「わたしの1句」鑑賞 林 桂

 大井恒行新刊句集『水月伝』に次の句がある。

  人にのみ祈る力よ 日よ 月よ 

 人以外の生命体が、日や月をどのように見ているのか知るよしもないが、人はなにがしかの思いを投げかけながら見ているには違いない。そこからインスパイアされた「人にのみ祈る力よ」の発見には力がある。基本的に人の見る風景は、思いを投影された姿に違いない。環境として外化された近代の風景と、それ以前の日本の風景は決定的に違う。風景には「神」が宿り、内面と切り離せない一体化したものだったと言われる。
 海に面した洞穴の一葉の写真を目にした大井にも、様々な思いが降りてきて、一体化したことだろう。研究史的な知識はないが、洞穴が自ら作る「家」をまだ持たない人の最初期の栖だったろうことは想像がつく。そこから人は何を見、何を思って過ごしてきたのであろうか。
 明るい海辺の風景の中央に二人の人影が見える。海遊びしていると見るのが一般的に思うが、黒い影となっている二人は、祈っているようにも見える。それを洞穴の中の視線が捉えている。洞穴に目覚めた大井の眼には、一体何が見えたのだろう。そして、どのような祈りが生まれたのだろう。大井の一睡には、洞穴生活以来の人の一睡が重ねられている。そして、人影は重層化される。
 多行形式の一行から三行までは、「い」の頭韻が支配している。その構造は綺麗な「起承転」となっている。韻から解放された四行目は、当然「結」を担っている。三行目の「転」の「戦さ」は、大井の幻視だろうが、累代の洞穴の人が見てきた風景に重ねられてもいるだろう。戦から身を隔てて暮らす人にも、洞穴のようにぽっかり穴があいて、ある日の目覚めには遭遇するものなのだ。もちろん、それ以降に洞穴を出た人が見続けてきたものでもある。
 一瞬、風景を切り裂いて見えた「戦さ」も幻視にすぎず、それは「夏嵐」の誤認であったかのように風景は閉じられる。「結」の「夏嵐」の文脈はそういうことだろう。しかし、これは大井の危機感が見たものである。
 中村草田男は「いくさよあるな麦生に金貨天降るとも」と祈りを書いた。大井にこの句を書かせたのも、同じ祈りだろう。「戦さ」が、「結」の「夏嵐」で結ばれるのにも、祈りが潜在する。もちろん、無力な祈るという行為の、しかし最後の力でもある「祈る力」を信じて。