ルーマニア俳句夢うつつ

木村聡雄

 2024年元旦の能登半島地震の被害には心が痛むばかりである。変わり果てた町の様子の映像ニュースは世界を駆け巡り、遠くルーマニアの俳人マリウス・ケラル氏からお見舞いメールが届いた。東京では幸い強い揺れはなく無事である、という御礼の返信をした。彼は、かつて私が多言語俳句アンソロジーBlue Planet (2011) を編んだときに作品を寄せてくれた海外俳人のひとりで、今回は本論後半でその後の作品を挙げてみたい。

 さて、ルーマニアというと皆さんはこの国についてどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。東欧の国で首都はブカレスク、2007年以降はEU加盟国のひとつ…。そして、ここは世界中の誰もが恐れる謎の中世の貴族の故郷なのである。その人とはドラキュラ伯爵。ルーマニアの古城の主が吸血鬼であったという物語の原作は19世紀末のアイルランド作家ブラム・ストーカーによるものである。何度か映画化されているが、なかでもクリストファー・リーがドラキュラ役の1950年代の映画『吸血鬼ドラキュラ』に関しては、子ども時代の私も彼の血の滴る牙に泣き出したひとりである。ドラキュラのほかにもルーマニアには今も魔女伝説が残ると言われる。これらの伝説はこの国をどこか神秘的な場所にさせている。そんな恐ろしい妖怪は苦手という人でも、もし妖精に惹かれるなら20世紀後半の体操界の花形で日本でも人気を誇ったナディア・コマネチの方がルーマニアのイメージだろうか。とはいえ、あの完璧すぎる演技を思い出してみれば、もしかしたら彼女もまた普通の人間というより妖精ティンカー・ベルの一族なのかもしれない。

 東欧では俳句が盛んであるとよく言われるが、ルーマニアには俳句協会も存在する。実は私自身も「ルーマニア俳句協会 名誉会員」である。十数年前に私がこの隣国ハンガリーでの俳句イベントに参加した際、ルーマニアの俳人たちと親しく交流する機会があった。その後ルーマニア俳句協会の名誉会員証をいただいて仲間に加えてもらったのであった。両国ともEU圏なので国境を越えた行き来も普通である。(ルーマニアは戦禍のウクライナとも一部は国境を接している。)

町寂れ鶴休むばかり秋とこしえ マリウス・ケラル(以下同じ)
deserted village
only cranes sleep here―
forever autumn Marius Chelaru
(『千の言葉と千の鳥』(2017年、ティンプル出版、ルーマニア)

古い歌だけ朽ちた壁に―家無き歴史
only ancient songs
among the ruined walls―
homeless histories Marius Chelaru
(出典同上)
 こうした作品はルーマニア都市部の近代的な景色の向こう側に潜む社会のもうひとつの姿を描いたものだろう。作者自身は首都ブカレストに次ぐ大都市で国の北東部に位置するヤシ (Iași) に暮らしている。その町の歴史は、古くはオスマンなど常に外敵と向き合ってきたという。
 一句目、争いか経済的理由か、かつて町に暮らした人々に代わって今では鶴が自分たちの楽園のように生息しているという。町や村が消えて行くかもしれないという状況は、日本においても宇多喜代子氏の高齢化などによる限界村落の話が思い出され、他人ごとではないようである。(ところで、宇多さんには私が20代前半の頃からお世話になってきた。当時私は、澤好摩氏の『未定』という新興俳句系の俳誌の最年少で、その後編集人を務めた頃である。1970年代から80年代にかけては海外の俳句が日本で話題になることも少なく、私自身も当時は俳句と言えば日本語に限ると信じていた。)
 二句目は、我が国も含め、紛争あるいは災害や経済的理由などによっても家を失った人々が数多くいることを再認識させる。そんな町から追われた人々が昔から歌い継いできた歌の残響だけがどこからともなく聞こえてくるようである。民族に伝わる歌詞や旋律の響きはそれぞれの国の今日の詩にも響いているかもしれない。
 
新たな年新たな争が世界にて
a new year
a new war
in a foreign world Marius Chelaru
(出典同上)
 東欧の国々は先の大戦で翻弄された。ルーマニアはもともと王政だったが、第二次大戦では旧ソ連の影響により社会主義となった。1989年以降は共和国となり、今では西側の一員である。現在のウクライナという隣国、中東のガザといった周辺世界の争いは彼らのとっては単にテレビのニュースの中の出来事ではないのである。

我と月と向き合うカップはからのまま
me and the moon
face to face
with the empty cup Marius Chelaru
(未発表)
 作者と月とが面と向き合っていると言う。月も確かにこちらに微笑み返してくれているのだろうが、月とは空を仰ぐあらゆる人々に対してそのように優しいものだろう。コーヒーカップがからっぽということは月と向かい合ってすでに一定の時間が経っていることを示している。いずれにせよ、作者が月を見上げて物思いに耽っているところを詠んだ句なのである。ただ感傷に耽っていると感じられるかもしれないが、思えばわれわれも普段から同様であるかもしれない。たとえば一句ひねろうとして浮かばないとき、夜の窓辺ならきっとわれわれも月に見上げながら言葉を探すことだろう。さて作者はこの後、名月の句をものにしただろうか、それともおかわりのコーヒーを一口飲んだだけでベッドにもぐり込んでしまっただろうか。
 ルーマニア俳句の一端を見てきたが、言葉や詩の技法は違っても一句に込められた思いという点ではわれわれとの共通性が少なくないようである。
(俳句和訳:木村聡雄)
[Dream and Reality in Romanian Haiku Toshio Kimura]
[2024/04]