第37回現代俳句評論賞 受賞作
「未来へのまなざし」
―「ぬべし」を視座としての「鶏頭」再考―
松王 かをり
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一、はじめに
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
俳句を文法で読み解くことはできるのだろうか。あるいは、俳句を読み解く上で文法はどの程度重要なのだろうか。私は予備校で古文を教えているのであるが、「ぬべし」を生徒にレクチャーする際、いつも頭のどこかにこの句が浮かんできて落ち着かない気持ちになるのである。そして同時に、この疑問がわいてくるのである。
この「鶏頭」の句は、絶筆の「糸瓜」の句とともに、子規の代表句としてすでに評価は定まっているようであり、さらに、この句をめぐっては「鶏頭論争(注1)」なるものが勃発し、論じ尽くされている感のある句でもある。しかしながら、この句のどういった点を評価するのかということにおいては、未だに揺れていると思われる。
たとえば、細見綾子(敬称略、以下同)は、一九八五(昭60)年九月の講演で、「私は、子規の俳句の中で、どれが一番好きかと言われたら、やっぱり〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉、あの句がいいと思います」と述べた後、その理由として、「いかにも歯切れがよくて、十四、五本はあるだろうなあ、と言い切っているんじゃないですか。それが写生の良さ、私は鶏頭らしいと思います(注2)」。ここで述べられている評価軸は、「写生の良さ」「鶏頭らしさ」であるが、この二つは、細見に限らず、この句を評価する際の言説にかなりの確率で使われるキーワードである。ただし、「写生の良さ」とは何か、「鶏頭らしさ」とは何か、となるとまるで曖昧模糊としているのである。
一方で、山口誓子の「生の深処に触れた(注3)」や、山本健吉の「たぐいなく鮮かな心象風景(注4)」であるという結論も、やはり大雑把な括りのまま宙に放り出されてしまったという感が否めない。言い換えれば、評価軸の定まらないままに、秀句という評価だけが確定している状態だと言えるだろう。
こうした状態から抜け出すための手段として、私は、この句に関しては文法からの読み解きが極めて有効だと考える。結論から言ってしまえば、「ぬべし」にまつわる「未来へのまなざし」こそが、この句の解釈の要なのである。こうした点は、これまでの言説に抜け落ちていた、あるいは、もしかしたら言外にほのめかされていたのかもしれないが、表立って論じられてはこなかった。
折しも今年は子規生誕一五〇年に当たる。昭和五〇年代初頭、大岡信(注5)が新たな視座として提示した「ぬべし」を鍵として、もう一度この句を読み解き、この句に「未来」という新しい視点を提示したいと思う。ひいてはそれは、子規の俳句理論である「写生」の変容の指摘に繋がっていくと考えるのである。
二、「ぬべし」考
この論の核となるのは、「ぬべし」である。そこでまず「ぬべし」の文法的解釈から論を進めていく。
(1)「べし」について
一般に「推量」の助動詞と呼ばれる「べし」であるが、その意味は多義にわたっている。ちなみに、現在、高等学校等で教授している古典文法では、①推量 ②当然 ③意志 ④可能 ⑤適当 ⑥命令 の六つの分類が一般的であるが、これも便宜的なもので、判別しにくい場合も多いのである。基本義としては、たとえば「ある事柄の成立についてその可能性があることを確信をもって、それが当然(必然)であると推量する意が原義である(注6)」(傍線は論者、以下同)とある。
次の例文を見ていただきたい(意味は基本義である)。
- 雨降りけむ。(雨がふっただろう。) …「けむ」は過去推量の助動詞
- 雨降るらむ。(今ごろ雨が降っているだろう。…「らむ」は現在推量の助動詞
- 雨降らむ。(雨が降るだろう。) …「む」は未来の事柄についての推量が中心の助動詞
- 雨降るべし。(雨が降るはずだ・雨が降るにちがいない。) …「べし」はある事柄の成立についてその可能性があることを確信をもって、それが当然(必然)であると推量する
ここで確認しておきたい重要なことは、これら推量の助動詞の「視線の向き」、いわゆる「視線のベクトル」である。aの「けむ」の推量は「過去」に向き、bの「らむ」では「現在」にあり、cの「む」の場合は「未来」に向いている。ではdの「べし」はどうなのか。前述の「べし」の基本義(傍線部分)から、視線は明らかに「未来」に向いている。
つまり「べし」は、多義にわたりつつ、基本的には「未来へのベクトル」を持つ助動詞であるといえるのである。
(2)「ぬ」について
一般に「完了」の助動詞と呼ばれる「ぬ」であるが、基本義としては、たとえば「ある時点において事柄が成立・完成している意を表すのが本義である。そのさい、基準となる時点は現在に限らず、過去や未来のある時点でもよい(注7)」とある。「ぬ」という助動詞には、変化・動きなどが完成・終結した意を表す「完了」だけではなく、まだ実現していない、つまり「未来のある時点」の変化・動きなどについて、その完成を確認・強調する意を表す「強意(確述)」の用法があることを忘れてはいけない。そして、この「強意(確述)」の用法は、多くの場合、下に「む」「べし」といった推量の助動詞を伴っており、「ぬ」は下接の推量の助動詞を強調する働きをするのである。決して、すでに終わってしまったことを表す「完了」の意だけではないのである。
(3)「ぬべし」について
(1)(2)から、助動詞の「ぬ」と「べし」が合体した「ぬべし」という語法は、《「強意(確述)」の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「べし」》ということになる(注8)。しかもこの「ぬ」は、文脈の中での「べし」の意味を強める働きをするので、たとえば、「べし」が「推量」の意であるなら、「事態の生ずることを確定的なこととして推量する意を表す。きっと…するだろう。…してしまうにちがいない。…てしまいそうだ」(『日本国語大辞典』「ぬべし」の項)ということになるのである。「未来へのまなざし」が強く働いている。
三、「鶏頭」の句考
(1)文法的解釈をすれば
そこで、「鶏頭」の句を文法に則って解釈すれば、ここに四つの景が立ち現れる。まず、前章の「ぬべし」の最もオーソドックスな語法に則って解釈すれば、「鶏頭が十四五本もきっとあるだろう、あるにちがいない」となり、この場合、鶏頭は現時点では咲いていない未来の景である。これをAとする。
つぎにB。実は、「べし」の原義からは少々外れるが、「目の届かない所で、現在進んでいる事態を断定的に推定する」(『日本国語大辞典』「べし」の項)とあるように、未来のみならず、現在への視線も併せ持っていることも事実である。そうなると、「鶏頭が十四五本もきっとあるだろう、あるにちがいない」と解釈はAと同じであっても、鶏頭は現時点で咲いている。けれど、それは目の届かない(認識できない)ところにあって、事態を推し量っているということになる。
Cは、B同様に鶏頭は咲いていて、しかも見えている。全体が見えているか一部が見えているかは問題ではない。推し量っているのは、その「花の数」なのである。「ぬべし」が「十四五本」と呼応している場合である。
Dは、C同様に鶏頭が見えている。しかしCとの違いは、「ぬべし」が「鶏頭」と呼応しており、推し量っているのは、その「花の種類」である。
整理すれば次のようになる。
- 未来の庭の景
- 現在の庭の景《鶏頭は見えていない》
- 現在の庭の景《鶏頭は全体(一部)が見えていて、花の数を推測》
- 現在の庭の景《十四五本の赤い花は全体(一部)が見えていて、花の種類を推測》
「鶏頭」の句を、「ぬべし」を鍵として読み解くと言ったものの、ここで一旦は行き詰まってしまう。この句についての何の情報もなく、純粋にこの句だけを解釈すると、結局、A~Dの四つの景が立ち現れてしまうのである。これまでの「鶏頭論争」においては、この文法的解釈と実際に句に詠まれた景との関係に混乱が見られたように思う。文法的解釈に従えば、A~Dのどれもが正解となるのである。
(2)句の周縁をめぐって
さて、ここで「作者の人生を読み込まなければ読み解けないような句は、芸術作品として自立していないのではないか」という問いが浮上するかもしれない。その問いは、「作家論・作品論」に対立拮抗する概念として登場した「テクスト論」、おそらくそれに近い立ち位置から発せられる問いだろう。しかしながら、果たしてその問いは妥当なのだろうか。ここでこの問題に深入りする余裕はないが、ともかくも、作者の存在を意識的に切り捨てて作品を分析するという「テクスト論」は、すでに行き詰まりをみせている。ましてや俳句は最短の詩型である。それを読み解くためには、もちろん、安易な伝記的事実の反映には気をつけなければならないが、必要とあらば、その句の周縁の考証、考察を精査して取り込んでいくべきであろう。「鶏頭」の句も、まさにそういう一句なのである。
この句が最初に発表されたのは、一九〇〇(明33)年九月九日、根岸の子規庵における句会においてであった。子規の亡くなるちょうど二年前である。この日の句会の様子は、『定本高濱虚子全集』(昭48~50・11、毎日新聞社)の第二巻(「日本派句會稿・.子ほか選句稿」)に、また『子規全集』(昭50~53、講談社)の第十五巻「俳句会稿」に公表されて明らかになった。
当日は子規、虚子を含めて十九名の会者(注9)のもと、二回運座が持たれている。第一回運座は十題(注10)出題され、一題につき一句を出句。第二回運座は、席題「鶏頭」で各自十句という句会であった。子規は、第一回の運座には一句しか出句しなかったが、第二回の運座では、以下にあげる九句を出句している(注11)。
席題「鶏 頭」
①塀低き田舎の家や葉鶏頭(稲)
②かまつか/葉鶏頭の錦を照す夕日哉
③誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や(晁・雪)
④萩刈て鶏頭の庭となりにけり(麦・瀾・惟)
⑤鶏頭の十四五本もありぬべし(稲・鳴)
⑥鶏頭の花にとまりしばつたかな(麦・孤・瀾)
⑦朝皃の枯れし垣根や葉鶏頭(月・人・雪)
⑧鶏頭に車引入るゝごみや哉
⑨鶏頭や二度の野分に恙なし(虚・稲・烏・牛)
(論者が、『子規全集』の句会稿の中から子規の句九句を抜き出し数字をつけた)
他の十八名のそれぞれ十句を合わせて、「鶏頭」の句は全部で一八九句あった。その一八九句の中から、各自十七句を選句している。⑤の句は、稲青と鳴球が選句しただけの二点句であった。虚子は点を入れなかった。さらに言えば、虚子と碧梧桐編集の『子規句集』(明42、俳書堂)に、この句は収録されなかったし、後年、虚子独りで編集した『子規句集』(昭16・6、岩波文庫)にも収録されなかった。換言すれば、虚子は、一生涯この句を無視し続けたとも言えるのである(注12)。
次に、席題の「鶏頭」が嘱目吟だったのかどうか。この問いに関して、緻密な考証を行ったのが、注1で紹介した林桂の「鶏頭論」(『船長の行方』、一九八八・二、書肆麒麟)である。二回目の運座に出された一八九句を子細に検討し、席題「鶏頭」の本意を離れての共通現象、それも特殊な場面を詠んだ句が幾人かに渡っていることを提示する。その一端を挙げれば、「鶏頭や松の日影にかつ赤し 抱琴」「松の枝の横這ふ下や鶏頭花 三子」といった松と鶏頭との位置関係や、「鶏頭の上に物干す小庭哉 格堂」「鶏頭に洗濯物の雫かな 牛伴」のように生活の一端を窺わせる描写である。こういった具体例を挙げることによって、「鶏頭」が単なる席題ではなく、嘱目による写生ゆえに起こる現象であることを証明してみせたのである。そこに疑念を差し挟む余地はないであろう。
では、子規がその鶏頭を実際に見ることができたのかどうか。この問いに関しても林は詳細に考察しているが、この論を進めるための必要最小限の事項を整理したい。まず、子規の随筆を書き出してみる。林の「鶏頭論」でも、大岡の「鶏頭の十四五本も(注13)」でも引用されている一節である。
此秋の野分に悉く倒れた鶏頭は別に枯れもしないで段々大きくなつて行く。薄も刈つてしまひ、萩も枯れてしまひ、外の草は皆跡も留めぬやうになつた冬の初に、十本余りの燃えるやうな鶏頭ばかりが残つた。(…)或る日虚子が来て青々が来て、此日は何となく愉快な日であつたが、虚子に障子明けてもらうて庭を見ると、例の鶏頭が並んで居るのがたまらなく愉快であつた(注14)。
「鶏頭」の句が発表された句会の一年前、一八九八(明32)年十二月号に、「根岸草庵記事」と題して載った子規の随筆の一節である。ここからわかることは、冬の初めの子規庵の庭に、十本余りの鶏頭が残っていたこと。そして、障子を明けると、部屋に居ながらにして子規に見えたということである。
この「根岸草庵記事」には、子規の他に、四方太、青々、碧梧桐、虚子たちも子規庵や庭の様子を書いている。青々は「けふこの席上で思ひ..に何か一つ宛書かうといふ事に相
談が一決した。もし即景をかくのなら鶏頭の数位はよんでおくのも必要でないかといふ主人(=子規、論者注)の詞に、丁度障子の下に居た虚子君が障子をあけた(注15)」と書いているし、 当日、碧梧桐はその場にはいなかったが、彼も文章を載せている。「或る日子規子の庭にある鶏頭がひとり言を言つた。/今年の夏から自分等の眷属十四五本が一処に半坪程の中に育てられたが初めの内は松葉牡丹にさへ圧しつけられるやうな有様、況して桔梗は南側の日あたりに立つて居る、其又南には乱暴な芒が我一人といふ勢で取り乱して居るといふので、我々も甚だ困くるしめられた訳であつた(注16)」が、その書き出しである。
咲き残る鶏頭の数を、子規は「十本余り」と書き、碧梧桐は、「十四五本」と書いた。後でもう一度触れることになるが、大岡は、この碧梧桐の文章を論拠として、子規の鶏頭の句に過去を引き寄せることになる。
さて、三(1)の「ぬべし」から立ち現れた四つの景を、ここでもう一度見てみよう。
- 未来の庭の景
- 現在の庭の景《鶏頭は見えていない》
- 現在の庭の景《鶏頭は全体(一部)が見えていて、花の数を推測》
- 現在の庭の景《十四五本の赤い花は全体(一部)が見えていて、花の種類を推測》
これまでに確認できたことは、席題が「鶏頭」であること、嘱目吟であること、子規は居室に居ながらにして鶏頭を見ることができたということであった。とすれば、当日、子規が目にしていた光景はCである。たしかに子規の目には、咲いている鶏頭が全体(あるいは一部)が見えていたことだろう。しかしながら、それでは、前章「ぬべし」考で考察した「未来へのまなざし」、それを反映したAの景と矛盾する。子規が「ぬべし」の持つ未来へのベクトルを理解していなかったとしたら、答えは簡単である。眼前のCの景を見て、きっと今年も十四五本咲いているにちがいないという思いを素直に詠んだと考えられるからである。そこで、問題になってくるのが、子規の「ぬべし」観である。
(3)子規の「ぬべし」観
いわゆる高等学校等で学習する「文語文法(古典文法)」は、平安時代の和文、とりわけ十一世紀初めの頃の物語・和歌にみられるものを中心としてまとめられた文法をいう。俳句で「文語文法」といっているのも、この文法である。しかるに、言葉は移りゆき、それにつれ文法も移りゆく。したがって、この文法に外れているからといって、すべてが間違いとも言えない。それゆえ、前章で行った「ぬべし」の考察をそのまま子規の句に当てはめてよいのか、つまり、子規が「ぬべし」をいったいどのように理解していたのかということがとても重要となってくるのである。
『子規全集』第一巻~第三巻の子規の俳句中、「べし」の使用はちらほら見かけるものの、「ぬべし」となると、今、論じている鶏頭の句以外に二句しか見つけることが出来なかった。その二句を次に挙げてみる。
水仙は只竹藪に老いぬべし(明28)
犬の塚狗尾草など生えぬべし(明29)
まず「水仙」の句であるが、竹藪に咲いている水仙を見て、「きっとこのままこの竹藪で水仙の盛りが過ぎていくにちがいない」程度の意であろう。「狗尾草」の句の場合は、犬を埋めた塚を目の前にして、「きっと狗尾草などがこの土から生えてくるにちがいない」程度の意であろう。どちらの「ぬべし」も、明らかに「未来へのまなざし」のもとに使われている。前章での「ぬべし」の考察に一致しているのである。
また、子規には、助動詞「べし」に注目していた時期がある。というのは、『ほとゝぎす』第十九号(明31・7月号)に、「べく」という題で、結句が「べし」の連用形である「べく」で終わっている和歌を列挙しているのである。その二十五首の中にも、「おひしげれひら野の原のあや杉よこき紫にたちかさぬべく〈拾遺、元輔〉(=この子よ、源氏の将来を背負って、立派に生育しておくれ。濃い紫の袍を裁ち重ねて着るように)(注17)」と「「ぬべく」で終わっている和歌が一首ある。なぜ子規が結句の「べく」にこだわったのかということについてははっきりしないが、助動詞「べし」で和歌を止めるということについて非常に興味を覚え、古歌から抜き出し、研究していたということは事実である。そして、その中の「ぬべし」は、明らかに「未来へのまなざし」を持っているということも確かである。
では、子規が研究していた芭蕉、蕪村は「ぬべし」を使っているのだろうか。『蕪村全集』(平13・9、講談社)の第2巻〈連句〉に見つけることは出来なかった。芭蕉については、『松尾芭蕉集1 全発句』(新編日本古典文学全集、平7・7、小学館)に二句見つかった。
「ぬべし」の使われている芭蕉の句
藻にすだく白魚やとらば消きえぬべき(延宝九年〈一六八一〉)
鶴鳴くや其声に芭蕉やれぬべし(元禄二年〈一六八九〉)
「白魚」の句は、「とらば」(=もしとったら)と仮定条件であることからも、「消ぬべき」(=きっと消えるにちがいない)という未来の景への推量であることは明白であり、「鶴鳴く」の句も、鶴の鳴く甲高い鋭い声に、「芭蕉やれぬべし」(=芭蕉の葉もきっと破れてしまうにちがいない)という未来の景への推量である。
ところで、子規のこの鶏頭の句を最初に評価したのは、子規門下の歌人であった長塚節であると言われている。というのは、長塚節が満三十五歳で亡くなった折、斎藤茂吉が『ホトトギス』に追悼文を寄せ、次のように書いたからである。「長塚さんは俳句に就いては黙つて居たがなかなか動じない意見を有つてゐた。(…)正岡先生の晩年の句の『鶏頭の十四五本もありぬべし』が分かる俳人は今は居まいなどと云つた(注18)」。では、俳壇の誰もがまだ注目していなかった頃に、この句を評価した長塚節は、「ぬべし」をどのように考えていたのだろうか。『長塚節歌集』(斎藤茂吉選)(昭8・8、第1刷、平26・2、第27刷版、岩波文庫)(八一九首)に二首見つかった。
「ぬべし」の使われている長塚節の短歌
晩秋雑詠
こほろぎははかなき蟲か柊のはなが散りても驚きぬべし
(明治四十四年)十二月七日、程ちかく槭をおほく植ゑたるあり、けふは塀の外に散り敷ける落葉を掃きて、松葉のまじりたるまゝに火をつけて燒く
時雨れ來るけはひ遙かなり焚き棄てし落葉の灰はかたまりぬべし
「こほろぎ」の歌は、「はなが散りても」(=花が散ったとしても)と仮定条件であることから、また「時雨れ」の歌では「けはひ遙かなり」で、まだ時雨は来ていないが気配だけはすでにあって、もし時雨が来たら、「落葉の灰はかたまりぬべし」(=落ち葉焚きをした灰は、きっと固まってしまうにちがいない)と二首ともに眼前の景ではなく、未来の景を推量しているのである。長塚節が、子規の「鶏頭」の句のどこを評価したのかは明らかではないが、長塚の「ぬべし」の認識が、前章の考察通りであったことが窺える。
ちなみに、虚子の場合、『定本 高濱虚子全集』第一巻~第四巻(前掲)中、「ぬべし」の使われている句が一句だけあった。「大正十五年六月・池田あきら病気見舞」と前書きがあって、「浴衣著て早籐椅子にありぬべし」。句意は、自分が見舞に行くのを、池田あきらは「早籐椅子にありぬべし」(=早くも籐椅子に座って待っているだろう)程度の意であろう。これは、目の届かない所で、現在進んでいる事態を推測しているのであって、決して未来の景の推量ではない。虚子が「鶏頭」の句を通り過ぎた一因として、虚子の「ぬべし」に、「未来へのまなざし」がないことも関係しているのかもしれない。
(4)なぜ「ぬべし」なのか
子規の「ぬべし」観が、たしかに「未来へのまなざし」を持っていたことを確認した。しかし、視線が「未来」に向く推量の助動詞には「む」もあるし、「べし」単独でもいいのだ。「あらむ」「あるべし」「ありぬべし」、この中で、子規はなぜ、「ぬべし」を選択したのだろうか。音数の問題だとして看過することは出来ない問題である。
「む」と「べし」の違いについては、「will」と「should」の違いと言えばわかりやすいだろうか。「む」にはない「当為」の意が「べし」にあり、さらに「ぬべし」には、前章で考察したように「強意」の意が加わって、最強の「未来へのまなざし」となっている。「きっと~するにちがいない」という為には、それなりの根拠が必要である。その根拠があったからこそ、子規は「ぬべし」を使ったのではないか。
その根拠となるのが、本章(2)での引用文、「根岸草庵記事」に描かれた、「鶏頭」の句会前年の子規庵の庭の様子である。子規は「十本余りの燃えるやうな鶏頭ばかりが残つた」と書き、碧梧桐は「鶏頭のひとり言」として、「自分等の眷属十四五本」と書いた。眼前の鶏頭を見ながら、子規は一年前の鶏頭を鮮やかに思い出していたのにちがいない。だからこそ、「ぬべし」を使って、「(今年も)きっと十四五本咲いているにちがいない」と確信を持って詠むことができたのである。
実は、前述の大岡の論文(注19)も、「ぬべし」の語法から「過去」を引き寄せている。
(子規には)ごく自然に、去年の冬一文を草して鶏頭をたたえたことが思い出された。「そういえば去年の鶏頭は十四五本だったな。碧梧桐もおれの文章に付合つて、眷属十四五本を擁する鶏頭のひとりごとなる俳文を、同じ号にのせていたっけ……。あの鶏頭の美しさは忘れられない……」/子規はこうして、去年の鶏頭の思い出のために、筆をとって「鶏頭の十四五本もありぬべし」とすらすら書きつけたのではないか。
ただ、大岡説は、過去を引き寄せる余りに、鶏頭の句を「回想の句」だと解釈するのであるが、私は、「過去」は、「ぬべし」の根拠として存在していると考えるのである。
(5)子規が見ていた景とは
「鶏頭」の句に存在する、根拠0 0 としての「過去」を論じたところで、いよいよ、「鶏頭」の句に存在する「未来へのまなざし」に言及する時がきた。
まず、鶏頭の句が発表された明治三十三年に、子規が自分の未来をどのように見ていたのか。その年の『ホトトギス』一月号に載った「新年雑記」の書き出しである。
復新年を迎へた。うれしい。うれしい。其「うれしい」がまだ尽きぬ内にはや次の大問題は首を挙げてくる「来年の正月は」。さて此大問題に逢着したところで「なに今年も」とやってのける勇気は最早なくなつた。「初暦五月の中に死ぬ日あり」とも詠んだ。併しそれは嘘だ。まだ五月なんかに終わる気遣は無い。とにかく来年の正月までは生きる積りだ。といつては見たが「とにかく」「迄は」「積りだ」といふ言葉を省くことは出来なかつた(注20)。
「初暦五月の中に死ぬ日あり」と詠むことによって、死への覚悟を決めようとしたのだろうか、死との親和性を高めようとしたのだろうか。けれどすぐそのあとで、「とにかく来年の正月までは生きる積りだ」と書いて、「とにかく」「までは」「積りだ」に気弱な心情が滲み出ていることを、本人も認めている。「鶏頭」の句会の翌月、十月十四日の句会をもって「子規庵」での句会が終わることも併せて考えてみると、子規の病状はかなり悪化していたこと、そして、いよいよ近づく死を考えざるを得ない状況だったということがわかる。
とすれば、目の前に咲き誇っている鶏頭を見ながら子規が見ていた未来とは、もはや自分不在の庭に咲き誇る鶏頭ではなかったか。ここで、「A 未来の庭の景」と「C 現在の庭の景《鶏頭は全体(一部)が見えていて、花の数を推測》」が重なるのである。
遡及して考えれば、山口誓子が、子規は自己の「生の深処」に触れたのだと言い、「子規が、「もありぬべし」と云つて、それを自己の生命のうちにそつくり包んでしまふとそれは最早、現実として、見たまゝではなく、現実以上のもの、大袈裟に云へば、永遠のものになつてしまふのである(注21)」と論じたのは、もしかしたら、この「未来の庭の景」を言わんとしていたのかもしれない。また、山本健吉が「現実の世界から作品の世界への移調(トランスポジション)」と言い、「たぐいなく鮮かな心象風景となって、一句に結晶するのである(注22)」と論じた「心象風景」に、「未来の庭の景」も含まれていたのかもしれない。しかしながら、両説ともに、「永遠のもの」「心象風景」と、概念があまりにも漠然とし過ぎていて、具体的な像を結ぶことができなかったのである。
ここまでの考察のもと、私は、「鶏頭」の句は、眼前に咲く庭の鶏頭を見ながら、過去(とりわけ一年前)の鶏頭を思い出し、その「過去」を根拠としながら、「未来」、それも自らが不在となった庭の鶏頭を重ね合わせた句だと考えるのである。一旦は行き詰まったかにみえた「ぬべし」からの読み解きであるが、結局、「過去」―「現在」―「未来」を貫く軸として「ぬべし」が作用することによって、「眼前の庭」に、「過去の庭」と「未来の庭」を引き寄せたのである。つまり、「鶏頭」は三重構造となっている。
四、おわりに
なぜ「咲きぬべし」ではなく、「ありぬべし」なのだろうか。「きっと咲くにちがいない」と「咲く」ことを推量・推定するのではなく、「きっとあるにちがいない」と「ある」という存在そのものを推量・推定しようという意識が、「ありぬべし」という措辞を選ばせたのだろう。当然この「存在」には、「鶏頭の存在」と同時に「作者の存在」も重なっている(注23)。鶏頭が存在し、自分が存在していた「過去」、鶏頭が存在し、自分が存在している「現在」、そして、鶏頭が存在し、自らが不在の「未来」である。
ところで、「十四五本もあり」の「も」も、不思議な使い方である。たとえば、どうして「十四五本のあり」や「十四五本はあり」ではないのか。おそらく、この係助詞「も」の働きは、「十四五本ほど」という「程度」の意ではなく、たとえば、「百人も居る」の「も」に近いのではないだろうか。この「も」の働きを、「驚き・感動の意を表す」(『大辞泉』)、「主題を詠嘆的に提示する」(『日本国語大辞典』)、「文意を強調し、感動を表す」(『角川全訳古語辞典』)と、それぞれ表22現の違いはあるものの、「も」に強い心の働きを認める表現となっている。したがって、この「も」と「ありぬべし」が合体した「もありぬべし」は、感動を伴って「存在するべきものがきっと存在するにちがいない」と取るのが妥当ではないか。
けれど、果たして子規がそこまで考えて作った句なのだろうか。当日句座を共にした俳人たちはおろか、子規本人も気づいていなかったのではないだろうか。実は、九月九日の句会で発表した「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句を、同じ年の十一月十日の新聞『日本』に載せる折、「庭前」と題をつけているのである。なぜ、鶏頭の句を発表するに当たって、わざわざ「庭前」という題をつけたのか。そこには、子規のとまどいがあったのではないかと考える。その日の「鶏頭」の九句(三(2)で紹介)のうち、残りの八句は、平凡な写生句である。後日、句会の句を読み返した折、自らの唱えてきた「写生」から逸脱したこの句の異様さに、彼自身が一番驚いたのかもしれない。知らず知らずのうちに意識に潜んでいた鶏頭への思い、死への思いが、即吟という瞬発力を借りて、僥倖のように現れた句であったのかもしれないのである。そこで、もちろんこれは憶測でしかないのだが、新聞に載せる折、「未来へのまなざし」に封印をするように、あえて「庭前」とつけたのではないのか。そして、眼前の景を詠んだ句だと提示しながら、どこかで、この句に潜んでいる「過去」と「未来」の庭を読み解いてくれる読者を期待していたのかもしれない。
ところで、これまでに子規、いや子規に限らず、このような句があったであろうか。子規が唱えてきた「写生」からは完全に逸脱している。そこで、思い浮かぶのが絶筆の「糸瓜」三句(新聞『日本』明35・9・21)(注24)である。
正岡子規子の絶筆
是れ子が永眠の十二時間前即ち十八日の午前十一時病床に仰臥しつゝ痩せに痩せたる手に依りて書かれたる最後の俳句なり〔三句〕
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
とりわけ「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」においては、過去の助動詞「き」の連体形である「し」と相俟って、すでに「佛」となった自らの姿を詠み込んでいるのである。これは、「鶏頭」では「ぬべし」にほのめかされていた「未来の景」が、「糸瓜」に到って顕在化したのだとも言える。とすれば、「糸瓜」の句は、すでに二年前の「鶏頭」の句に始まっていたと言えるのではないだろうか。
「未来へのまなざし」注解
注1 鶏頭論争、及び「鶏頭」の句が発表された句座に関する最も精緻な研究は、林桂「鶏頭論」(『船長の行方』、一九八八・二、書肆麒麟)である。
注2 細見綾子「子規と私」(昭60・9・23、第二十回子規顕彰全国俳句大会の記念講演の要旨、『子規・写生 ―没後百年―』平13・5、角川書店)96頁。
注3 山口誓子「子規の一句」(『九年母』昭23・一月号)6頁。
注4 山本健吉「鶏頭論終結」(『馬酔木』昭25・十月号、『山本健吉全集 第八巻』昭59・4、講談社)107~111頁。
注5 大岡信「鶏頭の十四五本も」(『風景』昭51・二月号、『大岡信著作集 第九巻』昭53・4、青土社)386~391頁。
注6 久保田淳・室伏信助編『角川全訳古語辞典』(平14・10、角川書店)。
注7 注6に同じ。
注8 注5の大岡説も、「完了の助動詞「ぬ」と推量の助動詞「べし」が結びついたこの用語法には、完了だけでなく確信や確認を表す意味も加わっている」としている。
注9 巴塘、惟城、鳴球、烏堂、格堂、牛伴、雪岑、孤雁、晁東、麦圃、抱琴、挿雲、稲靑、虚子、麦人、三子、瀾水、月明、子規の十九名
注10 娼妓廃業・芋・稍寒・祝入学・椎の実・鳴子・十六夜・蘭・筆筒・つくつく法師の十題
注11 句会資料は、正岡子規『子規全集』(第十五巻、俳句会稿)(昭52・7、講談社)より。795~801頁。尚、子規の句および随筆については、すべて『子規全集』(全二二巻、別巻三巻)(昭50~53、講談社)に依拠する。
注12 林桂は、この虚子の無視を、子規において「俳句形式」に開かれていた可能性を、虚子が閉ざしてしまったと重く受け止める。そして、注1の「鶏頭論」は、虚子がこの句を通り過ぎたことの真の意味を探求するための「前提定立論」だと述べている。(前掲書)313頁。
注13 注5に同じ。
注14 正岡子規「根岸草庵記事」(『ホトトギス』第三巻第三号 明32・12、『子規全集』第十二巻、随筆二、昭50・10、講談社)366頁。
注15 青々「根岸草庵記事」(『ホトトギス』第三巻第三号 明32・12、復刻版昭47・10、日本近代文学館)21頁。
注16 碧梧桐「根岸草庵記事」(『ホトトギス』第三巻第三号 明32・12 、復刻版昭47・10、日本近代文学館)26頁。
注17 歌の解釈は、新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』(五九二番)による。「源遠古朝臣子うませて侍けるに」の詞書がある。
注18 齋藤茂吉「長塚節氏を憶ふ」(『ホトトギス』大4・11月号初出、『齋藤茂吉全集』第七巻)13~14頁。
注19 注5に同じ。
注20 正岡子規「新年雑記」(『ホトトギス』第三巻第四号、明33・1、『子規全集』第十二巻、前掲書)422頁。
注21 注3に同じ。
注22 注4に同じ。
注23 このことに関わってくる先行研究として、注1「鶏頭論」がある。林は「鶏頭の「存在」は視覚の「存在」を意味するものであり、延いては「作者」そのものの「存在」を意味するものであろう。この作品に於いて鶏頭の「存在」は、とりも直さず「作者」の「存在」なのだ」と論じている。(前掲書)375頁。
注24 正岡子規『子規全集』第三巻(前掲書)473頁。