障がい者としての俳句

水越晴子

 

1 入り口は短歌

 私は俳誌『菜の花』会員である。まだ同人ではない。私は職業というと、主婦をしている、いわゆる夫の生計で食べている人である。また、俳句を始めたのは『角川俳句』2019年1月号購入からであり、そうすると、5年くらいは経っている。ただ、まだまだ初学。わからないこと、知らない季語、いっぱいあるが、型も少しずつ定まってきた感じである。句会では投句数5句に対して1句もとられないという厳しい時もあり、時に主宰選の特選をとったりもする。句会が平等ということは身に沁みて分かっている。実は、私の入り口は短歌である。私は俳句を始める前、密かに短歌をしていた。どこへ所属するというでもない、無所属である。短歌は私にとって自分を吐露するのに一番最適だったのだ。

 私の個人的な事情をはさんでお話しすると、私は18歳から統合失調症(旧名:精神分裂病)にかかっている。また、20代には精神障害者手帳を取得し、今も変わらずに持っている。そして、精神障害有りとのことで、障害基礎年金を得ている。暮らしぶりに影響はしていないが、このお金でしている趣味が俳句である。主婦となったのは34歳からであり、結婚を機に、俳句へと真剣に向かうようになる。

 短歌では、すごく親近感ある表現などに出会うと、あるあるという共感を持って迎えた。そこから、自身の病歴や、何かとネガティブ面を呟くように、また日常の中の感性を伝える感じで詠んでいた。たまたま「公募ガイド」というサイトで見つけた短歌の賞があり、賞状を戴けたり、掲載された。そして、俳句に入るのに何も先入観無しにその掲載誌にあった『角川俳句』の宣伝のページに目が止まった。「今度本屋にいったら買ってみようかな」という軽い気持ちであった。

 句歴0年、半年以内に応募した横光利一俳句大会での佳作入賞句「洋館は黒揚羽蝶そぐうらし」での賞状送付は今でも忘れられない。まだ旧仮名すら使っていない、文語体も意識していない頃の作風である。時々短歌の雑誌も買い、俳句の雑誌も少しずつ増える。だが、短歌は読み込みが可能なのに、俳句は「歳時記」「季語帳」「国語辞典」「漢字辞典」「古語辞典」などがないと全くわからず、理解できないという句だらけだった。中には、初めて漢字で知る木ヘンの木の種類や植物の中でもこんなものがあるのだ、と思ったものだ。こういう知らないことを知るということは単純に嬉しかった。自分の浅学を思い知るのだが、それでもにわかに自分が今「知った」ということの嬉しさがこみ上げる。もっと知りたい、この奥深い文学を知ってみたい。そう思い、少しずつ結社に入る準備をしていった。

 

2 障がい者ならでは

 私が18歳から患った統合失調症には病症がある。医師の認めるところの病症は当時、「幻聴」「誇大妄想」「人格破瓜」「無反応」。すぐに治療の為に閉鎖病棟に入院した。この閉鎖病棟への入院は生涯のうち、何度も起こっている。たくさんの思い出が入院生活、精神科の病棟にある。

 私は、18歳の時、都留文科大学に通っていた。三重県出身だった私は山梨県都留市に一人暮らしをした。大学生活をしながら、ずっと帰省しなかった。時々自分の声が聞こえていた。それは間違いなく自分の声だったが、いつしか作り出したかのように「監視カメラがある」「隣人が覗いている」「足を蜘蛛が走っている」といった声が聞こえ始め、被害妄想に悩まされた。このままではいけないと思い、クリスマスを過ぎ、帰省。

 障がいがあるということを明かすのは、それほどいいイメージが無い。むしろ、共感されることもあるが、嫌われるのではないかという気持ちがあった。私は近所には隠し通した。大学を中退後、短大を受験し、入学。しかし、この短大も実家から通った割には続かなかった。短大も1年後には休学措置、後に中退する。その後はアルバイト募集を探しては健常者になりたい一心で頑張ってアルバイトをこなした。合うバイトは続くが、合わないバイトも多々あり、続いたもので3年、あとは1日か2日でやめることもままあった。

 障がい者として生きていると、色々な物事が声になって聞えて来る。それは幻聴なのか。それは心の訴えなのか。もしくは、詩としての響きなのか。言葉として聞こえ来る声は私にとっての友達のようなもの。それを掬って作り出した短歌はいつも響きと詩とで出来ていた気がする。俳句も同じように、ルールはあるが、声に従って詠むことが日課だった。その日課を続け、この声を記録としてのこせるのは結社誌だと気づく。もちろん、声を形にするには技術もいる。技能面で劣っていると気づいていた私はいろいろな三重県内の結社を探し始める。よく結社誌の俳句が載っていた『月刊俳句界』から『菜の花』を選んだ。一番近いことも一利あった。そしてどういう先生やどういう人たちがいるのかわからないまま、伊藤政美主宰へと葉書に俳句を書き、投函。『菜の花』No.706号(令和4年8月号)に晴れて新会員として載せられた。掲載句は3句。

 

  春惜しむ詩人の遺影かげりゆく

  夏の川底まで透けて白きかな

  芍薬のひらひら流るやうに咲く              

津 水越晴子

3 読書のむつかしさ

 もともとから集中力の無い私だが、精神障害にかかってから、拍車をかけるように読書が難しくなった。それは多重人格における特徴であり、多重人格ならではの宿命だろう。「幻聴」は良いように言えば、心の声。それを味方に出来れば必ず句作にも用いることが出来、活用次第では無限大の表現の源だ。

 「妄想」は見ている事物を捉えるにあたってたくさんの可能性を見せる。それが「自発的」な妄想か、「他発的」な妄想か、問を超えている。「妄想」も無限大に表現出来得る。いわば、素晴らしい病症であり表現方法なのだ。

 では、本当の問題である読書の方は? というと。

 読書をする時、どうしても心の声が現れる。それ(心の声)が突発的に常にあるという私は、どこからか、何の因果関係もない声によって悩まされる。それは幻聴の声という奴だ。幻聴の声が邪魔しない限りは、読書は続く。それでも、それはほんの数分間であったり、つづいて10分程度。次の瞬間には「別人格になっている」か、「妄想している」か、「幻聴の声がしている」かだ。そのいずれかが起こる可能性は常にある。そうすると、セルフケアを怠るようになるが如く、自分の殻に閉じこもるようになる。そういう自分で作り上げた病気という世界観はタイパとコスパが悪い。当の本人である私はタイパとコスパに一日中悩まされている。よって、読書を常識的に持続的であるべきものとして捉えたら、それはできないし、むつかしい。

 

4 精神障がい者の時間の使い方

 医師もそうだが、何よりも患者である私が思うに、精神障がい者という人は普通の人の普通にできる量の仕事・家事・趣味・日常生活の何倍も、下手すると何十倍も時間をかけて行うことになる。そして、一日にできる量は普通の人(健常者)の3分の1あればいい方なのだ。ここを厳しく糾弾されたら、精神障がい者というレッテルと共には、生きていけない。半ば社会のお荷物のように思われやしないか? こういう自問自答はよくある。だからこそ、お金の話にはなるが、働くことが困難であるとして障害基礎年金を得ている。

 

5 フラットな句会

 私から見ても、句会は非常にフラットである。多分『菜の花』や東海地区現代俳句協会青年部主催「つばめ句会」も同様だ。障がいがあるとか、そういったことを俳句で知られることはまずない。また、俳句において障がい者だから選ぶ・選ばないといった不平等も起こらない。必ず清記用紙に別の人が書くわけだから、そういう平等な場で切磋琢磨できるのは良いことである。今、俳句をしながら精神障がい者ということを明かしたが、私本人としては皆が皆気にするとか、これを機に精神障がい者を擁護することは必要ないと思っている。なぜなら、今でも十分精神障がい者である私は充実していて、ここで明かした通りの病症がありながら、健常者と障がい者という垣根を超えて俳句という文学で結びついているのだから。

 

6 精神障がい者という希望

 今後、ますます現代俳句協会が発展していくことを願ってやまないが、俳句というものがあることによって、精神障がい者においても、私という一個人においても、ますます希望を持って生きていけることだろう。俳句は対等にやりあえる、そこが素晴らしい点だ。私はこういう場を求めていたのであって、精神障がい者という人が一人でも多く(明かすことはないまでも)私の記事によって精神障がい者として生きる希望を俳句に求めていただけたら、こんなに嬉しいことはない。

 俳句はやりがいがある。それを実感してきた。もう俳誌『菜の花』も3年購読している。読み込みは甘いが、こんな私でも続けられている。続けていて、良いことばかりだった。精神障がい者にも希望がある。それは短詩型文学という一つの趣味における平等性、そして何よりも精神障がい者と感ずることなく今日まで生きがいとして俳句を続けてきたことである。現代俳句協会、ひいては俳壇の全ての人に感謝したい。