手について あるいは手の不在について
松下カロ
「手の変幻」初版 清岡卓行(1922~2006)詩人、作家。代表作「アカシヤの大連」など。
清岡卓行の『手の変幻』(1966刊)は現在入手の難しい本である。その内容は文字通り「手について」の数十項の考察からなる。
冒頭語られるのは「ミロのヴィーナス」。ルーヴル美術館のよく知られた収蔵品のひとつであるこの女神像には両腕がない。つまり、本書は唯一のテーマである「手」を「そこにないもの」として語ることから始まる。ヴィーナスの腕がどのような形であったか、発見(1820年、ギリシャのミロス島で農夫が偶然掘り当てた)以来、様々な研究が繰り返されてきたが結論は出ていない。考古学者フルトヴェングラーによる試案的復元図は、ヴィーナスが左手に林檎を持ち右手で衣装の端に触れている姿である。しかし、見る者はみな両手を与えられた女神がその魅力を全く失っているのに気付く。このことは腕の欠落が不幸な事故ではなく、幸運な必然であったことを示している。
ミロのヴィーナス 紀元前1~2世紀のヘレニズム期のギリシャ彫刻。作者はさまざまな憶測があり結局は不明。群像か建築の一部であった可能性がある。両手の欠損以外は、この時期の彫刻でこれほど原型を保っているものは稀である。着衣の襞や女神の顔はやや類型的だが、表情には媚びがなく青年のようにも見える。
清岡はこう書く。
「大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表情が、思いがけなくもたらされたのである。」(『手の変幻』)
清岡の初期の詩「石膏」に「ああ きみに肉体があるとはふしぎだ」の一節がある。恋人の身体は「あるはずのないもの」として詠われ「石膏」の文字は今まで無数に作られてきたヴィーナスのレプリカを思わせる。詩人は肉体に執着しながら、その消滅を夢想している。
『ヴィーナスの誕生』サンドロ・ボッチチェリ(1445~1510)イタリア、ウフィツィ美術館 ボッチチェリは描線を重視した画家である。絵具は厚塗り、筆致は軽い。フィレンツェの財閥メディチ家の離宮に長年秘匿されていた名画。
ルネッサンスの画家ボッチチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれた女神の片手は胸を、片手は性的な部分を隠す。
「乳房をおおうようにしている右手のあどけなさ、さらに、焔を連想させるような曲線が戯れる、豊かで長い頭髪の先を抑えるような形で、それとなく性器をかくしている左手のしなやかさ。」(清岡卓行『同』)
『ヴィーナスの誕生』(写真左)ヴィーナスの右手(写真右)ヴィーナスの左手
腕自体を隠すか、身体の部分を隠すか、いずれにしてもふたりのヴィーナスの肢体は隠すという行為で重なっている。
『物思恋』喜多川歌麿(1753~1806)大首絵と称される上半身像。髪は大銀杏、櫛笄はべっ甲。襟は大きく抜かれ人妻の装いである。
絵画、小説、詩等々に現われる手から弥勒仏、浮世絵、写真、映像まで『手の変幻』に記されるのはその殆どが女性の手だ。
喜多川歌麿の「物思恋(ものおもう恋)」は歌麿作品の中では比較的地味な一枚である。軽く首を傾げた人妻が頬に当てた右手は楽器を奏でるようなリズムを伴って曲げられている。思う男を待つ風情だが、歌麿の女性像に特有のあのやや吊り上がった目と少し空いた口の無表情な佇まいに比べ、待ち焦がれ「もの思う」のは手指である。
『物思恋』女の手指
フランス映画『かくも長き不在』は、パリ郊外の小さなカフェが舞台。ヒロインはカフェを切り盛りする中年の女性である。彼女の夫は大戦末期ゲシュタポに連行されたまま戦後10年経っても戻ってこない。ある朝、店を開ける彼女の傍を一人の浮浪者が通りかかる。男は夫にそっくりであった。彼は記憶を失くしていて、映画の幕切れまで夫であるかどうかは分からない。このパセティックな不在もまた手によって表現される。ヒロインは浮浪者を食事に誘いレコードをかけダンスに誘う。彼女の手は夫(かも知れない男)の肩から頭部に伸びてゆくが、そこで驚いたように動きを止める。男の頭には大きな傷があった。細かくふるえる女の手指は不在の時間を表わしてあますところがない。
「女性に主体的な自由があるとすれば、その自由の表現であるところの行為は、どの部分よりも先に手においてかたどられていなければならない・・・。」清岡卓行(『同』)
男性の手が現実を掴むためにあるとすれば、女性の手は非現実を愛撫するためにある。それは言葉に置き換えることもできる。男の言葉は到達手段だが、女の言葉は言葉で表わし得ないものを語る音楽である。これはジェンダーやダイバーシティな社会の在り様を超えて男女がどこまでも持ち続ける差異であろう。
空蟬の掌にあるいまをいま嘆く 中村苑子『花狩』
てのひらに鬼こがらしの吹きはじむ 寺井文子『弥勒』
手花火の夜はやはらかき膝がしら 柿本多映『夢谷』
ほうたるを双手に封じ京言葉 大木あまり『火のいろに』
これらの手はもちろん作者の手であり、同時にあらゆる女の手である。子供を抱く手、男あるいは女を抱く手、さらさらと米を洗う手、死者の瞼を閉じてやる手。あらゆる手だが、そのどれでもない。女性の詠者たちは無論それをよく知っている。女の手とは存在の、同時に不在の表徴である。
2025年3月