「百景共吟」より2句鑑賞 浅川芳直
花火殻水に溺れてゐたりけり 橋本喜夫
花火は川辺で打ち上げることが多い。花火大会の翌朝、花火の殻が水に漬かっているのだろう。なかなか花火大会の次の日の会場へ足を運ぶ人は少ないだけに、作者の地元、定住者の句だということまでもこの十七音から想像できる。
花火殻は魔除や縁起物で縁下に吊るすこともあるが(福島県の浅川町ではこれを魔除花火として土産物にしている)、魔除花火が川の流れに溺れているという把握に、なんとなく物のあはれが漂っている。
足裏の恥じらうプール開きの日 なつはづき
暑い日のプール開きだろう。プール開きをするようなプールは屋外プールだから、さぞ天気のいいはず。プールサイドもさぞかし熱いに違いない。ここから先は筆者の鑑賞で突き進む。きっと、素足の裏がひりつき、指をくっと曲げて、なるべく足裏の接地面を減らしてよちよちと歩いているのではないか。それを「足裏の恥じらう」と言ったところ、自己対象化のひとひねりが奏功しているように思う。声に出して楽しい句だ。
「百景共吟」より2句鑑賞 水野真由美
花火殻水に溺れてゐたりけり 橋本喜夫
「花火殻」という言葉を使ったことがない。そして国語辞典には項目がなかった。それでも「花火」の「殻」は「燃えてしまったあとに残った」「燃え殻」と「咲き終わった花」あるいは「仏に供えた花の不用になった」「花殻」を思わせる。この「殻」は美しさが残す寂しさなのかもしれない。それが「水に溺れて」いる。泳げずに苦しんでいるのだ。美しさが残した寂しさと苦しさを一人で見つめるのが「ゐたりけり」という時間なのだろう。
髪切って人魚をやめる青水無月 なつはづき
「やめる」で気づかされた。西洋の長い髪の若い女性が「人魚」というものだと思っていた。絵本や絵画の人魚姫やセイレーンのイメージだ。だが「青水無月」で日本にもいたのかと驚き、つぎに髪を切らなければ止められないのか、短髪では駄目なのかと思う。短髪は切ない恋や誘惑に似合わないのだろうか。「人魚をやめる」は自分の足を使って陸地を生きることだろう。季語「青水無月」の持つ青葉の色、匂い、光が新たな足を耀かせる。