「戦後八十年、昭和百年」に思うこと
みちのくの二人の帰還俳人(3)
栗林 浩
二.小原啄葉の場合(中国軍に挟撃さる)
小原啄葉の人口に膾炙している句は、何といっても、
海鼠切りもとの形に寄せてある
であろう。確りした写生句で、かつ諧味豊かである。他に、筆者の好きな句には、
脱ぎ捨てしものの中より仔猫かな
にはとりが畳をあるく夕立かな
などもある。巧まないユーモラスな句である。
その啄葉の句集『黒い浪』(平成24年5月)、および『無辜の民』(平成26年11月)はいずれも重々しい戦争と震災がメイン・テーマで、それまでの句集との句柄の違いが大きい。氏の身中の何かが氏を突き動かして、このような句集を上梓するに至ったのであろう。そう感じ取った筆者は、平成27年3月、盛岡市の小原邸を訪ねた。
啄葉が語ってくれた。
「昭和17年に20歳で軍隊に取られました。4年ほどいましたね。北支にもいました。苦戦しましたよ。幸運にも20年に復員し、県庁に復職しましたが、世情も、精神的にも困難な時代で、俳句は休んでいました」
自選句をあげてくれるように頼むと、次の句を挙げてくれた。
海鼠切りもとの形に寄せてある 『遙遙』
うすやみに高さのありてをとこへし
初夢や自決の弾をひとつづつ 『不動』
つらなれる目刺もおなじ日に死せる 『無辜の民』
冷まじや壁を摑みし指紋痕
地震くればおのれをつかむ蓮根掘
蛞蝓へそこは棲めぬと詫び給へ
無辜の民追はれ追はれて火蛾と生く
確率は確率万が一が寒し
海へ出たがる初凧の糸ゆるす
1句目は少し評判が良かった句で、奥さんが料亭「小原家(おばらや)」を経営していて、明治創業の老舗であった。ドラマの撮影に使われたほどで、調理室には5,6名の調理人がいて、俎板の上で海鼠を短冊のように切っている。5,60人分の宴会の料理を作るのだが、切ったあと盛り付けしやすいように、そっともとの形に寄せてある。手際がなかなかにいい。その景だという。戻らない命であるにもかかわらず、もとの姿に戻してやる。生き物の哀れを感じたようだ。基本的には写生句。
僅か六人に
3句目は、北支にいたときのもの。中国軍の戦い方は巧妙で、出合うとまず撃ち合う。相手も応戦するが、すぐに引く。こちらは優勢だと思って追う。また撃ち合いになる。また引く。こちらはまた追う。険阻な地形の奥地まで入ってしまうと、後方を遮断されてしまい、弾薬も食糧も来ません。
「酷かったです。喰える物は何でも口にしました。木の皮・根・蛇・猿も食べました。食糧調達は炊事当番兵の責任で、肉だといって食わされたものが、後で、あれは人の肉だったかも知れない、と古兵に聞きました。2個小隊が遂に6人になり、捕虜になるなと言われ、軍旗も焼き、自決のために手榴弾を1つずつ持たされました。幸運にも救助の友軍に助け出されました。こんなお話しは、今までしませんでしたが、戦争が如何に酷くて愚かな行為だったかを、今話しておかねばなりません。ある期間、青森の部隊にいましたが、化学兵器にも係わりました。使ってはいけないと言う国際協定があったんですが、研究していたんですよ。イペリットという糜爛性の毒ガスです。実戦には使えませんでした。戦争となると、正常な判断が狂うんです。おまけに、大本営発表は大勝利大勝利でしょう。帰還してから、嘘だったと知り、精神的に大打撃でした」
兄の遺骨
啄葉には兄がいて戦死の句がある。「兄の遺骨北京より還る」との前書きで
兄嫁がまた藁塚へ泣きに行く
がある。背景を話してくれた。
「兄は甲種合格で入隊し、陸軍中野学校の銀時計組でしたが、中国へ行かされました。憲兵だったので戦犯容疑で北京に留め置かれましたが、裁判は遅々として進まず、獄の中で結核に罹り亡くなりました。戦死公報が届き遺骨を受け取りに上野へ行きました。兄嫁の結婚生活はたった1年ほどだったでしょう。兄嫁は泣くのを見せないんです。でも、よく藁塚の陰で屈んで泣いていました。北京で分骨埋葬したと聞いていた墓地と思われる場所を訪ねましたが、マンションになっていて、分かりませんでした。戦争は兵隊だけでなく、家族も巻き込む愚かな行為です。戦争での経験を書き遺しておかねばと考えました。それは米寿過ぎた頃からでした。それまでは、書けませんでした。帰還直後は精神的混乱と、負けたという自責の念が強く、大本営の嘘も衝撃でした。惨めな景は思い出したくなかったですしね。しかし、もう歳ですから、今、書いて置かねば、と思ったのです」
「軍隊では、こんなこともありました。あるとき中隊長から呼び出されましてね。恐る恐る出頭しますと、『貴様は俳句をやるのか?』って訊かれました。投句してあった作品が入選して結構な賞金が私の配属先に届くんです。手紙は全部検閲ですからね。中隊長は理解ある人で、可愛がってくれ、事務室勤務にして呉れたりしました。『どんな句なんだ』とかね。今思うと例の俳句弾圧事件があったので、戦争反対とかプロレタリア俳句とか、中隊長も心配されたんでしょう。中隊長は青森出身でして、「啄葉」の「啄」は石川啄木に関係あるのか、なんて訊かれました。『啄木が好きなんだよ』と言ったりしてね」
「北支の包頭というところにいたときは、天山山脈が遠くに見えました。7400メートル級の山です。
天山の月に哨兵たりし日も
という句を詠みました。余談ですが、藤田湘子が〈天山の夕空も見ず鷹老いぬ〉という句を詠み、代表句になっています。人から聞いた話ですが、湘子は天山を見たことがないそうですね。鷹も檻の中の鷹なんだそうです。俳句って、面白いですね」
話のついでに、東日本大震災について訊いてみた。彼の多くの句の中に、
つらなれる目刺もおなじ日に死せる
があるのである。こう答えてくれた。
「そうですね。東日本大震災での津波被害の地へは、何度も行きました。そのときの景なんです。田老・宮古・山田・大槌・大船渡・陸前高田など……。私は県庁にいましたから、各地の市長・町長さんにも会えやすかったものですから、何回も訪ねました。震災句は現地を知らないと詠めません。親類縁者や俳人も被害に遭っていますし、亡くなった人もいます。実感を大事に、被害者に寄り添う気持で愚直に詠みました。俳句の会の人たちとも何度も行きました。テレビを観ての俳句はダメなんですよ。原発の被害も……補償の話しの場も覗きましたが、補償の係りの人は、現場の人と立場が違って、上の人なのでしょうか、加害者意識が余りありませんね。自分たちも被害者なんだって言わんばかりでした」
戦争も災害もどこか同じところがあるようだ。
小原啄葉は2020年9月に99歳で亡くなった。私が取材したときは94歳であられた。その年にならないと、戦争の経験を話しておかねば、とは思はないのであろう。もう話しておかなくては、と思って話してくれたのであろう。
佐藤鬼房ももっと長生きしてくれたら、色々語ってくれたろうに、と思うのである。