「炎環」評論分野への進出
『楸邨の季語「蟬」‐加藤楸邨の「生や死や有や無や蟬が充満す」の句を中心とした考察』の解説
石 寒太
田辺みのるの評論作品を読了。彼には楸邨論、特にその季語についての考察が多く、いずれも秀れている。小誌「炎環」でも、すでに評論賞に三回応募している。
が、今回の論旨の方が明確で素晴らしい。それは楸邨の「生や死や有や無や蟬が充満す」の句のみを中心に、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」と対峙させているところにある。そこがこの論に注目する意味であり、さらに季語論の本質にもふれている。
楸邨の「生や死や有や無や蟬が充満す」の句は個と向き合うかたちになっている。楸邨の蟬の句のほとんどがここにこだわり、そこに哲学的啓示がある。これが俳句のでき得る範囲を超えた奇跡であろう。
芭蕉の「閑かさや」は「蟬の声」を詠んでいるが、楸邨にはなべて「蟬の声」はない。それは属性ではなく“生”として捉え主体の意思を捉えているから。芭蕉句は「声」によって人口に膾炙したが、楸邨句は芭蕉句に凭れてはいない。生・死・有・無から一匹の蟬の「存在の頂点」へ句を昇華させ、さらに独自の世界へ表現を展開させた。
さて、私もかねて発表時からこの楸邨句には注目していたものの、少し具体性に欠ける不満を抱いていた。一般の人々もそのきらいがある。が、この度、作者に先行句「木や石や有や無や蟬が充満す」を示され、如何に楸邨が上五・中七にこだわり続けてきたかを知らされた。でも、内容的には、「生や死や」の方が格段に上で、秀れている。
作者はこの句を中心に、楸邨の季語論にまで及んでいる。「楸邨は伝統を疑い生みかえした芭蕉に共感しつつも芭蕉の季語を疑い生みかえしていたのではなかろうか。だからこそ芭蕉の“蟬の声”に意識的に従わなかった。そして芭蕉とまったく異なる表現で“生や死や”を表現した」という。芭蕉へのオマージュではあるが、鳴き声という一属性のみにこだわり抽象化せずに個体としての存在そのものを把握しようとした、そこに楸邨の独自性と自信があることを指摘した。そこがこの論のユニークなところ。
さて、本論が評論賞を受賞したことは、大変にめでたい。「炎環」は、現代俳句新人賞では、第三十回を柏柳明子、第三十一回を近恵、第三十三回を山岸由佳、第三十五回を宮本佳世乃が受賞し、第二十一回俳句研究賞を齋藤朝比古、第六十七回角川俳句賞を岡田由季が受賞している、その作品の快挙にはめざましいものがある。が、評論の分野には秀れた書き手がいるのに、なぜか挑戦者には恵まれなかった。そこへの田辺みのるの第四十四回現代俳句評論賞のこの知らせは、ことのほかうれしかった。
これを機に評論部門にも、「炎環」からさらに進出して欲しい。本論がその嚆矢になることは間違いない。