対談「花鳥諷詠と前衛」―三協会統合の可能性(下) ※動画はこちら
現代俳句協会 副会長 星野高士
現代俳句協会 副会長 筑紫磐井
筑紫磐井副会長(左)と星野高士副会長 4月24日現代俳句協会本部
🔷題詠と吟行の間
筑紫:「ホトトギス」では俳句を「花鳥諷詠」「客観写生」で作るというけれど、作る人とそれを評価する人がずれてこそ初めて新しい価値が生まれる。作者と選者、鑑賞者のそういう齟齬が出てくるのが鍵でないか。一方で、阿部完市は虚子の句を多く取り上げ激賞してる。前衛の人でも分かるんです。
星野:アベカンさんと僕は当時、藤田湘子さんや三橋敏夫さんたちとも一緒に超党派の月曜会で句会をやっていて、アベカンさんは虚子の〈帚木に影といふものありにけり〉に勝る句はないと言っていた。
筑紫:戦後、この句を一番先に取り上げたのは山本健吉です。『現代俳句』初版は巻頭に虚子を掲げ、帚木の句に膨大な鑑賞文が添えてある。ところが虚子はこの句を『五百句』にも入れてない。健吉は別のところで「虚子はどんな心境でこれを『五百句』に入れなかったのか」を分析している(笑)。
星野:虚子は正岡子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を『子規句集』から外してる。何となく〈帚木〉の句と近い温度がある。
筑紫:〈帚木に〉の句は、東大の俳句会の「帚木」の題詠で、その時の出句がどういう自分の頭の作用でできたのか新聞に縷々書いている。読むと、虚子はどこにも行ってないし、新しいものは何も見ていない。自分の頭の中で考えるだけ。最初は〈帚木に露のある間のなかりけり〉ができたけどダメだと。そうしているうちにこの句に行きついた。これは花鳥諷詠の真骨頂じゃないかな。余計なものをそぎ落とし、季題を外さず、ぴったりの表現をはめる。後藤夜半の〈滝の上に水現れて落ちにけり〉も似た作り方。現代では飯田龍太の〈一月の川一月の谷の中〉。どれも素人が見ると面白くも何ともないけど(笑)。
星野:今の俳句はもう少し凝ってなきゃいけない。ドラマ作らなきゃいけない。するとダメになっちゃう。毎日言ってるんですよ。情報が多すぎるって。
筑紫:虚子自身〈帚木に影といふものありにけり〉で決まったとも思っていないようです。批評する人がいて初めて名句は成り立つ。「花鳥諷詠」は多くの人が皆同じような句を作り、最後に選者が「これだ」と極めつけの印を押すと、突然その句が立ち上がる。そんな今まで他の文学ではなかったやり方がある。
星野:すごいのは、後でもう1回「雑詠選集」で取った句をまた選して、今までのは何、というぐらい丁寧にやってる。
筑紫:虚子は俳句に限らず、企画力がすごく、勘がいい。『武蔵野探勝』は昭和5年から10年にわたって行われたが、きっかけは『日本新名勝俳句』があったから。新名勝俳句は東京日々新聞が企画したが、それを虚子はもう一度、(武蔵野に限るけど)名勝を選び直し、名句を作る企画に変えた。
星野:実は私と廣太郎で現代の「新日本名勝俳句」やってるんだけれど、虚子の時代には10万句来た。昭和5年で。その中で夜半の〈滝の上〉とか久女の〈谺して山ほととぎすほしいまま〉を選んでいる。
筑紫:賞金がすごい。お金になるところと文学とをうまくくっつける企画に虚子は長けている。
星野:私も去年から吟行を推奨している。『武蔵野探勝』を角川と一緒になって2か月に1回講演して、なぜここに行き、この句ができたのか講演し句会もやって。100回やって虚子は98回出席で2回休んだだけ。武蔵野で草田男の〈冬の水一枝の影も欺かず〉はできた。現俳協で吟行はどうですか?
筑紫:提案しているのはミニ吟行会を鎌倉でやったらと。句会場は立子記念館で、旧虚子宅とか寿福寺めぐって、お昼はもり蕎麦でも食べて。(笑)現俳と伝統俳句協会で、それこそ三協会統合の第一歩。
星野:僕はひと月に吟行を6回やってる。吟行は何もなしで行ける。そうすると不思議なテーマが生まれて、虚子が力を入れたのはそれだと思う。
筑紫:『武蔵野探勝』の第1回目は虚子が場所を選んで府中の大國魂神社で行われた。第2回が多摩の横山で秋櫻子と2人はまだ蜜月時代。10回ほどでメンバー一巡し、秋櫻子は参加するけれど記録などには協力しなくなり、それが秋櫻子離反の契機になる。
一方、題詠句会も虚子は死ぬまでずっとやっている。最後の句会が句謡会で昭和34年3月30日。この時の句が〈春の山屍を埋めて空しかり〉、絶唱です。「ホトトギス」の句日記を見ると春山の句はたくさん詠んでいるけど、こんなにすごい句はない。だけど句会ではこんな句もある。〈椿大樹庭の真ん中に花多し〉。勢いでいろんな駄句を作る中で、いい句ができる。花鳥諷詠の句会は予測がつかない。
星野:虚子が最後に句会をしたのが鎌倉婦人子供会館。虚子が看板を書いている。最後の句会で、中村春堂という書家が源頼朝を憂う詩を書いた御軸が掛かっていた。頼朝が埋められたとされる山が目の前に見えるので、虚子が〈春の山屍を〉と詠んだといわれてきた。家に帰ってまだ3、4句作って、〈幹にちよと花簪のやうな花〉が最後だと。ところが、実際行くと見えるのは頼朝の墓でなくて比企一族の墓。比企は北条に討たれた。それを詠んだというのが新発見。
筑紫:〈春風や闘志いだきて丘に立つ〉は、碧梧桐の新傾向俳句に対立した意気込みを現したと言われるけれども、実は句会での「春風」の題詠。それでも何となくその時の心情が滲みだすことはある。意図してできる句と、その時の環境、自分の心情、人との対話で偶然できた句も許容するのが題詠です。
星野:俳句は兼題の句、吟行、それから席題がある。席題は当日行って黒板に「机」とか「町」とか出して作る。「どれが一番巧くなるのに近いんですか」という問いに私は「席題」と言ってる。兼題だと季語から発生する事柄をイメージし、だんだん予定調和になる。予定調和を外そうとすると今度はつながらず調和がとれない。吟行に行くと作るけど、単なる日記で終わる。席題は予想外の言葉で光らせてくれることがある。そういうことは虚子もやっていた。
🔷花鳥諷詠は「前衛」である
筑紫:「花鳥諷詠」は予測のつかない詠み方で、必ずしも古来の伝統的な詠法ではない。「前衛俳句」の1つの分野、手法といってもいい。
初めて披露する説ですが、前衛の源流である欧州の「アヴァンギャルド」は成長発展し、「未来派」「ダダイズム」「シュルレアリスム」に分かれていく。続く四番目に「花鳥諷詠」があるのではないか。「未来派」登場が1909年、第一次大戦の前で、「ダダイズム」は7年後の1916年、「シュルレアリスム」が1924年で8年後、その4年後が「花鳥諷詠」。「帚木」の句の作り方などを見ていると、「花鳥諷詠」は前衛手法の1つと言っていい。作り方は何をしてもいい。あとは全部合わせてどう評価するかの目利きが必要なだけ。星野さんがやっている句会は偶然要素が強い。「ダダ」で新聞記事を切り取ってくっつけると詩ができるのとあまり違わない。(笑)碧梧桐に対して怒ってる人が〈春風や闘志いだきて〉という句ができること自体、すごく前衛的。
星野:元は碧梧桐の方が「花鳥諷詠」。〈赤い椿白い椿と落ちにけり〉とか。虚子は前衛をやっていて、まったく逆だった。虚子もそっちに行きたかったけど、大衆が収まらなくなって「客観写生」。その後「花鳥諷詠」、最後「極楽の文学」。それで民を引き寄せたものの、本当にやりたいことは違ったんじゃないか。〈去年今年貫く棒の如きもの〉なんて全然分からない。(笑)前衛に帰ってきた句ですよ。
筑紫:今から30何年前、2人が「花鳥諷詠、そして前衛」でどんなやりとりをしたか。覚えてないけど、当時の新聞に仁平勝が書いている。このバトルには「豈」同人と「玉藻」会員しか来なかったね(笑)受けていたのは演者の2人だけ。ただ仁平はこうも書いてます。「『もしかして虚子は前衛じゃないですか?』という磐井の挑発に、『そうかもしれませんね』と高士は笑って答えた。バトルよりもいい風景を見た気がする」。今日と同じ結論で、30年間変わらないのは真理に近いからじゃないかと。
🔷まとめとして
星野:俳句作るときの確信みたいなの、ふわふわして作ってると、何だか分からないけどいいのができたみたいな。それを形にしたいけれど難しい。
筑紫:花鳥諷詠派も、前衛派も自分の頭の中を明かさない。だけど、花鳥派も前衛も考えてることは違わないのでは。梅だから鶯ていうのは絶対拒絶する頭がある。じゃあ、どういう風に道筋がつながるのかは明かさない。「賜る俳句」ですから。(笑)
星野:降りてくるってね。だけど絶対降りてこない。
筑紫:湧き上がるんです、脳髄から。そこを機会があればディスカッションしてみればいい。解釈が正しいかどうかより、その句ができたのは何故かを知りたい。ことによると、完全にキレちゃったような人がいるかもしれないけど、キレたっていい句はいいかも。草田男なんてね。(笑)
星野:草田男はキレてますよ。(笑)芥川龍之介の〈青蛙おのれもペンキぬりたてか〉も。
筑紫:一線を越えないと名句は生まれないんじゃないかな。前衛手法も花鳥諷詠もそう。ただ花鳥諷詠は当たり前のものでも俳句になるという価値判断が前衛より進んでる。〈一月の川一月の谷の中〉と前衛は詠まない。
星野:僕は「風と影禁止令」を出している。「困ったときの風と影」で絶対いい句には近づく。近づくだけですけど。ずっとやってる人いるんです、何十年も。勲章物だなと。ほとんど残らないのに。
筑紫:1句残ればいい。〈生涯にまはり燈籠の句一つ〉(笑)。楸邨、草田男とか、兜太、龍太ぐらい以後の俳人でぱっと思い出せるのは数句。それを残せる人が立派なんだ。芭蕉も「笈の小文」で最後に2,3句残ればいいと言っている。そういう句が作れていないのが現代俳句。たくさん作りすぎてる。
星野:多捨じゃないんだ。多作で終わっちゃって。
筑紫:最後に、抜くに任せて刀を振りまわし血まみれになった感じがします(笑)。
星野:この対談が花鳥諷詠の謎解き、その一環になれば。こんなに一生懸命話したのは久しぶり。
筑紫:今日こうして来ていただいて、花鳥諷詠と前衛の間の谷間が少し埋められている。しかし、花鳥諷詠と前衛の両方に入らない「伝統俳句」の人々が何を考えてるのかも聞きたいな。冒頭に挙げた飯田龍太や森澄雄の、たとえば〈手が見えて父が落葉の山歩く〉は難解俳句。「伝統派」でも「心象諷詠」の人たちは「前衛」とそう距離はない。一方、とことんわかりやすくありたいのが中間の「伝統俳句」。ここと対話の機会をしてみたい。「右派」と「左派」、自民党と共産党が今日は並んだけれど、中間派の維新の会も入れないと。(笑)積み重ねて行くことで、三協会統合の可能性も見えて来ると思います。
【付録・質疑応答】
当日は対談後、編集部や後藤章専務理事ら傍聴者との質疑応答も行われた。WEB版限定の付録として以下に掲載する。
🔷虚子の制作/評価の基準
柳生:今日のお話で前衛俳句と花鳥諷詠の接点、もしくは切り結ぶ刀が飛ばす火花を見た気がします。兜太健在時の「海程」秩父俳句道場にお招き坊城俊樹さんが虚子の〈地球一万回転余冬日にこにこ〉を挙げ、「作者名を伏せて出したら皆さん取るのでは」と言っていました。
星野:虚子はあの頃、「冬日」をけっこう作ってるんですよ。「冬日抱く」とか。かなり型破りな句だけど〈冬日にこにこ〉は、まさに季題諷詠だと思う。他の日差しはにこにこしない。「夏日にこにこ」となりたいけど、それじゃ面白くないんで、「冬日にこにこ」の、季題諷詠の最高峰じゃないかなあと思ってます。一般の人が取るかどうかはね(笑)。
筑紫:生涯何万句も作ってると、作ってる自分にすらイラつくことってありますよね。自己模倣になっている自覚があり、やっぱりどこかで切りたい。草田男の〈金魚〉の句も「よくぞやってくれた」というか、弟子である草田男が羽目を外してぎりぎりまで行ってくれた。そういう句として評価したいなという気持ちが虚子にあったとすれば、自身が作る句でもぎりぎりまでやろうということもあったのでは。特に若い頃は破型の句がたくさんあり、文学者としての暴れてやりたいみたいなところがあっただろうし。結果的にみれば、詠み方は破綻してても、内容はわかってしまうというところはぎりぎりの可能性として認めていたんじゃないかなあ。「極楽の文学」と言ったけど、虚子が書いてるのは結構「地獄の文学」ですよね。
星野:(笑)ぜんぜん極楽じゃない。
筑紫:親子で自殺しちゃったのを悼むとか、そんな句がちらほら混じってたり。「極楽の文学」っていうのは「地獄の文学」の裏返しで、地獄がなかったら、極楽はありませんからね。そういう意味で、常に対比する目をもっていて、多分完成した句がずらっと並んだら、虚子ってイラつく人なんじゃないかなあ。そんな中で、〈冬日にこにこ〉ができたら、代表句として掲げるわけでなく、句集の中でそういう句も入れるということなら許せる。我々だって句集作るときは変化持たせたいと思いますけれど、虚子の心境としても十分ありえたと思いますね。
星野:坊城俊樹がそれを言ったのは面白い(笑)。彼自身の句はそこらへんから悩み抜いている。
柳生:虚子が自分のなかでぎりぎりまで追求していくなかで、前衛を自負している人たちがやろうとしているのと近い地点まで行く感じはありますね。
星野:近いですよ。
筑紫:虚子の評価基準に関しては、いろいろな座談会とかやっていて使っている言葉でものすごく目立つのはね、「我らが俳句」という言葉です。「我らが俳句」と「我らとは違う俳句」と言っていますね。要するに「ホトトギス」の雑詠に残ってる大半の句は「我らが俳句」なんだけれど。そういうのが、「ホトトギス」以外でも波郷とか、龍太とかそういう句は「我らに近い俳句」だと言っているんですけれど、「我らとは違う俳句」って言ってる社会性俳句とかは、否定はしてないんですね。「我らとはちょっと違う切り方」だと。長い将来そういうのも評価されるかもしれないと。自分は雑詠では認めないけれど、世間一般の俳句でそういう句が出てくることは、拒否されることじゃないということは言っている。ダブルスタンダードかもしれませんけど、文学の評価の仕方としてはしごくまっとうな評価の仕方ではないかという気がする。
柳生:虚子は限定的なものしか俳句として認めていなかったという固定観念がありますが、実は多様性を見ていた人という気もしてきます。
星野:作ってる俳句も若い頃から80代まで変遷がありますけど、かなり破れてましたから。ずっとね。それがだんだん収まって花鳥諷詠だ客観写生だといろいろ言いながら、自分の句も修正している。最後、晩年にまたちょっと崩れてるんですね。長いスパンでやってるから。俳句より選句みるとわかりますね。選は創作って言ってましたけど、選句で〈金魚〉の句とか、杞陽の句とか、大胆に取ってます。実は自分がやりたかったんじゃないかな。社会性ということになると、小諸にいた4年間の「小諸俳句」。戦争の真っ最中でしょ。あの時作った〈山国の蝶を荒しと思はずや〉とか、あれ全部社会性なんですよ、私はそう理解している。一見、そう見えないんですね、戦争やってるのになんでこいつ蝶々と遊んでるって。実は全然違うと私は思っている。
🔷題詠と吟行
後藤:「ホトトギス」は題詠ばかりというイメージがありますが、「武蔵野探勝会」でわざわざ吟行している。郊外に出て詠うことはかなりやっており、吟行雑記に題が出ている場合もあって、〈流れゆく大根の葉の早さかな〉を詠んだ吟行では、そこで見た季題が10以上挙げられ、「大根を洗う」状況も見ているけど、句会でこの句は取られなかった。子規の〈鶏頭〉の句とか、最初は取られず、後に誰かが評価して名句になるという過程を考えるにつけても、題詠と吟行は相乗効果があるのではないか。脳みその活性化、脳を攪拌するやり方として、この2つの組み合わせはなかなかのものではないかと。
星野:吟行をやる「武蔵野」が昭和5年、その前に虚子がまだ「吟行」っていう名前がない頃、「旅に出て作ろう」と、大井川とか茨城の大洗行って、吟行っぽいことをやってるんですよ。あの頃は作品が、題詠でゴチゴチになって、頭で考えて、みんながちょっと行き詰ってたんですね。ここで物を見てみようと、レトリックっていうか、そういう発想、自分の概念を打ち破ろうと行った。だからそれで初めて〈大空に又わき出でし小鳥かな〉、あれ木曽かな、最初でしょ、あの吟行で。確かに日記みたいな句なんですよ。だけどそれがよかったんでしょうね、そうしないと頭でガチガチ考えちゃうから。僕は自分で言ってるんだけど、「吟行こそ題詠で作れ、題詠こそ吟行で作れ」です。
後藤:「青」の波多野爽波さんの頃からの句会は、午後の部は題詠、午前は吟行をしている。どっちかっていうと2回目の方がいい句ができる。この組み合わせは俳人にとって最高なんじゃないかなと。
星野:僕も吟行で席題で今出すよってやる。15分で1句とか。虚子がよりよい俳句を求めて自分を修正する力は半端じゃないですからね。
後藤:身をそういうところに置いて、外部から自分を変えてもらうと。
星野:そうなんじゃないかなと思うな、あれ。
筑紫:以前、深見けん二さん、虚子のお弟子さんですけど、長めの座談会をやったんですよ。少しいじわるな質問で「先生、吟行に行ったって、みんな題詠してるんじゃないですか」って言ったら、「そうです」って(笑)。実は嘱目と題詠とが対立するものなので、吟行と題詠が対立するものではなく、吟行でも嘱目の句ばかり作っているわけでもないようで。吟行地に行けば何があるか見当がつくから予め題を設定することも可能です。虚子は著書『俳句の作りやう』の中で自分に向いている作り方は「ぢっと案じ入る」方法だと言っていて、やはり明治からほとんど題詠で句を作って来た作り方は今の作家たちとは少し違うようです。深見さんに意地悪ついでに、「この際、季節も関係なくどんな題でもあれば題詠になりますよね」って言ったら、「そうです」って。その後ゲラが来たら、「ここは消させてください」って言って来られました(笑)。深見さんの食言というよりは、冒頭に星野さんが言った「花鳥諷詠」は、「花鳥」よりも「諷詠」の方に重みがあるという話と通じる。2人に共通する実作感覚があったのではないか。
星野:それ面白いね。(笑)
筑紫:季節の問題はやっぱり。
星野:あの人がそれ言っちゃね、でも思ってたんだ。
筑紫:嘱目で詠む句もあるけど、深見さんくらい句会を重ねていると、頭の中で選ぶ題は何なのかイメージとしてできあがっていて、題詠か吟行かではなく、その時の臨み方。題詠はいろいろ頭の中身が豊富になればなるほど、いい俳句ができていく。だから、まったくその時その場でふっと思いついた句かどうかっていうのは調べようがない。先ほどの〈大空に又わき出でし小鳥かな〉も『新歳時記』では「小鳥」の例句になっているけど、実際は「小鳥狩」っていう題詠の句会でやっていて。
星野:鳥網のね、いまいけないやつ。
筑紫:句会の後で、みんなで小鳥を食べてたっていう。小鳥を見てと思うけど、とんでもない。題詠の詠み方はものすごくパワフル。ダダイズムとかシュルレアリスムに相当するぐらいのパワフルな革命的な手法という気はしてるんです。
星野:伝統俳句系ではこういう話がないんですよ。私だけやってるんです、こういうことを(笑)。別にいいんですよ。その人が好きでやってるんだから。だけど、そういう話聞くチャンスがない。褒め合いで終わっちゃう。それじゃあ時間の無駄だよって、言ってるんだけど。もちろん、それで楽しんでる人たちもいて、それはそれで否定しないけども。
後藤:前衛だけがいるわけじゃなくて、極右と極左がいるのが現代俳句協会(笑)。
星野:その辺まだ把握してないので、私。(笑)
🔷俳句作りの壁
長井:この春まで6年間『現代俳句』の編集長を務めた際のテーマは「心に壁があっても、俳句の中に壁はない」。前衛と花鳥諷詠との区別は分かりますが、星野さんは現代俳句協会の副会長になられて、その間の壁の感覚はありますか。
星野:壁はあるんですよ。あるんですけど、その壁が俳句を作ることとか、選句することとかの広がりに障害になっちゃいけない。その壁というものは、どれが壁で、誰が何ということは、その人の内面のことなのでわからない、見えない壁ですよ。でも、それはかえって、俳句を作るときのハングリー精神に通じるんじゃないかな。あえてそういう、「困難」というか、自分を追い込むということをやらないと。俳句の伸びしろはなかなかないと思っているので。
長井:壁があれば乗り越えるという意味でしょうか。
星野:そうですそうです。そういうつもりで、そういうようなところでいいんじゃないか。私は基本的に協会とか結社とかは俳句を作るうえでどうしても必要とは思っていない。自分個人の作家精神はどこにあるのよと、これをちゃんとしなきゃいけない。そのために協会とか結社が要るんだと。結社、協会があって個人があるのではなく、逆だと思っている。そこをどう伝えるか。
柳生:その点でいくと、先ほども鎌倉の吟行の話が出ましたが、伝統派・花鳥諷詠派と現俳協の人々が同じ句座につく機会を増やさないといけない。その時、お互いが普段の選句をそのままやったら面白くならない気がして。両者が一緒に句会をやるとき、どういうことを注意したらいいでしょうか。
筑紫:一緒に句会をやろうって話がまとまった時点で、季語が入ってないからダメっていうことはないはずですよね、本来。句会は句会、点盛りだけじゃなくて、選評もある。選評で他人を納得させることのできる評ができて、無季でもここはいい、この句は有季だからなお良いなどというのが言えるのなら、批評が成り立ってる。批評空間さえ成立すれば、結果がどうあってもいい。良い例が小林恭二の『俳句の楽しみ』(岩波新書)です。安井浩司とか、摂津幸彦とか前衛派とちゃきちゃきの伝統派、花鳥諷詠派とが句座を共にして平気で点盛りをして、あれは良い、ダメだねって言っているんですが、けっこう点が重なっている。安井浩司がダメだといったものは花鳥諷詠派もダメだと言うとかね。有季とか無季とかの話を越えて、言葉の共通感覚というものをお互い披露して共感できる。そこが一番大事なんじゃないかな。それができないという人は、たぶん呼んでも来ない(笑)。(前衛の人があえて)花鳥諷詠の句を出すっていうこともなきにしもあらずだけど、それは逆に言葉の成り立ちを知ってるからできる。句会の幅広い楽しみ方としては、それもありじゃないですかね。だから、やりましょうと言ったときに、すべてのバリアが取りはらわれるんじゃないかな。
星野:伝統派と言われている人たちにも、「現代俳句」というのは何が「現代俳句」なの、形は一緒じゃないのという気持ちもある。社会性を詠ってるからそうなるのか、人間性の表現なのかと。ところが我々伝統俳句の方も社会性詠っているのもいっぱいいるんですよ。そこはお互いが認識しあうというか。欲してるものがあるわけね。刺激になっていいんじゃないですか。じゃあこっちの方がよかったとかじゃなくて、結果として。そういうことやってるのが一つのパワーになるんじゃないかなと。ぜひやりたいと思います。
🔷武蔵野探勝
柳生:社会詠といえば、『武蔵野探勝』を改めて読むと、昭和初期にハンセン病の人々が入院していた全生病院も訪ねています。その吟行記を星野立子が書いていることを知り、感銘を受けました。
筑紫:「ホトトギス」はハンセン病の方の句会は盛んにやってましたね。ホトトギス同人の医師本田一杉が、さきがけになるようなハンセン病患者の句会を全国で開き組織化していた。戦中に国の圧力で危うくつぶされそうになった時も身を挺して自費で維持してくれています。『武蔵野探勝』もそういう影響があるかもしれません。本田が亡くなった後、戦後その運動を引きついたのが大野林火でした。
星野:そうです。さらに、夏は暑いから、冷房がほとんどなかった当時、それがあるデパートに行ってやってるんだね。デパート吟行。夏の団扇とか売っているのを句材にして。ああいうアイデアっていうのかが斬新。それで文章は必ず順番なんですね。秋櫻子が書いたり、立子が書いたり。その時の得点のいい人が書いてる。現俳はイメージとして吟行が少ないんじゃないかという気がするけれど、どうなんですか。協会として。
後藤:結社ではある程度やってる。イメージ的に「前衛」と「句会」があまり結びつかないかもしれないけど「前衛派」も人によってはやってる、句会はね。
筑紫:大好きな人と、大嫌いな人がいる。(笑)安井浩司なんて大嫌いでしょ、句会が。澤好摩は大好きでした。
星野:僕らにとって句会はもう、最低条件。
後藤:現俳協は句会なしでも作れるっていう人はたくさんいる。
筑紫:同人誌さえ出せばね。
星野:僕なんか、路上ライブの星野と言われてますよ。そこでやってる。
(2024年4月24日 現代俳句協会本部)