至福
高橋修宏
男みな数に溺れて椿闇
赤椿かがやき炎える独木舟
ものがたれ椿の洞に散るつばき
母を呑み一花も降らぬ椿山
入水する童子童女も落椿
液晶に泛ぶ椿の焦げくさき
皆殺しゲームの椿また椿
空舟を宿して萬の椿かな
落椿たどりつきたるユーラシア
椿散り溶けて分解する至福
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百字鑑賞
高橋修宏「至福」
杉 美春
男みな数に溺れて椿闇
暁暗に白く浮かぶ椿、あるいは藪椿の赤い花。思わず目を凝らしてその数を数えてしまう。「数に溺れて」とは、何事も数値化して論理で捉えようとする男の性かもしれない。高浜虚子の句〈ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に〉を思い出す。
赤椿かがやき炎える独木舟
独木舟または丸木舟とも書く「まるきぶね」は、一本の巨木の幹をくり抜いて造ったカヌーのような舟。水上での最古の乗り物として太古より用いられ、その起源は新石器時代まで遡るという。一本の見事な椿の木を見た作者は、その存在感に圧倒され、火を放たれた独木舟のようだと思ったのだろう。赤い椿の花数の多さ、燃えるような色が炎のように揺らぐ。
ものがたれ椿の洞に散るつばき
咲き満ちた椿は枯れることもなくぽたっと地に落ちるが、木の洞に落ちた椿は、すぐに地に還ることもなく洞の中で萎れていく。洞は母なる木の胎内である。抱かれるように散る椿の声に、作者は耳を傾けている。
母を呑み一花も降らぬ椿山
色とりどりの椿が咲き満ちている椿山。分け入って行く母の姿は、花の中に埋もれて見えなくなってしまう。母を呑み込みながら「一花も降らぬ」椿が何やら恐ろしくもある。実景なのか、記憶の中で捏造された、ありし日の母の姿なのか。美しさと郷愁と喪失感が漂う作品である。
入水する童子童女も落椿
落花は死のイメージを伴うが、桜と椿ではそのイメージは全く異なる。形を保って落ちる椿の存在感は禍々しくもふてぶてしくもある。花弁は厚く、手に載せれば冷たく、肉感的である。童子童女という措辞からは、現代の幼子ではなく、物語や神話の世界の子どもの姿が見えてくる。例えば、壇ノ浦で平家一族とともに入水した安徳天皇や、墨田川の畔で亡くなった梅若丸のような。
液晶に泛ぶ椿の焦げくさき
パソコンやスマホ、テレビ画面に映し出される椿から、焦げくささを感じるという独特な感性。この焦げくささは、嘘くささかもしれない。生花であっても造花のように見える椿だから成り立つ措辞。
皆殺しゲームの椿また椿
「皆殺しゲーム」とは穏やかではない。ゲームには疎いので、具体的なゲーム名はわからない。いずれにせよ登場人物のすべてが最後にはいなくなってしまう『そして誰もいなくなった』的なお話なのだろう。あるいは今起きている戦争やかつてのジェノサイドなのかもしれない。そう読み解けばなおさら、恐ろしい。この椿は血を思わせる深紅である。散っても散っても次々に咲く。
空舟を宿して萬の椿かな
空舟(うつおふね、うつろふね、とも)は、丸太を刳り貫いて造った丸木舟のことだが、虚舟(うつろふね)も連想させる。作者は椿が空舟を宿している、という。咲き満ちながらも空洞を、空虚を抱えた椿の木。
落椿たどりつきたるユーラシア
椿の終焉の地はユーラシア大陸だという、なんともスケールの大きい把握。椿(海石榴)は日本原産で、『日本書紀』にも記録が残っているという。品種改良されて人気を博し、中国や他のアジア諸国、ヨーロッパへも広がって愛されている。たしかに椿はユーラシアにたどりついたのである。
椿散り溶けて分解する至福
椿が咲き、やがて落ちて朽ち、溶けて分解して土に還っていく過程は、生命のあり方そのものであり、命が全うされることは、確かに「至福」であるのだろう。一句の中に時間の経過と命のあり様を描いていて見事である。