子どもの俳句
  ──目撃者の詩として──

川田由美子

 

  あなたの俳句は世界をながめる窓

  美しい気持ちをそだてる苗畑

  自分の歴史をきざむ部屋

  まわりの人人へのおくりもの

         (『俳句十代』裏表紙より)

 

 子どもと大人が集う俳句誌『俳句十代』は、「ものがたり文化の会」の創設者、谷川雁氏の〝子どもたちに表現の広場を〟という願いのもとに1995年4月、創刊された。(谷川氏は創刊2か月前の2月に逝去)。「ものがたり文化の会」(1982年~現在活動中)は、宮沢賢治の童話に親しみ、地学、民俗学、天文、気象、動植物について等々、賢治の万有学に学びつつ、谷川氏が人体交響劇と名付けた舞踏劇により賢治童話を表現する会である。「人体交響劇」とは、ものがたりを語る言語班、ものがたりに描かれた風景、自然、生きものなどを表す視覚班、ものがたりには直接的には現れず、深層部からものがたりを見つめる存在を表す聴覚班で構成され、賢治童話を重層的に再構築する。谷川氏は「ドーム感覚の造型へ」のなかで「ぼくたちの人体交響劇の観客は、最終的には宮沢賢治その人です。四次元の観客の前で四次元劇をやるのです」と結んでいる。日々の活動はにぎやかに、幅広い世代が集う。

 そして、子どもたちの俳句とともに『俳句十代』は30年の歩みを続けてきた。ひとりの人間がことばに出会い、ことばを獲得し、世界を描き、世界をつかんでゆく、そのかけがえのなさを、成長の過程のなかに刻みたいという願いが繋がれた。表現することと、「十代」の今を生きることを結ぶ場として。

 「子どもの俳句」というとき、「子ども」と「俳句」とはどのように互いを結ぶものであるのだろう。この結節点は小さな瘤のようであり、泉のように湧き出る水場のようでもある。ここが涸れでもしようものなら、「子ども」も「俳句」も微塵に消え去ってしまうのではという渇きを私に迫るものである。それは、書き手としての「子ども」の固有性と「俳句」という表現形式の持つ固有性との結び目である。この結び目はゆりかごのように、絶えず普遍性へとつながる助走の揺れを有している。

 今回、「目撃者の詩」という過剰ともいえることばを「子どもの俳句」に添えた。そのきっかけとなったのは、ミャンマー証言詩集『いくら新芽を摘んでも春は止まらない』(コウコウテッ他著)への、椹木野衣氏の書評(2025 1.18朝日新聞)との出会いだった。この詩集はミャンマー軍によるクーデターへの市民の不服従運動を反映した詩とエッセイを主とする。弾圧下でも消し去れない活字、持ち運び可能な詩やエッセイの力。「政治的である以前に、一人ひとりが目撃した千差万別な様相がある。こうした詩のあり方について著者のひとりコウコウテッは『抗議詩』や『抵抗詩』と区別して『証言詩』と呼ぶ。そして「市民が日頃から愛用しているサンダルが、過去から現在に至るまで『常に革命の重要な目撃者』でもあったとする」。

 目撃すること。見ることの圧倒的な何か。意識的にものを見る以前に、私たちは事物を見てしまっている。想念の中で見ることもある。それは純粋に事物の様相というよりは、私を、私の意識を投影している何ものなのかもしれない。それでも私たちは見ている。革命の目撃者とまでの緊迫はなくとも、日々の、日常の、非日常の、あるいは夢の、目撃者としての私たちがいる。

 そのように見ることと意識の関係を考えるとき、他者という領域や現実的な経験を広げてゆく途上にある子どもにとって、見ることは大人にくらべて、より主観的、直観的な行為なのかもしれない。さらに日々、新しい事物と隣り合い、触れ合い生きる幼児。ひとつひとつの事象は、幼児にとって自己を親密に投影するものの容として映っている。そのような幼児が発することばは、新しくものの成り立ちにまでさかのぼり、私たちに世界がひらかれてゆく感触を運んでくる。

 見ることのはじまり。ひとりの目撃者として世界を描く「子どもの俳句」。そのはじまりを『俳句十代』に寄せられた幼児の俳句から見てみよう。

  おかあさんくもが6ってかいてる
            みずき 四歳

 口頭詩ともいえる幼児のつぶやきには、幼児が内包するいのちのリズムがきざまれている。自然を世界を観照する眼。幼児にとって、雲も空も数字も、並列の親しさの中にいる。空をノートに、雲をペンに見立てるという概念の中でではなく、一気に主観的に感覚的に「くもが6ってかいてる」のだ。その全き感覚を受け止める母がいる。母を共鳴板として、幼児の主観はのびやかに世界との交わりを生む。

  はるのゆきはるもとけたよゆきもとけた 
            みずき 四歳

 季節の巡り。それは大きなうねりでもあり、小さく小さくほぐされた微小な事象の融合でもある。微塵に乾く土、大気に爆ぜる花粉、花びらのかすかな覚醒の気配。「はるのゆきだね」という声が響いたとき。幼児は、なだらかな丘のように自分のからだにつらなる季節を体感したのではなかったか。とけゆくゆきのひかりに、はるのからだを感じ、はるをまとったゆきが、今そこから消えてゆくのを目の当りにしたのだろう。

 

  かみさまがじかんどおりにゆきふらす
            照彦 五歳

  つめたいいきはきれいな白につつまれる 
            祥太朗 六歳

  かたつむりにょろにょろ歩く子どもたち 
            那奈子 九歳

  どんぐりとぼくもいっしょにひなたぼっこ
                             拓 八歳

  やぎのカフェおとなしいけどよく食べる 
            たまき 八歳

  新緑が私を迎える試験場
            理花子 十二歳

  切通し背中押すのは青葉風 
            新 十二歳

  一人きり入道雲とバスを待つ
            千緒 十二歳

 

 初めてことばを得てから、子どもたちは日々生きる中で、さまざまな事物を見、体験を重ねてゆく。その成長の過程にあって、見ることによって紡がれてゆく個々のことば。そのなかで蓄えられてゆく個々の「風景」。生きることと心を結ぶ「風景」が表現へとつながり、それは自らをはげます力となるだろう。そのことを示してくれる「子どもの俳句」である。