インターネット句会
規約(マニュアル)をご承諾の上、ご利用ください。多くの句会が、協会員に限らずご参加いただけます。どうぞお気軽にご利用ください。
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49才以下の若手句会として、毎月第3土曜の午後・現代俳句協会事務所にて開催している【ゼロ句会】。 現代俳句協会青年部アンケート「俳句の未来の多様性のために、今、現代俳句協会ができること」の結果を受けてはじめました。 有季定型から無季破調まで、合評がフラットに飛び交う句会です。 協会員に限らずどうぞお気軽にご参加ください。
【日時】毎月第三土曜 13:30〜16:30 (投句締切は13:50です)
【場所】現代俳句協会事務所
【参加対象】49才以下の方
【出句】持ち寄り5句出し(当季雑詠)+席題若干句
【参加費】500円
【申込・問い合わせ】 要申込(定員20名、受付順)
協会でのゼロ句会は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染予防・拡散防止のため、当分の間休止します。
ゼロ句会は、オンライン句会となりました。
詳細は青年部ブログをご覧下さい。
研修通信俳句会
令和6年度 第30期研修通信俳句会
全国の熱心な会員の作品交流の場として好評の「研修通信俳句会」は、2024年4月から第30期に入りました。
◎俳句会 通信(郵便)で隔月年6回
・投句/5句 選句/毎回10句互選
・講師
林 桂 (第77回現代俳句協会賞受賞)
小田島 渚(第39回兜太現代俳句新人賞受賞)
・会報 毎回講師選評と互選結果掲載。
◎定員70名程度。先着順(2組に編成)
◎期間 令和6年4月から1年間(途中入会可能)
※添削指導はありません。互選による通信形式の句会となります。
スタッフ:なつはづき、長谷川はるか、小髙沙羅、栗原かつ代、鈴木砂紅、久下晴美、利光知惠子、磯部薫子
研修通信俳句会 「第三十期・第三回」
Aグループ互選高点句
いゝ人を抜け出してみるサングラス 武田 稲子
ダイニングしばし書斎となる良夜 吉良 香織
待ち人は来なくて水を打っている 東 國人
ひらかない抽斗のある終戦忌 加那屋こあ
Bグループ互選高点句
コスモスと駅長だけのホームかな 古畑 和
さびしさは祭り太鼓が連れてくる ももせもも
猫じゃらし道草を食う風もあり 鴫原さき子
この街を終の地と決め山車を引く 飛田 伸夫
淋しさも自由も一人虫を聞く 梅井 玲子
引き返す道を残して穴まどひ 坂川 花蓮
林 桂 講師特選句
Aグループ
龍淵に潜む鼻から内視鏡 山内 基成
「龍淵に潜む」という言わば「虚」の季語と、「鼻から内視鏡」という「現実」の対比的な取り合わせ。バリウム検査から内視鏡検査が主流になり、さらに口からの挿入が鼻へと変わっている。この「現実」も、百年前では「龍淵に潜む」ごときだったかもしれない。
待ち人は来なくて水を打っている 東 國人
約束の時間に現れない友人。思わずできてしまった時間を、打ち水をして調整する。約束通りこないことを怒るのではなく、心配するタイプだろう。その人の涼のために打ち水までする。待つ時間を楽しい時間に変換する技の持ち主でもある。
男の子はみんな同じソーダ水 大渕 久幸
「同じ」で切れるのか、「ソーダ水」に係るのかで少し違ってくる。しかし、小さな集団の男の子は、みんな同じソーダ水を注文して同調している。そこに男の幼さを見ているのは、女の子だろう。
Bグループ
屍を貫きてをり蟻の列 四方 禎治
恐らく蟬などの昆虫の屍だろう。その内部は空洞になって、蟻の出入りが続いている。「屍を貫きてをり」の描写が目を引く。屍の憐れさも、蟻の命の逞しさも同時に表現できている。
夕立の鯉を威してをりにけり 宮原 光女
「の」が、主格を表す助詞か、「鯉」に係る連体修飾の助詞かで、意味は変わってくる。夕立が鯉を威しているのか、夕立の中の鯉を「作者」を含む誰かが威しているのか。恐らく前者だろうと想像する。「威して」は擬人法。夕立の様を鯉に絞って描く視点が卓抜。
鉄砲を祭の夜に買ふつもり 百目鬼英明
鉄砲はもちろんおもちゃ。祭の心待ちを「買ふつもり」で描く。私の育った田舎には、玩具屋などはなく、屋台の出店が唯一のおもちゃとの出会いの場であった。男の子の一番人気は火薬を込めて音を出すピストルだった。作者も同齢で同じように育った人か。
小田島 渚 講師特選句
Aグループ
外は雨檸檬をひとつ窓に置く 弓場あす華
何の予定もない休日の朝の雨のような気がする。雨音に耳を傾け、何もかも静かに濡れている景色を見るでもなく見ている穏やかな時間。そんな時間に重しを置くように出窓に置かれた檸檬。雨の窓辺は暗く、檸檬の黄色はくぐもっているが、雨が上がった時の眩さも想像させる。何でもない日常に檸檬を一つ置いたのは、詩心のなせる業だろう。
空蟬の背中を溢る風の音 渡部 健
羽化したばかりの蟬の翅は、薄い黄緑色の縮れた状態であるが、次第に広がって透明になる。羽化したあと、空蟬の背中には割れ目が残るが、そこから溢れる風の音とは、幼虫のときに蟬が見ていた空を飛ぶ夢に吹いていた風かもしれない。成虫になったあとの蟬の生涯はとても短く、溢れ止まない風音には無常観も感じる。「背(せな)を溢るる」と連体形にして「風の音」につなげても良さそうです。
板ずりの胡瓜のごとし木曜日 佐藤 詠子
まな板の上で塩をまぶした胡瓜を転がす板摺。食感や見た目をよくする下処理であるが、そんな木曜日とは段取りの一日であったのだろうか。金曜日の会議のための打ち合わせ、あるいは、週末の予定ために友達と連絡を取ったり、チケットを手配したりというような。木曜日を「板ずりの胡瓜」と捉えた言語感覚の自由度が際立っている。
Bグループ
さびしさは祭り太鼓が連れてくる ももせもも
祭囃子の和太鼓は、祭の勢いをさらに盛り上げてくれる。祭の賑わいは寂しさとは無縁のようであるが、祭太鼓の独特なリズムには、子供の頃や故郷の思い出、あるいはもっと原初的な記憶が沸き起こってくるように思う。それらの記憶にはすべて人との縁が繋がっているからだろうか、揚句の寂しさはどこか味わい深い。
昼寝覚め何人家族だつたつけ 菱沼多美子
猛暑日が連日続くなか、昼寝は短くても、心身を回復する貴重な時間である。短いからか起きた時、ここが何処なのか一瞬忘れてしまうような、朝の目覚めとは違った自己の非連続性が起こることがある。家族の人数はさすがに忘れなさそうだが、卓上に置いておいたコップの数が多かったり、何かの拍子でわからなくなったのだろう。数の上では五人家族でも百人力というような存在のこともある。必ずしも数値だけが現実を表しているわけではないことを思わせられた。
炎昼や廊下は暗く果てしない 服部 近江
外の強い日差しのせいで、真夏の屋内は暗く感じることがある。長い廊下は学校や病院、寺院など大きな建物を思わせるが、その陰鬱な様子から〈戦争が廊下の奥に立つてゐた/渡辺白泉〉が浮かぶ。世界はいまだ戦争を止めることが出来ないでいる。暗く果てしない廊下はどこまで続くのだろうか。
(長谷川はるか報)