる時は誰も初めてであった筈。沢山の例句や佳句があれば認められるのである。
 例えば「万緑」などは、それまで「緑」「新緑」であったが草田男が使ってからはその王道は揺るがないものになった。
 令和六年七月三十日の神奈川県現代俳句協会の鎌倉吟行の日もとても暑かった。
 集合場所は鎌倉宮(大塔宮)。そして永福寺跡、そして嬉しくも鎌倉虚子立子記念館での昼食と句会。
 私はここ二、三年自分の結社でも、力を入れているのがこの吟行。
 虚子が昭和五年に始めた武蔵野探勝会から吟行という名も定着している。
 何がいいかと言うと、全て現場主義だからである。相当の名所を行くわけだから、各自の予備知識は必要であるが、予想は出来ない。
 今回も護良親王の幽閉されていた土牢に行ったときに天から一筋の尺蠖が垂れ下がってきて、するすると側の樹に攀じ登っていることなど予想外のこと。しかしそこは俳人だけに見逃さず、幾つかの佳句に。
 また永福寺の池の通し鴨が一斉に飛んだのも予想外。 
 記念館での昼食のお弁当は鎌倉の老舗「御代川」にしたが、それを詠んだ方も居た。
 共に吟行の醍醐味を共有できたことは、新しい夜明けのようでもあった。
 話は戻るが、挨拶として爆暑の句を出してみたが、三点入ったのでこれも収穫であった。
 そして思ったのは神奈川県という場所の広さであった。まだまだ吟行したいところは沢山ある。
 虚子の武蔵野吟行には叶わないが、その機会を皆さんと共に持ちたいと思った。