一行の行方(後編)
ー 草木と月 ー

木村聡雄

 欧米の俳誌では三行句が圧倒的に多く、一冊の中でも一行句は数句に留まる。前回 (2024年7月号)は、外国語の一行書き作品において、日本語俳句の垂直方向から外国語一行句の水平方向への構造的な転換が作品の内容そのものにも影響を与える可能性について述べた。今回は俳句によくみられる主題について、引き続き海外の一行書き作品を引きながら日本の俳句と比較したい。

心の奥に一本の木がある草地 スコット・メッツ
under my skin a pasture with one tree Scott Metz  (frogpond, 31:1)

 冒頭の “under my skin” という慣用句は「心の中」ということだが、辞書や翻訳サイトにはこの意味では出ていない。とはいえ、コール・ポーターが音楽を担当した1936年のアメリカのミュージカル映画Born to Dance の代表曲 “I’ve Got You Under My Skin” があるので、日本でもスタンダード音楽ファンにはお馴染みの言い回しだろう。(実はこの曲は、私自身のギターの弾き語りの得意技の一つなのである。)
 引用句の「一本の木」という表現は、西欧的な確固たる自我が感じられるようである。内側に常になにか唯一の存在を感じているというのは一神教的だという人もいるかもしれない。一方、富澤赤黄男の『黙示』(1961)には

草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男

がある。「草二本」は、アメリカの句を読んだあとではなすすべもなく繊細であり、一本と断定しない表現にはその揺らぎの狭間を生きるほかないという姿勢も感じられる。さらに、「一字あけ」による強制的な切れによって孤立させられた「時間」は、時の流れの永劫性を際立たせているようである。メッツは赤黄男作品を意識せずに書いているはずだが、日米それぞれの心象風景は違っていながら、どこか似ていてるのは興味深い。

同じ月が ナイロビ デイヴィッド・カルソー
same moon Nairobi David Caruso (frogpond, 31:2)

 日本の俳句なら短律に相当する一句。ナイロビはケニア共和国の首都で、地図上ではほぼ赤道直下である(実際は赤道よりほんの少し南に位置する)。赤道においてはそもそも季節感という発想自体があり得ないだろうが、仮に季語を想定してみようとしても、一年中、灼熱とかその類いの言葉しか思い浮かびそうにない。ところが調べてみると、実際にはここは高地とのことで、ナイロビは標高約1600メートルにある。日本の主な避暑地が標高千メートル前後であることを考えてみると、赤道直下とはいえこの高地は思いのほか過ごしやすいらしい。
 「月」は、気象や新月など条件もあるだろうが、どこにいても見ることができる。けれども月相は日々変わって行く。「同じ」と詠まれていても、この地でいつも同じ月見ているというよりは、ナイロビの月が、旅人にせよ移住者にせよ、故郷とあの頃見た月を思い出させるに違いないのである。日本にも、種田山頭火に同様の首都の月を詠んだ短律の句がある。

ほつと月がある東京に来てゐる 種田山頭火

 「月」と「都」のほかはあまり似ていないと感じられる二句だが、山頭火は「東京」という異郷で月を見上げて、ああ故郷と同じだと感じたのだろうか。ナイロビの月も東京の月も、なぜか一種の感傷的な気分を誘いつつ、同時に安堵感を与えてくれる。名月は天空高くありながら、地上の故郷あるいは異郷と強く結びつく特質を備えているようである。
 一句目のメッツ、そしてこの句のカルソーとも、俳人は時と海とを隔てても、このように通じあう同質の俳句的原風景を見ているのだろうか。

(俳句和訳:木村聡雄)
[Where One Line Goes (2) ―Plants and the Moon Toshio Kimura]