一行の行方(前編)
— 縦から横へ —
木村聡雄
俳句は「縦一行書き」である。上から下へという文字/思考の流れにこだわりを持つ俳人は少なくないだろう。一方、本論で述べる海外の俳句の多くはその言語特性から横書きであり、外国語俳句を扱うこの原稿も便宜上横書きである。気がつけば、わが国が文字文化の手本としてきた漢字発祥の中国においても、今から100年ほども前の20世紀初頭には横書きへと変わってしまった。現代日本でも、文芸や出版物、書道や国語の教科書などを除けば、スマホ・PC、日常・仕事の文書も横書きが基本である。スマホを句帳代わりにしている俳人もいるが若い世代ほど横書き中心で、スマホの文字列をわざわざ縦書き設定にする人はどれほどいるだろうか。
欧米の俳誌は横書きといっても三行程度がほとんどだが、その中には「横一行書き」の句も少数ある。後編でもさらに述べるが、海外の俳句で一行を選ぶことは、日本の一行書きへの憧れに始まり、外国語俳句の伝統を革新したいという意思の表れである。とはいえ言語的に縦書きにはならず、横書きのままではある。今回は、海外の「一行句」における「横書き」の効果という視点から考えてみよう。
一日中雨思いは繰り返し コニー・ドンリーコット
rain all day thoughts repeat Connie Donleycott (frogpond, 31:2)
日本では今まさに梅雨の季節で、毎日のように降り続ける。ここに書かれている雨の日の誰もが感じる堂々巡りの物憂いは、日本の雨季の気分そのものとも言えそうである。「繰り返し」と表現されているが、最後まで読み終わるとまた最初に戻って行くような循環性も感じられる。雨は天から降る垂直的現象だが、横書きの効果について考えると、たとえばカメラ映像が水平に360度回ってまた二周目の「繰り返し」となるような、雨の街をぐるりと映す円環的風景も浮かんでくるようである。
星が闇に穴をあけるごとく十二月 ジム・ケイシャン
as though the stars drill holes through darkness December Jim Kacian (frogpond, 31:1)
米俳句団体『ハイク・ファウンデーション』の代表であるこの俳人とは、私は直接会って意見交換したこともある。この作品は、光源をたとえば黒い厚紙などで隠しておいてその紙に小さな穴をあけてみる、といった子供の頃の自作プラネタリウムなどの工作を思い出させる。正確に読めば、穴をあけるのは人ではなく星自体だという。星の不思議を比喩的に捉えた句である。縦書きなら星の光は天から地へ垂直方向に届くのだろうが、横書きという観点では前述のカメラのイメージにも似て、光は水平にはるか宇宙へと広がって行くかのようでもある。
漢字文化の本家同様に、日本の俳句においてもグローバリゼーションのさらなる波が寄せてきて、横書き化が進むだろうか。また縦から横へという変化は、こうした海外作品の読みのような新たなパースペクティブを生み出すことになるだろうか。
(俳句和訳:木村聡雄)
[Where One Line Goes (1) ―From Vertical to Horizontall Toshio Kimura]