既視感について

木村聡雄

 『フロッグポンド』と聞いて思い浮かぶものは…。このアメリカの俳誌の名称は、世界中の詩の愛好家に端的に芭蕉の句を連想させるものだろう。この誌名には少し工夫が加えられていて、まさにかの句に登場する池を表すべく、いわゆる造語として Frogpond と一単語で綴られる。語頭の “F” の文字は、俳句作品中にしばしば見られるように小文字 (frogpond) で表記されることも多い。「蛙池」とは、すでに世界中で俳句を示す記号となっているのである。俳句が広く詩形として定着しているアメリカには主要な俳誌が二つ存在する。この『フロッグポンド』と、もうひとつは少し前(2024年2月)のこの海外俳句論で取り上げた『モダン・ハイク』である。二誌の違いは、『モダン・ハイク』が独立系組織の発行であるのに対し、『フロッグポンド』は、「アメリカ俳句協会」(Haiku Society of America, HSA) の機関誌ということである。両誌のメンバーには重なりも見られる。
 アメリカ俳句協会は全土にまたがる組織で日本以外では最大級の俳句団体とも言われ、創設は1968年、アメリカのみならず世界中から俳人が集まっている。機関誌『フロッグポンド』の創刊は1978年で、年3回発行。毎年、大会や研究会など大小の会合を各地で開催している。私もイリノイ州シカゴ近郊での全米大会に招かれ講演を行ったことがある。(アメリカ人はご存知のようにパーティー好きなのでその大会の夜はバーをはしごして12時過ぎまで盛り上がったのは懐かしい思い出である。)その後私は、『フロッグポンド』に俳論も載せた。(“A New Era for Haiku” Frogpond 37:1, 2014, Haiku Society of America, U.S.) 以下がHSAホームページ上の拙論のURLである。
https://www.hsa-haiku.org/frogpond/2014-issue37-1/essay.html
 私の主題は、たとえば新興俳句や戦後前衛俳句など、わが国のもうひとつの俳句史としての非伝統俳句の展開であった。これまで、日本人や外国人による海外への俳句の発信では、俳諧から昭和前期あたりまでの伝統的な流れにほぼ限られていた。(金子兜太の翻訳はいくつか見られる。)しかしながら、あえて非主流であり続けようとするオルタナティブ派について発信しようとする人はめったにいないので、この拙論はありがたいことに喜んで迎えられたのであった。もともとアメリカ人は建国時、あるいはそれ以前からヨーロッパの伝統とは異なる新たな基準を創りだすことを目指したてきたのだから、こうした非伝統性に前向きに反応する態度は彼らの本質と言えるのかもしれない。

 さて本論後半では、『フロッグポンド』同号からの俳句を引いてみたい。 

  しおれた薔薇
  これが私の
  語ったものか  ジニー・マーティン
  wilted rose
  was it something
  I said     Jeannie Martin (Frogpond 37:1)

 薔薇にも多種あるとはいえ、季節感としては夏の盛りを過ぎるころには萎れて行くのだろう。花びらもくすんで落ちかけた薔薇を目にしたそのとき、この俳人は既視感に襲われる。いや、既視というより、「既に語った」という感覚である。かつて自らが口にした(かもしれない)言葉がここに存在していると一瞬にして悟ったのである。(「既視感」も、実際には見ていないものを見たと感じるということなので、、ここでも実際に語ったかどうかは分からない。)俳人の発した具体的な言葉がどのようなものかは読者それぞれの想像に委ねられているのだが、一行目の表現から想像すれば、もしかするとアポカリプス(黙示録)におけるハルマゲドン(終末)かもしれない(やや大袈裟か)。この不可思議なデジャ・ヴュ感覚は白日夢の類いか、単なる脳神経のいたずらか、それとも詩的想像力の賜物だろうか。読者の中にもこうした現象を経験した方々もいることだろう。この作品は、自分の言葉が薔薇と言う他者によって再現されるという思いがけない交感について言及したものと言えるだろうか。

  月昇り
  家へと向かう
  闇の流れを遅く    フランシス・マサート
  the rising moon
  slows the flow of darkness
  towards home    Francis Massat (Frogpond 37:1)

 秋の夕方、すでに日は暮れはじめ家に着くころにはあたりは真っ暗になっているはずである。そんなときに月が昇ると、ありがたいことにあたかも日の入りが遅くなるかのように思われたのだろう。俳人はこの状況を、月の出が家への「闇の流れ」を遅らせると捉えたのである。闇が家路を流れて行くというのは変わった表現であるが、海外俳句論の視点に沿って地球規模で考えるなら、今暮れかかるこの時、地球の裏側ではまさに明けようとしているのである(地球の自転により太陽の光が当たる方へ向かう)。われわれには地球の動きは感じられないので、闇のほうが惑星の自転とともにある場所へと流れてくるかのようにも感じられなくもない。いずれにせよ、夜道を導く友としての月との交感の一句とも読めるのではないだろうか。
 海外においては、想定されるように、われわれとは違う詩法を駆使して俳句を書く人々がいる。(そしてこの日本においても様々な方法で俳句を目指す流派がいる。)それらを受け入れることも俳句の地平の新たなる開拓であるように感じられるのである。
(次回は8月頃に掲載予定)
[On Déjà vu Toshio Kimura]