第39回現代俳句評論賞 受賞作
「桜(しゃくら)の花の美(いつく)しさようなあ ―石牟礼道子俳句が問いかけるもの―」
武良 竜彦

1 石牟礼文学との出会い

  わが酔えば花のようなる雪月夜 『天』

  祈るべき天とおもえど天の病む  〃

  月影や水底の墓見えざりき    〃

  天日のふるえや衣のみ舞い落ちぬ 〃

  さくらさくらわが不知火はひかり凪 〃

  童んべの神々うたう水の声「水村紀行」

  女童や花恋う声が今際にて    〃

  花ふぶき生死のはては知らざりき 〃

 石牟礼道子はこのような内容の『天』という句集を上梓している。(注1)二〇一五年五月に『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(藤原書店※以降の俳句作品の引用は本書から)が上梓されると、その翌年に俳句総合誌「俳句四季」が設けている「第十五回俳句四季大賞」を受賞した。同誌に選考に当たった選者たちの言葉が掲載されている。(注2)選者たちの評価の言葉を要約すれば、評価の理由は「通常の俳人の作る俳句とは異質であるが、既存の俳句表現の枠を超えて、表現の可能性を広げた」ということのようだ。その可能性の意味を論考する必要があることはいうまでもないが、石牟礼俳句が評価されなければならない最も重要なことは、その作品の背後に横たわる表現論的な問題ではないだろうか。
 本稿起稿の目的はそこにある。
 評者は石牟礼道子と同郷の水俣出身である。評論文の冒頭に随筆的な「わたくし事」を表明するには理由がある。石牟礼文学にどんな視座で出会ったかということが、表現論的に重要だと思うからである。
 評者は母方の親族が水俣病の被害に遭った漁師一族である。父は水俣病の原因企業となる「チッソ」水俣工場の工員だった。評者が育ったのはそんな水俣病の加害側と被害側が交錯する家庭だった。水俣病が顕在化し始め、母方の実家と親戚が、初期の劇症型水俣病の被害に遭い、家庭が崩壊してゆく有様を間近に見て育った。薄暗い部屋の隅で全身を痙攣させながら呻き声を上げる親族の姿が、今も心に焼き付いている。そこで目の当たりにした地獄、命の虐殺の現場では侮蔑、偏見、嘲り、その反対の労り、慰め、同情も、無意味であり、どんな言葉を使おうが軽薄、滑稽なものに感じられた。「チッソ」という企業の水俣工場が垂れ流した有機水銀化合物に海が汚染された結果起きた身体機能の破壊と、その果ての死を含む加害行為であるにもかかわらず、チッソはそれを否定し続けた。権威ある大学教授や医学者まで動員して、耳を疑うような珍説を発表して、原因の特定を曖昧にしようと画策している。このことに象徴される企業、それに同調する行政と「世間」の言動から、評者は世界が「でたらめな言葉」で出来ていることを知った。漁師たちの日常空間には元々、このような事態を語ることができる言葉もなかった。水俣は「チッソ」という企業城下町として栄えた。市の税収の大半をそのチッソの納税が占め、行政を筆頭に市民の大半が「チッソ」関係者であり、無言の差別意識で漁師たちを包囲していた。被害者を中心にしてそれを同心円状に取り巻く空間に言葉の真空状態が生じていた。
 母方の親族を虐殺した工場の生産物の利益から、父が得てくる給料で養われている評者という身体に、加害者の一人でもあるという烙印が刻まれている自覚がある。この来歴故か水俣病に限らず、この種の問題を加害・被害の図式で告発する言動や、社会正義的論調で論難する姿勢に、評者は違和感を抱いてしまう。
 故郷を出て働きながら大学の夜間部に通っていたとき、石牟礼道子の『苦海浄土―わが水俣病』(講談社一九六九年)が刊行された。言葉など与えようがない、表現の方法もないと評者が思い込んでいたことに、石牟礼道子は言葉を与えていた。それは新鮮な驚きでもあった。評者は石牟礼道子と文学というものに、そんなふうに出会った。

2『苦海浄土―わが水俣病』の表現論的背景

 『苦海浄土―わが水俣病』(以降『苦海浄土』と表記)と同時期に読み進めていたのが、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』(勁草書房一九六五年)だった。「文学とは何か」、「文学に何が可能か」ということを、詩作をしながら考えていた時期でもあった。自分が書く言葉を自分で信用していなかった(嘘臭い世界の中の自己表現というもっと嘘臭い言葉)。吉本隆明の一連の著作、芸術言語論のキーワードになっている「指示表出」「自己表出」の概念に沿って文学を考える指標を与えられたように記憶している。「指示表出」だけで構成される言語情況の中では、そこから零れてしまう思いが自己の中に降り積る。それを表出したいと思う「自己表出」欲求に、文学の起点があるという指標である。
 『苦海浄土』の作者は、どんな自己表出欲求を心の内に募らせていったのか。その結果、どうしてこのような表現を可能としたのか。
 『苦海浄土』はドキュメンタリー性と文学性を併せ持つ、多種多様な言語表現を駆使して表現されている。その後も日本列島全体を覆いつくすことになる戦後復興・経済発展という名の環境・文化破壊による、人間の心身に対する大量虐殺の予言の書的側面をも持つのは確かだ。またよく指摘されるように、被害者・死者の魂に憑依した公害告発、巫女的視座の社会批評、オーラルヒストリー的民衆史であるとも言えるだろう。
 だが『苦海浄土』に対するそんな多くの評言には違和感があった。評者にとって『苦海浄土』は、そんな後付けの理屈で価値づけされるような批評性を持つ作品として立ち現れたのではない。評者にとって『苦海浄土』は、表現論的な意味での「言葉」を持たない被害者たちを、自然との交感をしつつ生きる魂の持ち主たちとして、生き生きとした物語の中に蘇生させるような表現に、石牟礼道子は何故、駆り立てられたのか、ということを評者に問いかける形で現れたのである。
 例えば特に一人称で語られる疑似「水俣弁」の、聞いたこともないような美しい調べと文体による表現、「語り」の創造的表現へと石牟礼道子を突き動かした情念の背後にあるのは何かということだ。

   ※

「おるげにゃよそん家よりゃうんと神さま仏さまもおらすばって、杢よい、お前こそがいちばんの仏さまじゃわい。爺やんな、お前ば拝もうごだる。お前にゃ煩悩の深うしてならん。
 あねさん、こいつば抱いてみてくだっせ。軽うござすばい。木で造った仏さんのごたるばい。よだれ垂れ流した仏さまじゃばって。あっはっは、おかしかかい杢よい。爺やんな酔いくろうたごたるねえ。ゆくか、あねさんに。ほおら、抱いてもらえ」(『苦海浄土』第Ⅰ部第四章「天の魚 九竜権現さま」から)

   ※

 ここに記されているのは現実の水俣弁とはほど遠い、不思議な韻律、琵琶法師の語りよりも生々しくも、譬えようもないほどの内在律の強度を備えた石牟礼道子による、どこにも存在しない創作語である。現実の水俣の漁師たちはこんな話し方は決してしない。
 引用した箇所の「杢(もく=杢太郎)」は、母胎に蓄積した有機水銀塗れで生まれた胎児性水俣病の子どもだ。家族親類もその犠牲となり、今は老いた祖父に育てられている。作中「あねさん」と呼ばれる作者(石牟礼道子と仮定できる記録者)が漁師町に足を踏み入れた動機には、後付け評価されるような意味はない。漁の網を食い千切る鼠を退治するために漁師の家では飼い猫を必要とする。人を介して石牟礼道子家でも、間接的に漁師に自分の飼い猫が生んだ子猫を提供していた。その漁師町で猫たちが大量に狂い死にするという不可解なことが起こっているという。自分があげた子猫の身を案じて、貰われた先を辿って、たまたま漁師町に足を踏み入れ、漁師町全体で起こっている悲惨な情況を目の当たりにしたのである。そのときの石牟礼道子も、評者と家族がそうであったように言葉を失ったはずだ。「奇病」と呼ばれて気味悪がられていた時代の被害漁師たちは、「町の人」たちとの魚の取引はおろか、普通の往来でさえ憚られるという「差別的」な状況の中に居た。そして被害者たちはまともに言葉を話せるような心身の状態ではなかった。「水俣病」の被害者たちは、『苦海浄土』に書かれているようには、石牟礼道子に語らなかった筈だ。(注3)言葉を失った石牟礼道子はひと時を黙したまま過ごしただろう。そこに言葉を与えることができるようになるまで時間を要した。
 表現論的に換言すれば、漁師家族と自分双方の沈黙、言葉の真空状態にこそ言葉を与えなければならない。そんな意思の萌芽が微かに自覚されていたかもしれない。
 文学とは存在の諸相を描き出すものであり、誰もそのことに言葉を与えていない、言葉の真空状態に言葉を与えようと志すものでもあり、常に人間の心身に対して引き起こされた過去の災禍の、文学的眼差しによる掘り起しであり、同時にこれから確実に起こるだろう災禍をありありと指し示す言葉の芸術でもある。力学系の分岐理論の一種「カタストロフィー理論」を文学に応用した、常に「突然の大変動」の狭間にある存在の諸相を描き出すことが文学の重要な役目の一つである。ここから石牟礼文学を憑依的、巫女的資質の持ち主による予言書という評も生じる。
 これらはすべて作品解説あるいは批評の言葉である。完成した文学作品が獲得した、あるいは獲得する可能があったものについて論考した結果、立ち現れてくるものであり、作家は最初からそのことを目的としているわけではない。文学はそんな目的論的な産物ではない。(注4)
 文学とは作者さえ自覚できていない何か、まだ言葉を与えられていない未知の何かを取り込こもうとする奥深いものである。
 石牟礼道子は自覚されていない表現欲求に駆り立てられて『苦海浄土』を含むすべての作品を書いたのだ。その中の一つ、石牟礼俳句を論じるのなら、石牟礼道子を駆り立てた表現に向かう欲求の核心へ垂鉛を下ろしてゆかなければならない。

2 短歌が灯した文学的表現の炎

石牟礼道子の創作の出発点は短歌だった。(注5)正確には初期には俳句・短歌・詩・小説も書いている。ここでいう「出発点」とは後の文学的展開の起点という意味である。次がその初期の短歌である。(『海と空のあいだに』葦書房一九八九年)

「冬の山」(昭和十九年~二一年)より。

この秋にいよよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ

おどおどと物いはぬ人達が目を離さぬ自殺未遂のわたしを囲んで

死なざりし悔が黄色き嘔吐となり寒々と冬の山に覚めたり

多感な思春期の中で「死」の想念を抱え込むことは、早熟な文学的資質を持つ者にはよくあることかもしれない。それにしても石牟礼道子の短歌はこのように初期から死の想念に満ちている。次が短歌を止める直前の作品である。

「廃駅」(昭和三七年~四十年)より。

向日葵の首折れ手錠の影をせり滲みていよよ錆ふかき地

頸ほそき坑夫あゆみくるそのうしろ闇にうごきゐる沼とおもへり

いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

 最後の短歌などは、身近な死の惨苦から目を逸らすことなく、いや、引きつけられるようにその細部まで見届けずに止まない自分の業を嗤っているような雰囲気がある。「いちまいのまなこ」という形容に、その残酷なまでの記録性と、その平板さへの自己批判の意識さえ感じる。
 だが、当時は「奇病」と呼ばれて気味悪がられていた「水俣病」の被害者たちとの交流を続けるうちに、石牟礼道子はそれまで詠んでいた「短歌のもつ叙情性と日常」に限界を感じたと述懐している。(注6)そこに石牟礼道子俳句を考える上で重要な問題が現れている。石牟礼道子が逃れたかったという「短歌のもつ叙情性と日常」とは、表現における「わたくし性」のことであり、これは文学表現でいう「自己表出」とは性質が異なる。吉本隆明がいう「自己表出」という文学的表現欲求に起源を持たない狭い意味の「わたくし性」である。石牟礼道子がこのとき抱え込みつつあったのは、「水俣病」という「社会」の問題に触れることで自覚された文学的な表現欲求だった。それ故「限界」が感じられたのだ。文学的表現の創作においては、「社会」を含めたあらゆる事象は、自己の外側あるのではなく、内面化されたものが表現に向かう情熱となり、「自己表出」としての文学表現となってゆくものだ。

 にんげんはもういやふくろうと居る

 死におくれ死におくれして彼岸花

 まだ来ぬ雪やひとり情死行

 原郷またまぼろしならむ祭笛

 頬に伝う菜種の雨や特攻兵

 地の涯へ雨ゆくらしや母恋し

 前の世にて逢はむ君かも花ふぶき

 来世にて逢はむ君かも花御飯(まんま)

 われひとり闇を抱きて悶絶す

 おもかげや泣きなが原の夕茜

 これらの俳句は俳句的な着想、表現方法ではなく、短歌的情念と叙述法で詠まれている。石牟礼道子自身はそのことを自覚していないかもしれないが、ここに石牟礼文学の表現論的な原点がある。石牟礼道子が「別れた」のは短歌という形式である。短歌に替わって表出先に選ばれた石牟礼俳句には、短歌的な内省的な響きがある。それがまた不思議な表現的強度を支えるものになっている。
 小説の虚構性を持つ構造の中での徹底を極めた「わたくし性」は、汎文学的な表現方法となり得るが、詩よりも短い短歌は塚本邦雄が挑んだようには「わたくし性」を脱した表現の地平を獲得しづらく、どこか閉塞感の伴う自己表現の枠内に囚われてしまいがちである。俳句はそれをもっと短くした「不自由な」形式になったことで、「わたくし性」を突き抜けた表現の地平に至る可能性を手に入れた。俳句という表現形式は、散文的な通常的意味性、安易な象徴性などを排除しなければ、独立した価値を持つ表現とはならないという枷を自らに課した表現形式である。その分だけ独自の創造性を発揮できるという表現論的「自由」を手に入れたのである。
 石牟礼道子俳句には、そんな俳句的な作品とは呼び難いものがある。この短歌時代に培われた自己のうちなる「暗い情念」が、俳句的な形式を揺さぶりつつ、独特の魅力を放っている。

3 詩によって広がった表現世界 

 石牟礼詩篇の「薫香」(注7)を一例として石牟礼道子の文学的表現に向かう情念の在処を検証してみよう。詩は次の二行で始まる。

  万管の笛よりも綾なして

  樹々のみどりを渡る風

作中、この「風」が「主人公」の物語のように描写されてゆき、次の二行で終わる。

  魂だけになって

  じぶんを焚きはじめた

 この表現は詩的な「喩」を超えている。ここに籠められた作者の表現の真意を、読者は了解しかねるだろう。この詩を含む石牟礼道子のすべての詩が持つ独特の「難解さ」は現代詩の「難解さ」とは別種のものだ。現代詩は吉本隆明がいう「指示表出」的言語表現を可能な限り排除して、「自己表出」表現に徹した文学世界を構築しようとするために生じる「難解さ」である。石牟礼道子の詩の「難解さ」は、読者の方に石牟礼道子と共有できる「原郷」的なものが失われていることからくる断絶のせいである。このような石牟礼道子の詩を、難解ながらも繰り返し読み続けていると、その喪失した原郷が心の中に恢復してゆく。すると突然、心が太古の海山空に舞い、翔び始める。そうして石牟礼道子の詩の世界に入りこむことで、逆にその世界が今、決定的に失われつつあること、あるいは失われてしまったことを、心に刻み込まれるような思いに至るのである。根源的自然詠とでも呼ぶべき表現であることが体感されてくる。それはある種、壮大で爽快さを感じる詩だが、それを書く石牟礼道子の文学的情念は、短歌の自省的「暗さ」のままなのだ。
 この詩作によって切り拓かれた根源的自然詠が、次のような俳句でも為されている。詩と同様の一種独特な「難解さ」を持つ俳句である。

 角欠けしけもの歩みくるみぞおちを

 紅葉嵐天の奥処(おくが)もいま昏るる

 ふるさとは桃の蕾ぞ出婚儀

 ひとつ目の月のぼり尾花ケ原ふぶき

 さくらさくらわが不知火はひかり凪

 ことばなきは豊けし幾億の昔来る

 湖底より仰ぐ神楽の袖ひらひら

 ここに、彼女の全ジャンルの作品に通底する表現方法確立の兆しを見ることができる。
 本稿において重要なことは、それが独立した俳句作品としての危うさの原因にもなり、同時に独創的な魅力となっている点だ。その背後に、定まりつつある石牟礼流の「自己表出」の情念の在処を見出すことができる。

4 『苦海浄土』という文学の構造と方法

 ジャンル名などで特定できない『苦海浄土』という作品の表現方法の構造を具体的に見ておこう。『苦海浄土』は次の四種類の文体で書かれている。
A 第三者としての被害者の描写(ルポ的)
 作者石牟礼道子の視点での表現。
B 被害者の一人称語り
 被害者の独白の聞き書きを模した表現。
C 三人称小説体での描写
 被害者たちを主人公にしたような三人称小説体での表現。
D 現実の資料文書の挿入
 これは被害者が「水俣病」の患者として扱われるようになった際、医学的な論理で組み立てられた表現による診断書、報告書の類である。その専門性故に一般人には理解が困難で、読んでいてそこに非人間性を感じる。
 『苦海浄土』はこのAからDの文体で編み上げられた作品である。
 例えば第一部第三章「ゆき女きき書」では、次のように展開されている。(注8)
 章の冒頭に「D」の資料的言語表現が置かれている。続けて「A」の石牟礼道子が「坂上ゆき」の病室を訪ねるルポ形式の表現が展開される。「坂上ゆき」の姿に衝撃を受けながら慈愛の籠った眼差しで、彼女の人間的な意思表示を、ただの一つも見落とすまいとする筆致で精密に表現する。
 そして次に「B」の「坂上ゆき」からの「聞き書き」を模した一人称独白体で、「坂上ゆき」の人間的側面を描き出してゆく。「坂上ゆき」の言葉はやがて流暢な語りに変化する。読者はそこに不自然さを感じない魔法のような技巧が凝らされている。彼女の生き生きとした海の暮しの話へと展開してゆく。それが佳境に入った辺りで、文体は「C」の三人称の小説文体へと変化して、彼女たち漁師の生活がこの上もなく眩しく、幸福感を滲ませながら語られてゆく。
 このように医学的な病状の記録から始まり、作者のルポに移り、一人称独白体へと移り、三人称小説体に変化し、それらの文体が自在に入れ替わりながら話は進行する。
 そんな『苦海浄土』の各章を読み終わるごとに、わたしたちが今、破壊し喪失しようとしている大切なもの、かけがえのないものが、震えるような共感をもって実感させられる。表現の核になっているのは被害者が失った、豊かな自然を相手にした暮らしの姿と、そこで生きる被害者たちの命の手応えである。
 これが『苦海浄土』の表現構造であり方法である。それは内省的な短歌的情念と、詩で描かれた根源的自然詠による、わたしたちが破壊しつつある世界のかけがえの無さの表現の、そのすべてを駆使して編み上げられた文学世界である。そしてそれは俳句作品も同じである。本稿の冒頭で引用した俳句すべてに、それが表れている。

5 石牟礼文学のオリジナリティ

 石牟礼俳句の特性を他のジャンルの作品から探ってみたが、その分野を超えた影響を論述するだけでは、その本質には迫り得ない。次は視点を変えて検証してみたい。
 石牟礼文学を理解する上で参考になるエピソードがある。それは日本の敗戦直後、彼女が十八歳の時のことだ。職場の田浦から水俣へ帰る国鉄鹿児島本線の列車の中で、座席にうち捨てられたように座っていたみすぼらしい少女の姿を見かけた。戦災孤児で遠い親戚の家を目指しての乗車のようだったが、少女は無一物でろくに食事もしていないようで弱り切っていた。その様子では縁戚の者がいるところに辿り着くのは困難に思われて、石牟礼道子はその少女を自宅に連れて帰り、四十日間起居を共にして、少女が元気になってから駅まで送り、その再出発を見送っている。後年、この体験は「タデ子の記」という随筆として書かれることになる。
 このエピソードに石牟礼文学の創作の原点のようなものがある。それは弱っている者、困難に直面している者、苦難に呻吟している者を見ると「加勢するー放っておけない」感性の持ち主で、その者に寄り添って行動を起こしてしまう資質の持ち主でもあるという原点だ。それを後に「悶え神」という言葉で苦しみを共に引き受ける土着的感性を「思想的」な言葉にまで高めてゆくことになる。
 「のさり」という言葉もその一つである。「水俣病」の被害に苦しむ被害者たちの心の在り方に、彼女が与えた言葉だ。まるで幸運でも授かったような響きを持つその言葉の意味は深い。キリスト教的な原罪認識による「受難・受苦」の思想ではない。喜んで引き受けた受苦ではないが、何かそこに尊いものを見出してしまう感受性の在処を的確に指し示した言葉だ。この言葉を熟考していると、社会運動が纏ってしまう表層的な怒りや、告発的な言葉の根拠が揺らぎ出すのを感じてしまう。
 そんな、一言では解説し難い深い言葉、思想が、『苦海浄土』に代表される全文学を貫いている。石牟礼道子はそれを、被害者たちと共に考え行動しながら深めていったのである。「水俣病」の社会運動的な側面を持つ被害者たちの言動が、他のいかなる社会運動の言葉とも似ていないのはそのためである。
 例えば「チッソは私だ」と唱えた緒方正人と、「チッソを許す」と宣言した緒方正実という二人の緒方氏の運動と著作に伺える思想は、石牟礼道子という文学者の影響なくしては獲得できなかった地平である。(注9)
 石牟礼道子の思想的伴奏者となった渡辺京二は、石牟礼文学の本質について「人びとはなぜ(評者補注 石牟礼作品が)きわめて幻想的であることに気づかぬのであろう。このような美しさは、けっして現実そのものの美しさではなく、現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるをえぬ美しさにほかならない」と評している。(注10)ここにも俳句表現論的に論考を要する問題がある。
 俳句はそのような分厚い背景を持つ思想を盛ることに向いてない文芸であるにも拘わらず、石牟礼俳句はそのような地点から発想されている。石牟礼道子は俳句作品としての独立性などという「評価」の世界とは無関係に俳句を生み出した。わたしたちがその文学表現論的な必然性や本質的な姿勢を喪失していることからくる、読解上の困難さを持つ美しい調べの俳句を生み出しているのである。
 その創造力の源泉は石牟礼道子の幼年期における原体験、喪失した原郷への熱い思いの中にある。精神を病んだ盲目の祖母に寄り添い、自然と人、それを超えた霊的な世界との交感という幼時の記憶を描いた『椿の海の記』(河出書房新社二〇一三年)、その幼年期から「近代化」による文明の軋み、農漁村の崩壊、敬愛する高群逸枝との出会いなどを経て、『苦海浄土』を執筆するころまでの記憶を描いた『葭の渚〔石牟礼道子自伝〕』(藤原書店二〇一四年)、そして十六歳から二十歳の期間に書かれた未完歌集『虹のくに』、代用教員だった敗戦前後の日々を綴る「錬成所日記」、尊敬する師宛ての手紙、短篇小説・随筆を収めた『不知火おとめ 〔若き日の作品集』(藤原書店同年)などを繙けば、石牟礼道子という魂が育まれた原風景が鮮やかに見えてくる。その最後に挙げた書の短歌を引く。

 われはもよ 不知火をとめ この浜に いのち火焚きて消えつつまた燃へつ

 先に鑑賞した詩篇「薫香」の結び、

  魂だけになって

  じぶんを焚きはじめた

の世界と通底する世界である。また次の一節がある。

  この世に悲しみを持つ程に、人は美しくなるとか申します。物狂ひの心程、一筋なものはございませぬ。

 天草という太古から続く伝承的な霊的精神世界で生まれ育ち、後年「近代化」の象徴のような水俣に出会った「物狂ひの心」が、石牟礼道子を「自己表出」欲求へと駆り立てたのだ。評者は先に被害漁師たちの世界には元々言葉がなかったと表現したが、それを訂正するときがきたようだ。石牟礼文学は、彼らと共有する、自然と直結した霊的で豊かな精神文化の「ことば」で描き出したのだ。
 そのことに情熱を傾ける石牟礼道子の「物狂ひ」の精神世界には、日本の「近代化」に要した時間を遥かに凌駕する、太古からの悠久の時間が育んだ豊かな命の手応えがある。「水俣病」事件もその眼差しで書かれたが、その批判を目的としたわけではない。完成した作品が獲得した別次元の価値である。

6 石牟礼道子俳句が問いかけるもの 

 俳句は石牟礼道子にとって自分自身と死者たちへの慰撫でもあった。痛ましい死を遂げた魂たちへの鎮魂は、日本の詩歌や能における基本的な主題であったことに思い至る。
 世阿弥の夢幻能は、名所旧跡を訪れる旅人 (ワキの僧侶など)の前に超現実的存在(神・霊・精など)の主人公(シテ)が出現する形式で、その地で不遇の死を遂げた者に対する鎮魂の意味を持つ。石牟礼道子は「不知火」という新作能も書いている。チッソの有毒物質が不知火海に垂れ流された河口を埋め立てた地に能舞台が設えられ、水俣病の犠牲になった人間や動植物の魂を慰撫する幽玄な能曲である。(注11)その主題も石牟礼俳句に 込められている。
 苦しみの果てに亡くなった被害者たちの目となって、その心に寄り添って詠んだ俳句もある。石牟礼道子は死者、被害者たちと精神的同居をして、この天地の命と魂を「天」は病んでいようとも、そのすべてを受け入れて、俳句の新境地を切り開いた。

女童や花恋う声が今際にて

 この句には、その作句の元となったと思われる詩入りの「いまわの花」という随筆がある。(注12)その随筆も『苦海浄土』と同じ表現方法で、疑似「聞き書き」を含む多様な文体で書かれていて、自らもやがて「水俣病」で死ぬことになる母の語りで、先に死んだ娘の様子が回想され、それを作者が記録したという形式で書かれている。身体も言語も自由に操れなくなっていた娘が、死に際に縁側に這い出してきて、庭前に咲いた桜の花を見上げて、やっと聞き取れる声で「しゃくらの花のいつくしさようなあ、かかさん」と呟いて死んだという随筆である。
 このように石牟礼俳句も、他の石牟礼文学同様、「水俣病」の被害者、死者たちの膨大な沈黙、そこにあった当時の自分を含む言葉の真空状態に、創造的な言葉を与えようとして詠まれている。すべてが石牟礼道子の「自己表出」という文学的欲求、情念に支えられている。
 それを表現することは、従来の俳句表現観による俳句では困難な、あるいは不可能に近いことだろう。どこか表現が破綻したような、一句としての独立性、完結性を欠いた作品に見えてしまうからだ。石牟礼俳句はそのような視座での評価に耐える作品ではない。
 評価されなければならないのは、石牟礼道子の「自己表出」という文学的表現に向かう姿勢そのものであろう。
 東日本大震災後、何か表現したい、表現しなければ、という思いに突き動かされた俳人も多いだろう。言葉を失うようなことに直面したそのとき、どんな表現が可能かという問題に、向き合わされたはずである。
 石牟礼俳句はすでに、そのことに一つの指針を与えてくれていたことに、改めて思い至る。わたしたちは石牟礼俳句と、そのような表現論的出会いを、もう一度、いや何度でもやり直す必要があるのではないか。
 石牟礼俳句を正当に評価できる地点にわたしたちはまだ辿り着いていないのではないか。俳句という形式を内側から壊してしまいそうな多様な表現方法。そして題材主義・テーマ詠などを遥かに超えた、存在の痛みに届く言葉による「文明の軋み」の表現。そこから立ち上げた普遍的で根源的な生命観、自然観に支えられた主題と多様な表現。
 石牟礼道子俳句が問いかけているのは、そんな表現論的な、文学に向き合う姿勢、創造性、表現方法であるといえるだろう。

  ―了 

桜(しゃくら)の花の美(いつく)しさようなあー石牟礼道子俳句が問いかけるもの」注記

注1 石牟礼道子の句集『天』を編集発行したのは俳人の穴井太である。穴井太は上野英信と北九州の地で親交があった。上野英信は谷川雁、森崎和江らと筑豊の炭鉱労働者の自立共同体・サークル村を結成し、機関誌「サークル村」を刊行したメンバーである。穴井太は北九州市で益田清らと「未来派」を創刊した。後に金子兜太の「海程」同人となり、葉書の「天籟通信」を発行し、それがやがて俳誌形態となっている。石牟礼道子の俳句発表の舞台は主にこの誌上だった。

注2 「第十五回俳句四季大賞」選評(「俳句四季」二〇一六年七月号)

注3 『葭の渚 石牟礼道子自伝』(藤原書店二〇一四年)で石牟礼道子はこう述懐している。

    ※

『苦海浄土』を刊行したあと、わたしがノート片手に、患者さん宅を回って取材したように思いこんだ人たちがいたが、わたしはそういうことは一切しなかった。見も知らぬ患者さんの家を直接訪ねるなどできるものではない。職業的なライター、あるいはそれを志す人にとっては当然の行為かも知れないが、わたしは水俣病について何か書こうと思って、湯堂や茂道を訪ねたのではなかった。ただ、何か重大なことが起こっているのを感じとって、気にかかってならず、それを見届けたかったのである。(略)

注4 例えば東日本大震災後、俳句総合誌が「被災地に励ましの一句を」と企画し作品の寄稿を求め、また、それに実作で応えたという行為に違和感を抱くのは、その合〈目的〉的な行為が非文学的に感じられるからだ。
 この感じ方に対する反論として、俳句はそのような意味での文学ではなく、「挨拶句」というような言語作法を持つ特殊な文芸であり、困難と思われた「震災」という「機会句」が隆盛を見せたのは、俳句史的にも画期的な事象であった、というものがある。
 ここで論考していることは、そのような「俳句作法内的俳句論」ではない。俳句表現がそのような「特殊な作法」を伝統的に持つものだとしても、文芸の一つである俳句も、吉本隆明がいう直截的な意味作用だけで機能する「指示表出」ではなく、表明した言語の指示する意味を超えた何かを表現しようとする、「自己表出」的な表現・伝達機能を有するものである。そのような意味で、どんなに特殊であろうとも、「俳句も文学である」ということから免れ得るものではない。

注5 短歌の才能の開花が契機となって地方紙への散文の寄稿を求められるようになり、谷川雁たちの「サークル村」活動にも関わるようになる。『苦海浄土』の原型に当たる随筆も、この過程で書かれ始めている。短歌とその軌跡は歌集『海と空の間に』(葦書房一九八九年刊)において読み取ることができる。

注6 歌は言葉のままごとだった。昭和三十一年には『短歌研究』十月号に「変身の刻」十四首、十一月に「海女の笛」十四首が載ったりしたが、この頃が一番心の底に空白感を持っていたように思う。本心を言えば、短歌という形と自分とがしっくりしない気持ちが消えなかった。一つには「奇病」がおきつつあったせいで、短歌のもつ叙情性と日常に諸問題がありすぎて表現しきれなくなっていた。(略)言葉に対する根底的な疑問が湧いた。観念の言葉では表現できない大きな沼のようなものを抱えている自覚があった。(略)わたしは当時、精神的に非常に追いつめられていた。短歌をやめたいとしきりに思っていた。(『葭の渚 石牟礼道子自伝』)

注7 『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』(石風社 二〇〇二年)所収「薫香」全文

 万管の笛よりも綾なして
 樹々のみどりを渡る風
 谿間(たにま)をすべり降りるや
 野牛の耳朶をくすぐり
 じいさまのなたまめ煙管にもぐりこみ
 尺とり虫に腕角力(ずもう)をしかけてもみた

 穀物のみのりを祝う祭だったので
 花びらが渦巻くような
 恋のさまざまにまぎれこみ つい
 若ものたちの息をぬすみとったりして
 風は夜霧の中で
 じぶんのいのちの
 素(す)裸(はだか)をはじらっていたが

 たえきれぬまま
 海の上で 高原の香気を
 腕(かいな)の中に囲いこみ

 魂だけになって
 じぶんを焚きはじめた

注8 D 現実の資料文書の挿入例
水俣市立病院水俣病特別病棟X号室
坂上ゆき 大正三年十二月一日生
入院時所見 三十年五月十日発病、手、口唇、口囲の痺れ感、震頭、言語障碍、言語は著明な断綴性蹉跌性を示す。歩行障碍、狂燥状態。骨格栄養共に中等度、生来頑健にして著患を知らない。顔貌は無慾状であるが、絶えずAtheotse様Chorea(舞踏病)運動を繰り返し、視野の狭窄があり、正面は見えるが側面は見えない。知覚障碍として触覚、痛覚の鈍麻がある。A 第三者としての被害者の描写(ルポ的)例
う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」
 彼女の言語はあの、長くひっぱるような、途切れ途切れな幼児のあまえ口のような特有なしゃべり方である。彼女はもとらぬ(もつれる)口で、自分は生来、このような不自由な見苦しい言語でしゃべっていたのではなかったが、水俣病のために、こんなに言葉が誰とでも通じにくくなったのは非常に残念である、と恥じ入った。
B 被害者の一人称語り例
 うちは前は達者かった。手も足もぎんぎんしとった。働き者じゃちゅうて、ほめられものでした。うちは寝とっても仕事のことばっかり考ゆるとばい。
 今はもう麦どきでしょうが。麦も播かんばならんが、こやしもする時期じゃがと気がもめてならん。もうすぐボラの時期じゃが、と。こんなベッドの上におっても、ほろほろ気がモメて頭にくるとばい。
C 三人称小説体での描写例
 二丁櫓の舟は夫婦舟である。浅瀬をはなれるまで、ゆきが脇櫓を軽くとって小腰をかがめ、ぎいぎいと漕ぎつづける。渚の岩が石になり砂になり、砂が溶けてたっぷりと海水に入り交い、茂平が力づよく艫櫓をぎいっと入れるのである。追うてまたゆきが脇を入れる。両方の力が狂いなく追い合って舟は前へぐいとでる。
 不知火海はのどかであるが、気まぐれに波がうねりを立てても、ゆきの櫓にかかれば波はなだめられ、海は舟をゆったりあつかうのであった。
 ゆきは前の嫁御にどこやら似とる、と茂平はおもっていた。口重い彼はそんなことは気ぶりにも出さない。彼がむっつりとしているときは大がい気分のいいときである。ゆきが嫁入ってきたとき、茂平は新しい舟を下した。漁師たちは、ほら、茂平やんのよさよさ、舟も嫁ごも新しゅうなって! と冷やかしたが、彼はむっと口をひき結んでにこりともしなかった。彼の気分を知っている人びとは満足げな目つきで、そのような彼を見やったものである。

注9 緒方正人『常世の舟を漕ぎて―水俣病私史』(世織書房一九九六年)/緒方正実『水俣・女島の海に生きる―わが闘病と認定の半生』(世織書房二〇一六年)
 この二人が辿り着いたのは、自分のうちなる「チッソ」を見つめ直し、それを「許す」ことができるようになったという地平である。わたしたちはその言葉に触れると、では、「あなた」という個人は、どうやって自分の中の加害性を「許しますか」と問われている地点に追い込まれる気持ちになる。この問いの矢は日本という現代の精神的病理の根源を指し示している。二人をこの地平に導いたのも石牟礼文学の力だったのである。

注10 「『苦海浄土』の世界」講談社文庫『苦海浄土』解説。後に『もうひとつのこの世―石牟礼道子の宇宙』(弦書房二〇一三年)に収録。

注11 新作能「不知火」(あらすじ)
 チッソ水俣工場が垂れ流した毒によって水俣の海は滅びた。竜神の娘である海底の宮の斎女「不知火」はその毒によって瀕死の状態となって海底から渚に現れる。一方、竜神の息子「常(とこ)若(わか)」は竜神から人の世の有様の視察に赴かされ、海ばかりではなく陸地までも汚染した有様を視察する。その旅の帰路、「不知火」と渚で邂逅する。「隠(おん)亡(ぼう)の尉(じょう)」(注 実は末世にあらわれる菩薩)の力で、「不知火」は死を免れる。二人の祝婚(注 神の子である姉弟に禁忌婚の掟はない)のために古代中国の歌舞音曲の祖と言われる「き」(注 パソコン用字にはない漢字なのでひらがな表記にしている)が呼び出され、妙なる音楽が奏でられるなか、人間が垂れ流した毒によって狂い死にした人、動物、生きとし生けるものたちが蘇生し、舞い踊り、海は新しい生命を甦らせるという物語である。
 初演は東京の国立能楽堂。「水俣病」被害者の漁師たちが水俣でその再演を実現させている。その能舞台はチッソ水俣工場の排水口から垂れ流された有機水銀化合物によって汚染された魚たちがドラム缶に詰められて埋められた場所であり、狂い死にした猫たち、鳥たちもここに埋められている。また毒によって悶死したすべての人間たちの魂の鎮魂の碑もここにある。水俣公演での演出は屋外であり、夜の帷の中で演じられた。冒頭、地謡が『苦海浄土』のエピグラム「繋がぬ沖の捨(すて)小舟(おぶね)。生死(しょうじ)の苦(く)海(がい)果てもなし」を歌い、「隠亡の尉」が、実景の恋路島を臨む水俣の浜辺を「恋路が浜」とした岸辺に現れ、灯された無数の光の玉が、周りが暗くなるに連れて輝きを増すという演出である。それは有機水銀化合物に脳神経を侵されて体の動きを制御できなくなり、竈の火や海の水に飛び込んで狂い死にをした無数の猫たちの魂の象徴でもあった。「水俣病」顕在化の最初の兆候は、そんな猫たちの狂死だった。水俣公演では、静かに暗転する舞台の闇のなか、生きとし生けるものたちの無数の魂の点滅でエンディングを迎えている。

注12 随筆「いまわの花」抜粋
(略)極端な「構語障害」のため、ききとりにくかったが、母親だけにききとれる言い方で、その子は縁側にいざり出て、首をもたげ、唇を動かした。

なあ かかしゃん
かかしゃん
しゃくらのはなの 咲いとるよう
美(いつく)しさよ なあ
なあ しゃくらのはなの
いつくしさよう
なあ かかしゃん
しゃくらのはなの

母親は、娘の眸に見入った。
「あれはまだ……、この世が見えとったばいなぁ」
と思い、自分もふっとどこからか戻った気がした。何の病気だかわからない娘を抱え歩いて、病院巡りも数えきれぬほどして、どこだかわからぬような世の中に、踏み迷っていたような気がしていたのである。
――桜の時期になっとったばいなあ、世の中は春じゃったとばいなあ、ち思いました。思いましたが、春がちゃんと見えたわけでもなかですもん。それでも、とよ子がさす指の先に、桜の咲いとりまして、ああほんに、美(いつく)しさようち、思いよりましたがなあ。
 わたしはあの頃、どこにおりましたでしょうか。どうも、この世ではなかったごたるですよ。(略)

   ※

 この後、母親が娘を背負って病院巡りをしていた頃の回想となり、そんなある雪の日、坂の途中で背中の娘が突然激しい痙攣を起こして、二人はそのまま崖下の畑に転落し、振って来た石にも当たってしまう。幸い二人はそのときは一命を取り留める。
 随筆はこう続く。

   ※

 あん時に死なせずに、よっぽどよかったですよ。桜の花見て死んで。
 人のせぬ病気に摑まえられて、苦しんで死んで。その苦しみようは、人間のかわり、人さま方のかわりでした。それで美しか桜ば見て死んで。
 親に教えてくれましてなあ。口も利けんようになっとって。さくらと言えずに、しゃくら、しゃくらちゅうて、曲がった指で。
 美しか、おひなさんのごたる指しとりましたて、曲ってしもて。
 その指で桜ばさしてみせて。(略)
 わたしは不思議じゃったですよ。この世にふっと戻ったですもん。死んでゆくあの子に呼ばれて、花ば見て。
 どこに居ったとでしょうか。それまでは。
 この世の景色は見えとって、見えとらん。人の言葉も聞いておって、聞こえてはおらん、わたしの言葉も、どなたにも聞こえちゃおらんとですもんねえ。ああいう所は、この世とあの世の間でしょうばいなあ。
 とよ子が死んでから、自分の躰もおかしゅうなるばっかりで、長うは生きられませんとですもんきっと、同じ病気ですけん。あの子の言葉が、時々聞えますと、耳元に。
 死ぬ前に美しかもんの見ゆれば、よか所にゆけるち言いますでしょ。仏さんの世界は遠かそうですもん、死んでからまた、その先に往かんばならんところは。十万奥土ち云いますもん。(略)
 病んで、ひとりではなんもしきらず、人さまの厄介になるのをみすみす置いて、先に往きなはる親御さんも、おんなはるとですけん、残して往く人よりわたしはよっぽどよかですよなあ。親より先に往ってくれて。何ちゅう子でしょか。この世のなごりに、花まで見せてくれて。

 溝口まさねという人であった。大工をしていた夫は、娘の後を追うように先に死に、さくらの花、というとき、この人は、眉根をきゅっと寄せ、いつもうるんでいた大きな黒目勝ちのまなこを思い凝らしたように遠くへ放っていた。かなしみのくれない(、、、、)が、瞼にさして、その顔は美しかった。
 人さま方の替りに、人間の負ったことのない荷を負って、八つの娘とともに往くのだとは、人柱になる者の想いに近い。望んでなったのではないが、われとわが胸に、そのように言い聞かせねば、娘も成仏できまい。

―注記 以上