第40回現代俳句評論賞 受賞作
星空と夕かげ―潁原退蔵、その晩年のまなざしについて―
外山一機

Ⅰ 潁原退蔵の戦後

 敗戦を迎えると、潁原退蔵はそれ以前と異なり、しばしば同時代の俳句の書き手を意識した発言を行なうようになった。「有季定型という俳句の伝統的な規範や虚子の花鳥諷詠という言説を季語の発生から歴史的に検証することで、初めて実証的・論理的にその規範や言説から解き放った画期的論考」(1)であるところの季題論・季語論はその一つだが、ここで注目したいのは、象徴詩としての俳句の詩的特徴を論じた一連の作である。その多くは『俳句周辺』(2)に収められたが、それにしても、近世文学研究の草分けとしてのそれまでの潁原のキャリアを考えれば、こうした仕事はやや異色のものであった。昭和一三年に上梓した『俳諧文学』(3)で自らいうように、潁原の仕事の力点はいわば「何が俳諧文学であつたか」を明らかにすることにあり、「何が俳諧文学であるべきか」を説くことに対してはたえず慎重だったからだ。
 いずれの論考も、第二芸術論の出現など敗戦直後の日本の文化的危機を懸念する昭和二〇年代前半の空気のなかで、すでに著名な近世文学研究者であった潁原が周囲の求めに応じて記したものであろう。もっとも、宿痾を抱え昭和二三年に病死することを思えば、清水平作が「ことに現代俳句のため身を挺して俳句論を樹立されるものであつたに違ひない」と述べているように、(4)それはまさしく「身を挺して」の仕事であった。一方で、そこに示されている潁原の態度には、まるで、それまでに自らが心のうちに育んできた俳句観をほんの少し思い返しさえすればそれでじゅうぶんであったかのような、不思議に落ち着いた構えが感じられる。それはまた、潁原が俳諧あるいは俳句形式の持つ可能性をむやみに言い立てるのではなく――潁原に「芭蕉俳諧の限界」(5)という一文があるように――、その限界を見据えているがゆえの安らかさでもあった。むろん俳諧や俳句に対する否定論ではない。晩年の潁原が繰り返し示唆していたのはその宿命のありようであり、その宿命の引き受けかたを身をもって示すことに心を砕いていたのである。すなわち、昨日の俳句を明日の俳句として生きること――換言すれば、「何が俳句であったか」という、過去を照射する問いを、そのまま「何が俳句であるべきか」という、未来を照射する問いと同定しつつ、自らの生の尊厳のいくばくかをその答えの賭け金としていたところに、晩年の潁原が編みあげた俳句観の強さと、悲しみを帯びたその危うさとがあった。
 そこで本稿では、戦時下から戦後にかけての潁原の発言を読みとりながら、潁原がその晩年に辿りついた俳句観を追いかけてみたい。

Ⅱ 日本浪漫派との共振れ

俳句の世界は十七音の中にある。それはあくまでも現実の上に立つとはいへ、そこにはどうしたつて現実を描写し尽すことは出来ないのである。所詮は焦点を小さく定めてしかもその周囲に又背後に、大きな、しかし見えない現像を描き出す外はない。即ち極度に余情の美を発揮すべき努力こそ、俳句に与へられた宿命的なものであつた。だからそれは現実の描写であるよりは、現実の象徴化に向かはざるを得ないのである。不完全な表現によつて最も完全な表現たらしめる幻術、それが俳諧のさびであつた。(6)
 
 潁原のいう「俳句に与へられた宿命」とは、「余情の美を発揮すべき努力」を要求するものの謂であった。潁原によれば、俳句とは象徴詩であり、フランスの象徴詩が「文芸や詩自体の主流とはなり得なかつたことを思へば、俳句が近代詩として成立しうるとしても、そこに大きな限界があることを否定することは出来ない」というのである。(7)潁原にとって俳句とはこのような宿命を持つものであった。
 ところで、潁原が象徴詩としての俳句について論じるとき――とりわけ「大きな、しかし見えない現像」すなわち「余情の美」の表出を論じるとき――、繰り返し語っている前提がある。それは、人間が無限なるものに憧れる存在であるということだ。

 人間はそれ自体としては本来有限的な存在である。しかも同時に無限に通ずることの可能を信じようとする。(8)
 
 これは潁原の独創ではない。すでに土田杏村の「御杖の言霊論」のなかに「象徴主義とは、結局御杖の如くに或る有限に於て無限をあこがれることに外ならぬ」という言葉がある。(9)奥山文幸によれば、高校時代の保田與重郎が象徴主義を語る際、「御杖の言霊論」をほとんどそのまま用いて「象徴主義とは一より多を、有限より無限をあこがれるものである」と定義しているという。(10)僕は、潁原が土田の文章を読んでいたといいたいのではない。ましてや高校時代の保田の文章を読んでいたといいたいのでもない。ただ、後述するように戦時下において日本浪漫派に少なからず共鳴していたように見える潁原が、戦後にあって象徴詩としての俳句を語るとき――たとえ偶然であれ――その文言がかつての保田の言葉と近似している点に、彼らの美意識や思想の繋がりの根深さを思うのである。
 戦時下の潁原と日本浪漫派との関係についてはいまだ不明の部分が多いが、戦時下の潁原の文章を読むかぎりその影響がなかったとはいいがたい(なお、戦時下の潁原の発言を読むうえでは、芭蕉の作品が次第に「日本」および「日本人」を背負う役割を担うようになった戦時下の状況(11)との影響関係も看過するわけにはいかないが、ここではひとまず措く)。考えてみれば、『コギト』に関わった杉浦正一郎や伊東静雄は学生時代に潁原の薫陶を受けていたのであったし、潁原が同誌に幾度か寄稿しているのはその縁もあったろうが、それ以上に保田が潁原の仕事に敬意を表していたからであろう。実際、保田は「芭蕉を民俗の文藝として復興する」仕事の「現在の成果」を、「私は潁原退蔵などと云ふ人によつて代表せしめるのである」とさえ述べているのである。(12)一方の潁原も、「保田君の『日本の橋』はたしかに我が国の芸術批評の上に、最も本然的であるべき精神をみごとにうち樹てたものであつた」と評していて、(13)年の差はあっても互いにその仕事を高く評価していたことがうかがえる。
 その保田について、渡辺和靖は「文芸の血統を明らめる」方法、すなわち「発想と連想を一そう骨組に洗つて一の血すぢをみる方法」としての「血統」を提示していたと指摘している。(14)ここでいう「血統」とは「知識で心ときめかすのでなく詩人のすぐれた魂で、あるひは心臓でぢかに古典の心臓にふれる」ことによって確かめられるものであるという。ようするに歴史的な実証を超えた方法であり、保田はこの「血統」を持ちだすことで、芭蕉を通して後鳥羽院を語るという特異な仕事さえ成し遂げたのである。
 保田が昭和一四年に思潮社から上梓した『後鳥羽院』はそれまでの自身の血統論を最も整備したかたちで提出した仕事であった。その同年、潁原が次のような発言をしているのは、はたして偶然であろうか。
 
而してこの詩歌の美を規定するものは伝統である。伝統は歴史を貫いて流れる民族の血である。生命が血によつてのみ受け継がれる如く、日本文芸の詩は日本文芸の伝統以外からは生れ得ない。(15)

 金仙花は日本浪漫派や京都学派の言説を「過去=神話=伝統的秩序(天皇)という過去回帰の叙事」としたうえで、過去(伝統)とは「永遠の現在」や「顕現」の時間を意味するエピファニー的時間であるとしている。(16)ならば、保田らの思想から戦後の潁原が示した人間観までの距離もまた、一見するとほんのわずかであるようにも思われる。しかしここで改めて注意したいのは、保田が「日本の橋」を発表し文壇の注目を集めたり『日本浪漫派』が創刊されたりする数年前、すでに潁原が次のように語っていたことである。
 
確実な資料の捜索、さうしてその上に立つ精緻な考証、それがすべての研究の基礎的工作として最も尊重さるべきことは言ふまでもない。(略)だが所謂燃犀の史眼といふのも、やはり箇々の行為を思想の発展の中に正しく把握し得る鋭い直覚をいふのではあるまいか。さうなると最もすぐれた史伝家と小説家との才能は、まさに全く同一のものでなければならない事になる。(17)
 
 藤井紫影に学んだころから一貫して実証性を重視する研究者として知られてきた潁原にこの一文のあることは意外だが、保田の仕事を待たずとも、潁原がその歴史観に「伝統は歴史を貫いて流れる民族の血である」というような、実証性を飛び越えた発想を含み込む可能性はすでに胚胎していたようである。とすれば、彼らの仕事が、一時にせよ共振れを見せたのは自然なことだったのかもしれない。

Ⅲ 星空、あるいは永遠への思慕

 それにしても、潁原のこうした資質はどのように育まれたものであったろう。安易な想像は許されまいが、たとえば「乳離れ頃から急に身体が弱くなつて、男の児に交つて男らしい遊びなどすることも出来なかつた」という一方で『少年世界』を愛読していたという少年時代や、(18)学生時代に亡弟と父の写真を胸に「悲しい甘い情緒」に浸りながらとぼとぼと歩くような「純情にして覇気に満ちた」青年時代を送ったことを思いあわせてもいいかもしれない。(19)あるいは、〈毬むけば二つ並べる栗淋し〉(20)などの句作にうかがわれる繊細な性質を想起してもいいかもしれない。なお、中村幸彦は潁原がカトリックの神父からラテン語の手ほどきを受けた話などを引きつつ「あの科学的な学風にかかわらず、宗教というか、ミスティックなものに対する憧憬信頼を何かの折に示されたのは、こうした若き日にめざしそめたのであろう」と推測している。(21)
 だがこうした若き日の体験にくわえ、戦時下における潁原のありようを考慮しないわけにはいかないだろう。

私は真夏の数旬の間を、仰向けに寝たまゝで暮さねばならなかつた。その間に世の中はめまぐるしいほどの急変である。出征兵士を送る万歳の声があちらでもこちらでも沸き起つてきた。ある日は赤襷をかけた義弟が、私の門口からも勇ましく出て行つた。子供たちが旗を打振つて、「叔父さん、万歳々々」と叫んだ。床の中に何一つ仕事も出来なくて、私はじつとそれを聞いて居るのである。(22)

 この一文を草したのは昭和一二年。この前年、潁原は腎臓病のために教職をすべて辞し、療養生活を送っていた。教壇から離れる一方で輪読会や執筆の仕事は依然として精力的に行なっていたが、年譜(23)を見る限り、扁桃腺炎から腎臓炎を再発した夏以降の数ヶ月間はたしかに執筆のペースが落ちていて、「床の中に何一つ仕事も出来なくて」と記した潁原の歯がゆい思いが想像される。
 戦時下にあって銃後の病者として生きざるをえなかった潁原のいう「仕事」とはいかなる性質を持つものであったのだろうか。この点に関して、鈴木勝忠が示唆的な発言をしている。(24)鈴木は昭和一三年に潁原が上梓した『俳諧文学』について、「芭蕉に至つて、俳諧文学はすでに笑の文芸ではなくなつた」あるいは「俳諧が俗談平話の文芸たる意義は、芭蕉に於いて真に正しく完成された」という結語に対し、「通俗の方への揺り返しを切り捨てた発言」と評する。さらに鈴木は「芭蕉によつて確立された俳諧の文芸性が最も正しいものだと信ぜられる限り芭蕉の俳諧の伝統は常に生きて居なければならない」という箇所についても、「芭蕉を最高と信じている人々を念頭に置いて、しかも、第二次世界大戦という戦時下のある意味での制約を、読みとることができるようにも見える」と述べる。櫻井武次郎によれば、潁原は「昼間から夜にかけて俳諧その他の研究を行ない、夜、床に入ってから雑俳書に親しんだ」という。(25)雑俳は潁原自身が開拓に大きく貢献した研究分野であったにもかかわらず、そこに象徴されるような俳諧の通俗的な部分を切り捨てた戦時下の潁原の発言には、いわば「床に入ってから」のひそかな楽しみを公にすることが憚られるような「戦時下のある意味での制約」への慮りがうかがわれる。とすれば、そうした「制約」のなかで――いわば「昼間から夜にかけて」のふるまいが相対的に肥大化せざるをえないような状況のなかで――潁原が俳句を語るとき、しばしば「正しさ」という言葉が用いられたのは当然の成り行きであった。

戦勝の新年を迎へる喜びにひたりながら、また國の前途を深く思はずには居れない。芭蕉の一生が何を私に教へたか。一筋の道に進む國の歩みに従つて、自分もまた与へられた一筋の道を迷ふことなく進んで行かう。誠を勤める國と人とのみが、真に叡智の正しい導きを得べきことを信ずるのである。(26)

 「正しさ」への傾斜はまた、失われゆくものへの愛惜と地続きのものであった。戦局の悪化した昭和一九年にあっても素龍本「奥の細道」の発見を喜び複製の刊行を企図したり、あるいは「かうした世の中に何をするのが最も有意義であるか」と悩みつつ「せめて日本語を集めた仕事をしておきたいとの考」から「辞書の仕事」をしたりと、(27)潁原は悪戦苦闘している。もちろん、この「辞書の仕事」が「国民の正しい伝統的語感」に従って「日本語をもつと純化し、もつと美しくしたい」という発言(28)と表裏をなすものであることはいうまでもないだろう。僕は、戦時下の潁原が状況に無批判だったとは思わない。実際、昭和一八年の日記には「今日文学報国会の報告などを見ると、仕事をする人々が一にも二にも自家の勢力拡張といふ政治的な動きにのみ走つて、真に学問の為芸術の為に精進しやうといふ誠意がないのは遺憾である」という言葉も見られるのである。(29)また僕は、かつての三島由紀夫の『文藝文化』評――「戦争中のこちたき指導者理論や国家総力戦の功利的な目的意識から、あえかな日本の古典美を守る城砦であった」(30)――のように、ある種の保守的なふるまいとしてのみ理解しようとも思わない。むしろ僕は、潁原のこうしたふるまいに、日々悪化する状況のなかで、戦場に行くことのできない身体を持つ家長であり、同時に、失われゆく「日本」なるものを憂う一人の人間でしかありえなかった潁原の切ない姿を見るのである。とはいえ、日本語詩を愛しその宿命を見届けようとする潁原のたたずまいは、民族の宿命を引き受ける身ぶりへと接近していく。「詩歌の美を規定するものは伝統である。伝統は歴史を貫いて流れる民族の血である」という発言も、保田の仕事に対する共感も、こうした戦時下の文脈のなかで現れたものではなかったか。
 ただ、憂鬱と焦燥の日々のなかで、潁原がそれでも失わなかったのは――むしろますます強めていったようにさえ見えるのは――美への憧憬であった。
 
 ある基地からの便りの一節にかういふ事があつた。敵機の夜襲である。地上には轟々たる爆音が響き、空中には高射砲の白い烟がむくむくと湧いて居る。その間にふと仰いだ星空の美しさが、瞬間ではあるが烈しい戦ひを忘れさせてしまふ程心をひいたといふのである。さうした時、人の心は恐らく永遠への思慕に充たされて居るのであらう。それは戦ひを忘れたのではない。戦ひを超えて一切を神の姿に於て見たのである。その時自己に纏はる一切の感情は消え去つて居る。喜びも悲しみも、自己を離れた遠いあなたに、一点の慈光となつてあらはれ深く輝く。(31)
 
 ここに見られるような、永遠なるものの持つ美への思慕を語る言葉は、潁原が戦時下から戦後へと時代をまたぐようにして書き続けた明恵論においてもほとんどそのまま繰り返される。昭和一五年に一部が初めて発表されて以来、昭和二一年の『明恵上人』(32)上梓をもってようやく完結を見たこの仕事は、研究分野の広い潁原にあっても異色の作であった。自身も専門外であることを認めながら、それでもなお明恵にこだわったのは、「ただ上人の清純な一生を深く思慕する」という念に駆られたためであったようだ。また潁原が高山寺で明恵の遺筆を筆写した日々を思い起こしつつ、「あまりに眼前の勝敗に捉はれすぎて、何が真に日本を永遠に生かす道であるかを見失つてはならない」と記していることを鑑みれば、(33)文化的・精神的な荒廃を危惧する思いが明恵の体現する「清純」さや永遠なる美に対する関心へと繋がっていったようにも思われる。とすれば、すでに述べたように潁原がこの『明恵上人』で先の文章とほぼ同じ言葉を繰り返している理由も了解されよう。
 永遠なるものを思慕するいとなみは、当時の潁原が自らを救済するために残されたほとんど唯一の手立てであった。ただ、他の仕事と異なるのは、『明恵上人』においては、永遠なるものの美を思慕してやまない人間の「清純」さを長女夫妻の生のなかにも見出だし、同書上梓の直前に起こった――おそらく敗戦に伴う絶望を要因とする――長女夫妻の心中という悲痛きわまりない事態を前にして、彼らの、そして自分自身の尊厳を懸命に守ろうとしていることである。

しかし彼は彼なりに美しい一生を終りたいと願つたのである。彼がひたすらにN子を愛し、又国の歩みを思ふ純情は、彼の日記を読む間に私の胸を強くひきしめるものがあつた。国の大きな不幸のうちにあつても、星は美しく空にかがやいて居る。今こそ人々はこの星空を静かに仰いで、永遠への思慕に心を充たすべき時ではないか。(略)人が上人の如き生涯に美しさを感ずるかぎり、永遠への望みを捨てることはないのである。さうしてSとN子との死に於ける純情をも、私は決して無意味に終るものではないと思ふ。

 戦時下から戦後へとうつろうままならない生のなかで、潁原はそれでもなお星空を見上げ、そこに変わることのない美を見出だそうとしていた。その切ないいとなみのなかで、潁原は自らの俳句観をたしかなものにしていったのではあるまいか。象徴詩としての俳句を語る際に潁原が引き合いに出す「人間はそれ自体としては本来有限的な存在である。しかも同時に無限に通ずることの可能を信じようとする」という人間観とは、永遠なるものを思慕する存在として人間を見据えるこうしたまなざしの先にこそ宿ったものであるように思われてならない。

Ⅳ 夕かげ、あるいは幻への思慕

 戦争末期から戦後にかけて永遠なるものへの思慕を語った潁原だが、昭和二三年六月三日、京都での芭蕉講演会の翌日から最後の病床につくことになる。「蕪村を追うて」(34)はその病間に書かれた短い回想録である。

 結城地方を訪ねたのは春の休みであつた。弘経寺の襖に描いた蕪村の画を見た日、堂のうしろにはまだ雪が消え残つて居た。町から一里近い村の某家を訪ねたり、下館の中村家に半日を過したりして結城の旅舎に帰つた夜は、部屋がひどく古びて居た上に電灯の光までが薄暗かつたからであらうか、私は木の葉経の狸や『新花摘』に出てくる狐の夢を見た。今もあの宿の一室のさまは、眼前にありありと浮んで来る。さうして弘経寺の僧坊に昼寝して居る蕪村の姿までが想はれるのである。

 この文章について『潁原退蔵著作集』の編者の一人である清水孝之は「蕪村に始まり蕪村に終った著者生涯の蕪村研究回想」であるとしつつ、「本文に結城行は春休みとあるが、「年譜」によると大正十三年十二月であった」とやや気になる指摘をしている。(35)大正一三年といえば神戸高等女学校教授として神戸に移住した年である。同年は、俳書の収集で知られる川西和露と知り合うなど、潁原が近世文学の研究者として飛躍していく転機の年でもあった。結城で蕪村の画を見たことを記した一二月三日付の書簡もあり、また、翌年に上梓する『蕪村全集』の資料収集の時期であったことも鑑みれば、「結城地方を訪ねたのは春の休みであつた」という部分は潁原の記憶違いなのかもしれない。だが、それならばいっそう気になるのが、この「誤記」の箇所に続く「弘経寺の襖に描いた蕪村の画を見た日、堂のうしろにはまだ雪が消え残つて居た」という、妙に現実味のある一文である。清水が「その後再訪された折のことでもあろうか」と断定を避けているのは、あるいは不思議と生々しいこの一文のあるためでもあったろう。
 実をいうと、「蕪村を追うて」に記された結城行が春であったか否かということは、僕にとってたいした問題ではない。大事なのはむしろ、少なくとも一二月の結城を訪れたことは間違いないはずなのに、潁原が蕪村の記憶を真冬の雪ではなく残雪の記憶とともにあらしめたということのほうである。僕がこのささやかな文章にこだわるのは、ここに、最晩年の潁原が辿りついた詩についての認識のありようがうかがえるからだ。潁原にとって蕪村とは、冬の名残の雪のうすうすとした光や、薄暗い電灯の光とともにあった。その薄明かりの記憶とともに「弘経寺の僧坊に昼寝して居る蕪村の姿までが想はれる」のであった。そのことの意味を考えてみたいのである。
 そのうえで、もう一つの随筆をとりあげてみたい。「蕪村を追うて」執筆から二ヶ月後の八月一八日から二〇日にかけて、潁原は「夕かげ」と題する短文を記している。(36)すでに筆を持つ体力はなく、一日一枚の割合で口述したものだ。完成したのは死の十日ほど前。五四歳で亡くなった潁原の絶筆である。
 
 サンマー・タイムでも、午後四時を過ぎると、何処からともなく部屋の内に、夕かげがしのびこんで来る。おそらく最初のかげは床の間にひそんで居るのかも知れない。しかし、寝たまゝの姿勢では、其処はみえない。部屋の東北隅に台を置いて、そこに花籠が据ゑてある。病床から其処が一番見易いのである。ふと気がつくと、夕かげは先づそこの隅から、しのび込んで来るらしい。

 潁原は病床から、夕暮れの薄明かりに包まれた身ほとりに目を向ける。「マーガレツトの白い花」から、「簾こしに見える八つ手の青い葉かげ」に忍び寄る夕かげをまなざす潁原は、やがて「木犀とひづか(ママ)と二重になつた生垣のあたり」にうごめく夕かげがもたらす複雑な陰翳に、「十四年前能登の海岸で病をやしなつてゐた頃、海岸の向岸の島や山が、雨の日の夕方などに、際立つた陰翳を見せたことを思ひ出す」。昭和一一年、宿痾である腎臓病のために教職をすべて退いた潁原は、小浜、和倉、金沢、賢島と各地を転々としながら療養生活を送った。とすれば「十四年前」という記述は誤りで、正しくは一二年前ということになる。しかし、「蕪村を追うて」と同じように、僕はこの誤りを正したいのではない。夕かげのなかに自らの薄明かりの記憶を思い起こす潁原の身ぶりを、やはりいまは見ておきたいのである。
 七時になり、「完全に黄昏の気」が立ちこめたころ、潁原は庭の南天の葉や白い花の揺らぎを見つめる。「それを凝つとみてゐると、不思議にその茂みの奥から、ぽとぽとと水のしたゝる音がきこえてくるのである。水道の栓を、誰かしめわすれたのであらうか。いや、さうではない。しかし、たしかに水の音は聞えるのである」。混濁した能登時代の記憶は、やがてこの不思議な水音のもたらす思い出へとうつろってゆく。
 
しかしどうして、そんな幻聴が聞えるのだらう。病気のせゐでもない。私はその南天の茂みに、子供の頃しばしば遊びに行つた親戚のある家を想ひ出してゐたのである。(略)郷里に私はもう三十年帰らない。あの親戚の家も庭も、おそらく改造されてゐる事だらう。しかし、私の心にあの庭はずつとそのまゝに生きてゐるのである。さうして私を非常に可愛がつてくれた、その家の老人までが白い髯を胸に垂らした姿で今も生きてゐるのである。筧の音ばかりではない。その老人がにこにこと笑ひながら、夕かげの庭に立つてゐる。

 「郷里」とは、十歳のころから暮らした奈摩を指すのであろう。「わが生立ちの追憶」のなかで潁原は奈摩を「私の故郷」と呼び、「少年時代の懐かしい追想は多く奈摩を背景にして居る」と述べている。(37)しかし京都帝国大学の大学院生になりたての若き日(大正一一年)に新婚旅行をかねて帰省して以来、潁原が奈摩の土を踏む日は遂になかった。
 
 一体現実とは何をいふのだらう。マーガレツトの花からしのびよつた夕かげの色、南天の茂みの中から聞えて来る水の音、人は後者を幻聴と呼ぶのであるが、しかし、私にとつては、二つともたしかに現実であつたのだ。詩の真実とは、この様な現実をいふのではなからうか。私は蚊帳の中で、いつまでも水の音を聞いてゐた。
    夕かげに花白々と息づけり
    夕かげの風に明るき茂りかな
    幻を真実と抱く夕かげに

 潁原にとって、詩のうつしだす「真実」とはこのようなものであった。実際に見えるもの・聞こえるものだけが現実なのではない。幻もまた現実であり、その二つの現実がないまぜとなった「真実」こそが詩の表象するものであった。いわば、夕かげの薄明かりのなかに立ち現れる幻を「真実と抱く」こと。潁原といえば、「学問は所詮実証的でなければならない」(38)と自ら述べるように、厳密な学問的考証を重視する実証的な研究のありかたが語られがちだが、むしろ、このような意味での詩のありようを追究することにこそ、潁原が生涯を賭した文学研究という営みの本質があったように思われてならない。そしてこのような潁原のありように、「有限的な存在」としての人間が自らの生の尊厳を賭して「無限に通ずることの可能を信じようと」するふるまいの――それゆえ象徴詩としての俳句の宿命的な美を思慕してやまないふるまいの――極点が垣間見えるように思う。
 この種の「幻」を潁原は別の文章で「表現の奥に深く潜む美の香気」とも記している。(39)幻を「真実」と見、幻に美を見るというふるまいは、むろん「常に飛花落葉を見ても草木の露をながめても、この世の夢まぼろしの心を思ひとり」(心敬僧都庭訓)といった古人の言葉に触れるなかで身につけていったものでもあろう。しかし、潁原が一俳諧研究者であることにとどまらなかったのは、詩歌をはじめ日本語に基づく言語文化が形象化するところの「真実」を追究し、それらに通底する美のありようを明らかにすることにこそ潁原の本懐があったからではなかったか。潁原がその著作のなかで「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」という『笈の小文』の一文に幾度となく言及しているのも、たんにそれが芭蕉の理解に有益であるからというだけではあるまい。さらにいえば、潁原が研究者としてのキャリアの初期に研究対象として選んだのが芭蕉でなく蕪村であったということは、こうした潁原の身ぶりの本質をふまえるならば、ごく自然なこととして了解されるのである。すなわち、潁原にとっては芭蕉ですら、その「直接句とすべき対象に面して、その中に自分の心を深めて行かうとする」というありかたがもどかしく感じられ、むしろ「専ら古人のすぐれた芸術的精神を理解して、そこに詩境の統一を求めやうとした」「蕪村の俳諧に於ける工夫修養の態度」にこそ、惹かれるものがあったのではあるまいか。(40)
 その蕪村について潁原はこうも述べている。
 
だから蕪村の句にはその背後に彼自身の生活よりは、彼の美しい詩の夢がいつも見られるのであります。(41)
 
 そういえば「西鶴の日記よりも、夢で見た西鶴の方が本当の事を語つて居るのかも知れない」とも言っていた潁原である。(42)潁原は、いわば詩のもたらす夢をいつも追いかけていたのであった。


1 川名大「戦後俳句の検証」『昭和俳句の検証――俳壇史から俳句表現史へ――』笠間書院、平成二七
2 潁原退蔵『俳句周辺』天明社、昭和二三
3 潁原退蔵『俳諧文学』河出書房、昭和一三
4 清水平作「噫潁原博士」『宿雲』昭和二三・一一
5 潁原退蔵「芭蕉俳諧の限界」『青垣』昭和二二・二
6 潁原退蔵「富士を見ぬ日」『宿雲』昭和二二・四
7 潁原退蔵「俳句の象徴性」『俳句周辺』前掲書
8 同前
9 土田杏村「御杖の言霊論」『学苑』大正一五・八
10 奥山文幸「橋と言霊――保田與重郎「日本の橋」をめぐって――」『日本文学』平成四・六
11 藤田祐史「「芭蕉」を使用する 近現代小説と古井由吉の試み」
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12 保田與重郎『芭蕉』新潮社、昭和一八
13 潁原退蔵「『戴冠詩人の御一人者』」『コギト』昭和一四・一
14 渡辺和靖「保田與重郎における「血統」観念の形成」『年報日本思想史』平成一四・三
15 潁原退蔵「陣中銃後の俳句」『倦鳥』昭和一四・三
16 金仙花「「破局」と「再生」としての反近代―京都学派・日本浪漫派・アジア主義―」http://hdl.handle.net/2433/199386
17 潁原退蔵「考証の確実性」『国語国文』昭和九・七
18 潁原退蔵「わが生立ちの追憶」『潁原退蔵著作集』第九巻月報、中央公論社、昭和五四
19 岩田光子「穎原退蔵」『近代文学研究叢書』第六五巻、昭和女子大学近代文化研究所、平成三
20 尾形仂「年譜」『江戸文学研究』昭和三三・二
21 中村幸彦「潁原先生を思う」『中村幸彦著述集』第一五巻、中央公論社、平成元
22 潁原退蔵「序言」『江戸文芸論考』三省堂、昭和一二
23 「年譜」『潁原退蔵著作集』別巻、中央公論社、昭和五九
24 「回想・この一冊191 潁原退蔵著『俳諧文学』(日本文学大系16)」『國文學 解釈と教材の研究』昭和六二
25 櫻井武次郎「俳文学者列傳2 京大篇」『花実』昭和五九・一二
26 潁原退蔵「一筋の道」『決戦下学生に与ふ』京都帝国大学新聞部編、教育図書、昭和一七
27 潁原退蔵「潁原退蔵日記抄16 時局を憂ふ」『潁原退蔵著作集』第五巻月報、中央公論社、昭和五五
28 潁原退蔵「言葉の美」『新文化』昭和一八・三
29 潁原退蔵「潁原退蔵日記抄15 戦中の日々」『潁原退蔵著作集』第一一巻月報、中央公論社、昭和五五
30 三島由紀夫『私の遍歴時代』講談社、昭和三九
31 潁原退蔵「遊心と童心」『やまと』昭和二〇・一
32 『明恵上人』生活社、昭和二一33 「序」『俳諧精神の探究』秋田屋、昭和一九
34 潁原退蔵編『蕪村全集』第二巻折込(百花)、創元社、昭和二三
35 清水孝之「後記」『潁原退蔵著作集』第一三巻、中央公論社、昭和五四
36 潁原退蔵「夕かげ」『宿雲』昭和二三・九
37 前掲「わが生立ちの追憶」
38 潁原退蔵「序」『江戸時代語の研究』臼井書房、昭和二二
39 潁原退蔵「追憶と余情」『世間』昭和二二・一二
40 潁原退蔵「蕪村の人と芸術」『江戸文芸』晃文社、昭和一七
41 同前
42 前掲「考証の確実性」